劇評『トリスタンとイゾルデ』@新国立劇場(2010) 第二幕

感想の続き、第二幕の分です。

この幕はブランゲーネの告げ歌を境に性格が180度変わる。
(前半部)
「愛」~「力としての状態(の共鳴:吊橋効果)」の確認と強化。過去の生涯に沿って、そこでの出来事を、純粋な力の発露へと解釈しなおす。それによって過去の生涯は愛の発露としての過去を遡及的に?獲得する。二人、とくにイゾルデにおいて過去の生涯全体に渡る「独自=個人」の力の今への重ね合わせがなされる。その結果、吊橋効果の結果としての共鳴はますますその強度を増す。この強度の増大が主としてイゾルデにおいてなされている。第一幕から引き続いてイゾルデは心の力の極であるからだろう。イゾルデによる今への「独自」の力の重ね合わせが見通すことのできない力の重層化、力の闇を主導している。
この力が背景にある水と関わる。水は生成の源であり、イゾルデが「泉」を賞賛する。湧き出す底に光が届かない深く豊かに湛えられた水(指輪のライン川に通じる感覚があるなあ)。
ここでの二人、主としてトリスタンが述べる夜、死、昼の関係、夜と死vs昼と生、は通常とは逆である。
例えば、キリストは夜に生まれ、昼に3時に死んだ。(暗闇が訪れるが、それはキリストにではなく、彼を十字架につけた世界:我々に訪れたのである。そして彼が死すること、暗闇は同時に彼の復活と我々のより深い生(契約の実行)の一部だったのだから)生成の不可思議をもつ夜、我々に得体の知れない、我々を超える生の生ずるところとしての夜、我々を「超える」という一点で、我々は夜を恐れるのではないだろうか?
愛が純粋な力の状態であるならば、死もまた力として純粋であり、生成の力としての夜もまたそうである。だがそれらの関係はなんだろうか?果たして純粋な力の間に固定的な関係がありうるのだろうか?関係の設定自体が一つの動的な幻想であり、ひとつの演技、パフォーマンスではなかろうか?「トリスタンとイゾルデ」の劇的機能のひとつはまさにそのことを第二幕、第三幕において身をもって示しているように思える。
では、第二幕ではどうなっているか。
夜を死と並べるトリスタンの言説は、死の力をみていない。死は一幕から引き続き、「この世ならぬ場所/余地」、原欲望のパートを書き込むための不在の場所として扱われている。
ただ、イゾルデにおいてはズレ、移動が生じている。一幕でのこの世を押し流す力の入れ物としての死を求めていたが、いまや彼女は、そのような圧倒的な力を自らの生涯にわたって「独自」に重ね合わせ、今の愛=純粋な力の状態の強化・生成の機能を喜びと陶酔のうちにある。これと共鳴しているのは、死よりもむしろ夜である。夜は彼女にとって入れ物、身を隠す陰の場所ではない。夜はまさに今の彼女の力の身体そのものといっていいのではないか。(魔術が夜に行われることも重ねていいだろう。彼女は偉大な魔力の人なのだから)
ブランゲーネ~智慧~光(かがり火)はその表面をなぞることしかできない。彼女の魔力によるコントロールは、とっくにイゾルデの力の量によって圧倒されてしまっていた。いまや状況、つまりバレるとヤバい、という世界の予測、筋書きに従ってしかイゾルデに触れられない。イゾルデの力と同化した生成の夜の深奥、つまりイゾルデの心に届かず、むしろそれを見えなくし妨げる。イゾルデはトリスタンの登場前にブランゲーネを掻き口説く、この力に和せと。
この線でいけば、性愛の力の表現として、「トリスタン「と」イゾルデ」ではなく、「トリスタン「、」イゾルデ「、そして、、、」」として乱交パーティーになっても全くおかしくない。吊橋効果が二人で留まる必要はない。また一幕で触れたように、事の起こりが誰にでもあるごく当たり前の人の善性、優しさ、素朴な感情であるなら、博愛衆に及ぼし、母性愛も人類愛も性愛もゴッタ煮にした障壁なき力の純粋さへと向かってもちっともおかしくない。
(ある意味で最近の日本のアニメやエロ漫画雑誌、ネット上の2次元的世界はこの方向に進んでいるのではないか?一昔前のような生々しい、だから背徳感をスパイスにした劇画調ではなく、エロかわいいとか無邪気さと近親相姦、乱交、おとぎ話etc.が位相的なズレがなく融合しているような感じがする。それは、目的や価値という夾雑物を気化させた、自動操作、情報処理、ゲーム、遊びといった、ある種の純化のもとにある機能的共鳴として生じているのではないだろうか?ただ、そこでは恐れや超越さえもが、手続き的にシグナル化されてしまっているような気がする。)

