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6月9日
 「塩谷賢・注解」プロジェクトは、これはほんとうに長くかかりそうなので、「無理をしない」というスタンスを採用したい。具体的には、同姓同名の太田和彦氏がやっている「ニッポン居酒屋紀行」みたいにやっていきたい。
 塩谷さんの話を聞いていると、好奇心が賦活されてさまざまな事柄に関心を持ちやすくなるけれど、そんなときには明らかに(自分の)知的欲求が暴走している感もある。たぶん塩谷さんを恒常的に浴び続けて、茂木さんはあんなふうになった(なってしまった)のだろう、とときどき思う。「僕は18歳のときに塩谷と駒場キャンパスであって以来、PTSDになってしまったんです」とは、塩谷さんを誰かに紹介するときに茂木さんがよく言う台詞。
 師の機能とは、虚無の深淵であり、覗き込む弟子を放浪させることだ、とラカンは言う。たしかに。師を欲望する弟子の欲望を常にフローにさせることが師の機能だとうちも思う。が、「常識的な視点を失わないようにする努力」は必要。「なにが常識なのか?」という問いとセットにして、必要。
 塩谷さんの注解作業を行うにあたっては、その「常識的な視点」という橋頭堡を、どこに、どうやって構築するか、が大きな課題になる。当然、注解者はなにかの政治的イデオロギーや学派に(意図的に)依拠するべきではない。なぜなら、この場合、多数派の力を召還することにほとんど意味がないから。
 多数派の力を使うことに意味がないのなら、もう一転して、「塩谷さんの講義録の好きな部分、“聞かせどころ”だと思うところを集めて、そこを分析する」というスタイルにしよう。ということで思いついたのが、「居酒屋紀行」方式。
 上村氏にテープ起こしを頼むにあたって、「上村氏が重要だと思うところを強調しておいて」と言ったけど、まさに、「聞かせどころ」をピックアップする作業が、まず要る。じっさい、塩谷さんはマルクス、ニーチェ級に、言葉に「巫力」がある、と思う。つまり、『ブリュメール18日』を読むときに、私たちはマルクスの昂揚する身体に想像的に嵌入することを通じて「フランス革命をめぐる政治の力学」に触れることができるわけだけれど、この場合、マルクスは一種の「巫者」だと思う。そういう意味で、マルクスの言葉には「巫力」がある。
 長嶋茂雄を考えてみよう。長嶋茂雄はただ「守備しているときに来たボールは捕って投げる。攻撃しているときに来たボールはバットで打ち返す」ということだけに打ち込んだプレイヤーだった(「バットの音がビュッと鳴るようにしたときに、ボールに当てるんだよ」という彼の指導法がそれを物語る)。もう長島の記録はほとんどすべてを塗り替えられてしまったけれど、彼がプレイするときに観客に与えた快感は記憶に残る。たぶん、塩谷さんの周りの人が塩谷さんを語るとき、その口ぶりは、彼の指導を受けた選手が長島について(良かれ悪しかれ)語るときのそれにとても類似しているだろう。塩谷賢=長嶋茂雄に驚嘆するのは、その高度な能力に接することを娯楽として享受し、評価した結果ではない。そうではなくて、日常的な感覚では決して到達できない境位に想像的に私たちを連れ去るinvolve力が、そこにあるからだ。そう、台風や夕焼けと同じの類の「現象」のように。 台風や夕焼けの「味わい方」を、私たちは文化的な読解格子のなかで磨く。塩谷さんの言葉の「味わい方」を磨ける読解格子を作ることが、たぶんやるべきことなのだろう。
 塩谷さんの味わい方を(身をもって)示すための紹介法は、「ミシュラン」や「食べログ」ではなく、「居酒屋紀行」である必要がある。どういうことか? つまり、「ある店」を「他の店」と比較したり、その優劣を論じたり、類別したりするべきではないということ。「居酒屋紀行」は、地図もおざなりだし、紹介される肴もありふれたものが多い。つまり、「消費にアクセスするための情報」が弱い。「よさそうな雰囲気の味わい方」が、そこでは前面化している。そしてその「味わい方」とは、情報として、数値として、記号として、居酒屋を扱わないことなのだ(と思う)
 まとめると、「塩谷賢注解は、「正しいか否か」よりも「びびっと来るか来ないか」を軸にやっていこうと思う」。居酒屋紀行、あるいは蓮實重彦(というか、山田宏一)みたいに。じゃあその「びびっと」的目利きの制度の保証についてはどうしてくれるんだい? というところで、それはまた考える。





7月12日
塩谷さんのテープ起こしの件。ゼロアカ本の出版の“時計の針が早く進んだ”ことにより、いまスケジュールが乱れていることはご存知の通り。塩谷wikiのマネジメントも、上村氏の現行の仕事量を考えると、不可能。
なので、ここで仕切り直す必要がある。
制限要因をラインナップしていこう。まず、「塩谷さん講義関連に太田がリソースを割けるのは、いつまでか?」。これは「11年度末まで」。来年度の6月までにD論の初稿をあげなければならないから、「できるかぎり、11年の年末まで」。
だが、「冬コミに『BLACK PAST』の増刊号が出る」。上村氏は12月、それに忙殺されているだろう。また、「ゼロアカ本の出版記念イベント」で9月いっぱいも無理。
以上から導けるオプションは何か? 「短期間・集中テープ起こしを、何回かやってもらう」。奇しくも、いま上村氏のツイートにあったけれど、まさに「缶詰め」だね。
最終更新:2011年07月21日 10:21
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