第08回 2009年11月16日 > 01

●なぜ科学哲学が必要なのか
 僕自身はあまり科学哲学史が得意ではないので、共感的な話をざっと伝ったというところですが、もう一度確認しておきます。
 科学哲学というものがどういう定義なのかがまず分からない。しかし大きな方向性はありました。それは科学を対象にする哲学分野ということです。しかし、これは科学の範囲をどう取るかによってぜんぜん話が変わってくる。
 これは何かを対象に取る哲学ということで「○○学の哲学」ということです。このときいちばん問題になるのは、たとえば法哲学です。法哲学はほぼ完全に「法学の中の哲学」で、法を対象にした哲学と言ったら間違いなんですよ。というのも法という概念自体が合理性を問題にしているからです。そもそも法哲学の起源はプラトンの国家論にあり、ノモスという意味で合理性は法の一部ですね。そこに対する哲学的思考が法哲学ということになりますが、非常に細かい議論が蓄積されているため、法哲学の議論は法学者にしかできません。ロースクールに行かないと法哲学の講義はないんですよ。つまり、哲学者にはできないということです。
 同じ事がなぜ科学哲学に起こらないかは不思議だよね。本来だったらそうあっておかしくない。法学における法がノモスやノモロジカルを含むというなら、科学においても「法則」即ち自然法則という言い方でノモスやのもロジックを取り扱うわけです。しかも、科学はいまものすごく厄介なシステムになっている。科学哲学が、その内部における哲学的思考を意味するなら、それは法哲学と同じような立ち位置であってこそ自然なのではないでしょうか。
 しかし、実際にはそうなってこなかった。これは、科学哲学がまだまだ初歩的だということかもしれない。また、科学そのものが法のように大成したシステムにはなっていないということなのかもしれません。
 たとえばプラトンの時代における法哲学は、法学と哲学の議論にほとんど区別していません。そして、法は我々の生活に極めてダイレクトに影響していたから、ものすごくたくさんの分野に関って細分化していきました。その中で法学が他分野と接合してきたから、法哲学という分野にも独自性が現れてきたと考えられます。いま、間違いなく、科学がそうなりつつあります。でもその起こりが遥かに若いんです。
 科学哲学は、単純に思考における科学、という問題ではありません。思考において法則的に科学を考えるってことだけなら、アリストテレスの『自然学』の頃からあります。 しかしなぜ法が法哲学というレベルに上昇したか。法が社会的な事実として我々を縛るようになったからです。頭の中で考える話だけではどうにもならないややこしい状況を、法という体系を通して解けるようになった。
 科学で同じ事が起こったのは、まず科学革命と産業革命です。ニュートンを頂点とする科学革命自体は、学者が言葉で考えたことによって起きました。しかし、実際に我々に影響しだしたのは産業革命になるわけです。18世紀の産業革命によって科学分野の応用が我々の生活に入り込んできました。そして、そのベースとなる科学自体もやたらと進展しました。
 重要なのはその科学が、ニュートン力学には処理できなかった蒸気機関――即ち熱学だったということです。