しかし、乱交はおこらなかった。トリスタンの登場と「夜の賛歌」は生成の力としての夜と入れ物・状態としての死を結びつける。魔術が力への移行だとすれば、これは逆方向の動き、記号、言葉、状態としての観念への移行を促す呪術、催眠術である。規則の機能であり、一幕でイゾルデの力に引き回されたトリスタンがここでは記号の、規則の呪いという形で逆襲している。力には志向対象が割り振られ、純粋な力の奔流は対象に向けられるという関係、欲望・記号の形式を被せられる。「二人」、トリスタン「と」イゾルデという「関係」が召還され、力のカオスに憑依する。この憑依されること、関係の形式を蒙ること、それがイゾルデにとって「愛される」という受動態を授けることとなる。彼女にとってこの憑依は、受動態をもたらすゆえに、「力」と見なされてしまうのではないだろうか?
(もしかすると恋愛での「男の力強さ」「マッチョ」「支配されたい」という女の憧れ?などといわれているものは、このような誤認の結果なのではなかろうか。(誰の?女の、それを再記号化する男の?)もちろんそうでない、力の確認の場合も多々ある。だがそれはむしろ、誰にでもあるごく当たり前の人の善性、優しさ、素朴な感情が素直に吐露され、それを保つことのほうにあるのではないか?支配/権力という規則、存在性格の異なる水準のものはこの誤認によって力となるのではなかろうか?)
イゾルデの力は催眠術に掛かり、ブランゲーネ~智慧~光(かがり火)は、記号化されることにより、催眠術師の杖となる。ブランゲーネの告げ歌は、トリスタン「と」イゾルデへの移行の決定的な記号化、シニフィアンによる「愛」の記号/負債/欲望の構造への移行結果を呈示している。二人の愛は「見えない」のだ。なぜならそれは記号によって示される不在なのだから。
「トリスタンとイゾルデ」の「と」は、一幕からのこれまでは、力の共鳴、吊橋効果による「愛」の成立、「偶然」の現勢態を示しており、純粋な力の持つ「開かれた逸脱性」の共範疇的(Synkategorematisch)な表れであった。しかしここに至り、「と」は2項関係へと変貌する。トリスタンの夜~死~不在へと同化することで、記号としての関係、「と」による二極構造が「愛」を象るのである。
さらにいえば、この記号は一人称の私的言語ならぬ二人のみの二人社会の言語であり、ラカンのいう大他者(L’Autre)は直ちに「汝」となる。この「汝」は「相手の深奥にある心」であるが、それは力の純粋さから見れば、いわば幻の「汝」であり、夜の帳に隠された火明かり、本来不可能な光である。汝は血肉や涙、笑い、糞尿、精液や愛液、皮下脂肪と骨、イオンチャンネルによる神経計算網などを含みこんだ「そこにいるオマエ」ではなく、それらの彼岸に、本質というモードで立てられたいわば観念的な、言語の(無意識的)計算の可能性の地平にある存在(不在の名)なのである。

しかしイゾルデは、力への直観からか、死(~力)~昼について語り、夜~死~愛とのズレに気付く。だがトリスタンは、二人社会という、日常社会から見れば夜である昼へと、普遍性である照らし出す昼から隠された地としての夜へと横滑りし、「二人の」愛、関係としての愛の「永遠」、L’Autreであり欲望における抹消された主体[Sを/で打ち消したもの。フォントがありませんでした]のもつ抽象的、記号的なイデアとしての永遠、状態としての永遠を讃えて歌い続ける。

(後半)
マルケ王の登場。ここで第一幕のトリスタンの構造が記号、言語の次元で回帰する。トリスタンとイゾルデのなす二人社会は、第一幕のごく当たり前の人の感情の役割を演ずる。ここでは素朴な感情同士のコンフリクションが、社会の複数性、社会が人々の上に掛けられた網、あるアスペクトとして同時に存在し、社会の役割をなさしめることにおいて人々の行為という資源を奪い合う、という形に変換される。マルケ王はかつてのトリスタンと同じく社会をコントロールする知恵(規範・意味)であり、社会~心に対する対応策は王者の名誉である。
ここで殺されたのは素朴な心そのものである。役割、関係としての社会において既にそれは視界の外に出てしまっているのだから。トリスタンとイゾルデの二人社会的愛は、いわばモロルトを殺した剣の破片、素朴な感情の記号的痕跡としてマルケ王を告発する。
マルケ王はトリスタンと同じ弱さを発露する。彼は王者の名誉のため、素朴な感情を抹殺し、その代わりに錬金した「高貴な感情」を「昇華」という術での変形だと思い込んでいる。そのことの嘘を自らさらけ出してしまうのである。イゾルデを最も高貴な女性、いるだけで幸せにしてくれる神々しい存在、「私は彼女と一度も臥所をともにしなかった。」、、、これらが錬金術と嘘の告白である。素朴な感情の抹殺はそのようなことでは償うことはできない。女ざかりのイゾルデを毎夜孤独なベッドに一人残し、性の衝動に悶々とさせ、「高貴な女性」という名の下にそのような事実、可能性をも全て消去してしまう。
たとえば、夫が2次元萌えしていて妻にそのキャラを重ね、崇拝し「絶対領域」だからと手も触れず延々とセックスレス、しかもよき婦人像を親戚・近所からも期待され、自分がヨン様に惚れていることなど間違っても口に出せない、そんな女性にとって自分の境遇はどう感じられるか?といったような話だと考えることもできてしまうのだ。「淋しくも一人眠らん」のフェリペⅡ世のほうがどれほど素朴な感情に対して面と向かっている設定になっていることだろうか。
もし、嘘を嘘として分かっていたならば、マルケ王が統治の方便として自分の位置をわかっていたならば、なぜマルケ王は二人の逢引を見て「フフッ」と笑ってこっそりと帰らなかったのだろうか。押し殺し隠されしまっている幾多の素朴な感情たち、そのリストに「トリスタンとイゾルデ」という名を加えるだけのことではないか?
「底なしに深い謎に包まれた」人間の心が問題なのか?
それは自分が信頼するトリスタンと崇拝するイゾルデの心なのか?その方向はもちろんあるが、むしろ「深い謎」は、実相を謎としてしまう自身の心、謎を謎として受け入れられない、声高に正当性や真理を歌い上げ、世界を照らす光と自分の言動を重ね、その結果に驚き嘆き悲しんでいるマルケ王の心に深く根ざすのではないか?

彼は前へ進み出て自らが信じ込んだ嘘に裏切られる。自分の役割、対応策に頼り切ることで、実相を見ないということへの弱さをさらけ出す。
そしてかってのトリスタンとイゾルデが死へ向かったように、マルケ王は自らを絶望へと突き落とし続ける。彼の弱さはトリスタンの場合と違い、自らの方策に対する自らの不始末ではない。まさに王であることのもつ社会的・記号的な構成要件として実相を見てはならないのである。またイゾルデのようにあからさまに犠牲の位置にいるのではない。彼の位置はまさに支配者であることなのだから。マルケ王の見せる弱さは一幕のトリスタンとイゾルデよりもはるかに不条理である。それは自然に逆らうことでしか成立しないシステムなのだから。死という他所へ逃げ出すこともできない。そもそも逃げ出そうとするもののアイデンティティに対する脅威なのだから。それゆえマルケ王は死ぬわけにもいかず、ただただ絶望を深くするしかない。この絶望は「死に至る病」ではなく「死に至れない病」もしくは「死を超える病」であろう。キルケゴールなら完全に「死に至る」ことでキリストに出会える。しかしマルケ王にとってはその出会いの地点にいたることはなく、死んでも神はそこにいないのである。まさにマルケ王において「神は死ん」でいるのである。
この絶望、考えれば考えるほどその場に立ち竦んで深くなる絶望において心の強度は高まる。そこにマルケ王からの強烈な力の共鳴~「愛」がトリスタンとイゾルデに向けて迸る。死児に寄せる愛にも似た嘆きとしての愛が見出される。この愛への吊橋効果が二人に、特にトリスタンにおいて共鳴する。マルケ王は絶望において、死児への愛において「喪の作業」を遂行することができない。そのことがマルケ王の心の「底なしに深い謎」の一端である。だからトリスタンが「喪の作業」遂行しなくてはならない。だから彼はメロートの剣に自らを投げ出す。
なぜイゾルデがそれを引き受けないのか?それはマルケ王~トリスタン~喪の作業が全て記号的構造、負債構造に根ざした共鳴だからであろう。イゾルデはトリスタンの「夜の讃歌」の呪いにおいて、つまり受動性において、混同によって二人社会としての愛へと横滑りしている。しかしそれは彼女の積極的・内的なジェネリックな行為ではない。トリスタンという受動性(の記号)を書き込むペンがあって初めて彼女は二人社会の愛にいる子tができるのである。それゆえ喪の作業は愛を失うことなのである。
このことはイゾルデが死(~抹消の力)~昼について恐れをしめすことにも現れていると考えられる。彼女にとってマルケ王の告白は力の純粋さをめざしはするが、その純粋さが異質のものであると感じられたのではないだろうか。具体的な段階や力の発動では、この異質さは、純粋さという極限方向への引力によって覆い隠されてしまう。それゆえ彼女はマルケ王に対しても、またメロートに対しても、さらには幕切れで倒れ伏すトリスタンに対しても無言のままなのではなかろうか?

ここで、メロートの性格付けが問題になってくる。
彼はトリスタンをねたみイゾルデに懸想する佞人なのだろうか?
むしろメロートこそ挫折を知らないトリスタン、挫折を知らないマルケ王の臣としてのカウンターパートとして描いた方が面白いように思える。メロートは本当にトリスタンを尊敬し、その騎士道的名誉を保とうとして、自分の首が飛ぶことをむしろ喜んで待ち伏せの計に出た。そして二人の密会が顕わになるや、それを最も嘆き悲しんで、しかし<トリスタン>の名誉のために、輝かしきトリスタンという観念のために、ここに出来した出来事トリスタンを断罪せざるを得なくなる。ちょうど熱烈な信者が聖者や教祖を偶像化し、生身のその人の過ちを抹消するために生身に責任を負わせて偶像を維持しようとして、聖者や教祖を「愛」ゆえに殺すように。
それゆえメロートは常に構造的にトリスタンの分身であり、トリスタンが「最も信頼する親友」であるのだ。
イゾルデが二人社会にいられるのはあくまでも出来事トリスタン、生身のトリスタンとの関わりによるのであり、マルケ王の絶望の「愛」への応答には参加しない。そのイゾルデの替わりに二人社会の形で混同されて、絶望の「愛」へと共鳴する二人社会はトリスタンとメロート=事例と一般観念のなす、トリスタンの役割を記述する言語である心なのである。
それゆえメロートはもっと善人、騎士道の崇拝者として描かれるべきである。
するとメロート:トリスタンとトリスタン:クルヴェナールという、トリスタンの二面性もよく出てくる。
トリスタンに対してクルヴェナールはコントロールされる素直で素朴な感情であり、
メロートは目指されるべきコントロールのイデアを指し示す素朴な悟性であろう。

なぜマルケ王の絶望が起こるか?
この問題は「時間における持続・維持」においてコンフリクションが起こることによる。それゆえ「永遠」を持続・維持の極限として考えること、その方法として死の国を語るというトリスタンの呪いはマルケ王そして自らの二人社会の愛に対する悲劇を召還する声でもあるのだ。もし力の純粋さとそこでの共鳴としての愛・吊橋効果を真面目にとるならば、愛の永遠は永遠の今=一瞬の永遠であり、いわゆる持続は永久革命でなければならない。
ニーチェの永遠回帰をクロソウスキ的に考えるとき、そこにニ幕では見られなかった愛の表現が出てくるだろう。それは、生きている貨幣としての女体=イゾルデの性のもっと激しい機能性であろう。そうすればブランゲーネの告げ歌ではなく、1世紀早く『ムツェンスク郡のマクベス婦人』の音楽がワーグナーの悪魔的なアジテーションの力を持って実現したかもしれないのに、と残念に思う。
最終更新:2012年02月12日 03:18
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