●化学の哲学、数学の哲学
 さらに20世紀に入ると、産業的には化学が発展します。ところが面白い事に、化学の哲学ってほとんどありません。あまりにも難しいからです。たとえば何が化学式反応かという問題。一番簡単なH2Oを例に取りましょう。水素と酸素ね。でも、これって何を意味しているんでしょうか。現実にはどうなっているんでしょうか。ニュートン力学なら位置と運動量という話で一応ながら状況は設定できました。さて、化学式に従って、実際に物質が動いているところの中を見てみたら、何が起きているでしょう。……本当に分からないんですよ、この手の話は。
 これは、むしろ生物内部の生化学などでものすごく細かい部分を見だしたときに問題になってきました。昔、化学を工業的に利用しているときには、何がどれくらいの比率で出てくるかという効率と比率だけが問題だったから、こんな面倒なことは考える必要がありませんでした。効率の議論だけしていれば、産業として化学は成立したんです。
 産業としての化学が成立したということは、法律で言えば、この法律が分かってさえいればとにかく世界に影響を与えることができる、ということです。法律の専門家がたくさんいて、その未来の展望だとか、別様にいかなる法がありえたとか、そういうこと考えなくても作業できてしまうんです。こういう考えなくてもできてしまうことの強い影響が20世紀に至るまで続いた。この一番ひどい帰結が、第一次大戦における毒ガスの製造です。ドイツがコンツェルンととしてもっとも成功したのは実は化学なんですね。
 現状の科学哲学では、このレベルの議論はほとんどされてません。
 最近ようやく化学の哲学をやらねばならないということになりつつあります。それで手始めに、物質がそもそも何かを整理する必要があって、化学データベースっていうのが今作っています。恐らく物質の分類だけで何百万件という入力が必要で、それをつないで標準化することをどうやって行おうかということがまず問題になってくるんでしょう。
 ついでに言うと熱力学の問題も動いています。現在は、統計力学と言うものがあって、これが理論的にはうまくいっていますが、確率の問題が入ってくるので非常に厄介です。確率を哲学的に理解しなければならない。一応、数学的に処理する非常に精緻な道具として、速度論的確率論というものがあります。これに加えて統計理論が非常に強力です。心理学専攻の人は嫌というほどやっていると思いますが、そのような初歩的な標本設計を遥かに超えて、「標本設計に対する関数空間の信頼度がどうなっているか」というような、非常に抽象的なレベルの議論を速度論的確率論とのかねあいでやっているようなレベルまで行っています。
 このレベルにはまったく数学の哲学は追いついていない。
 数学の哲学と言われているものは、せいぜい構成的数学や計算可能性、解析学の取り扱いというような段階のものでしかありません。これは、数学の哲学らしき議論をしている論理実証主義が、数学を論理学に還元するプリンキピア・マテマティカのプログラムからスタートしてしまっているせいです。

●コントの実証主義
 こういう現状説明的な話になってばかりなので、私は科学哲学の議論に凄く不満を持っています。なのでこの話は、社会的な枠組みから考えて科学がどうなっているか、そしてそれを我々がそれをどう理解しようかという二つのレベルで考えていくつもりです。「科学の正当性」と「科学の理解の仕方」というところでしょうか。
 さて、ここまで言ってきたように、科学の社会的影響というものがずいぶんとあります。本当に我々を束縛するような影響として出てきます。だから、科学が問題を起こさないように、なんとか理解せねばならない。しかしその態度は非常に受動的なので、当時の人たちはみなイライラしていました。
 そもそも科学革命の前の19世紀ロマン主義では「反科学」をやっていたことになっています。人間主義を謳歌した時代ですね。確かに、科学を単に排除したいだけなら、社会的にいくらでもやりようがあるわけです。たとえば無人島で生活すればいいとか。こういうヨーロッパの流れに接しないで300年間隔離されていた日本の江戸時代のような鎖国政策も可能でしたから、ひきこもるという方法もあるわけです。実際、ある意味でロマン主義は知的鎖国主義だったと思いますね。でも、それではやはり立ちゆかなくなっていった。科学哲学が必要とされた。そのきっかけがやはり実証主義だったんですね。

 実証主義は、オーギュスト・コントというフランス人が言い出しました。
 彼の挙げる実証の特性は6つです。「現実的」、「有用」、「確実」、「精確」、「建設的」、「相対的」。
 現実的は英語だとpositive、つまり実証主義はpositivismです。この点、実証なんて言葉はどこにもありませんが、科学を肯定しようという態度ではあるわけです。これは否定的なロマン主義と正反対ですね。
 このとき現実的とは、形而上学に行くな、という態度です。目に見えない方向に行くのではなく、目に見える方向に行く。つまりこれは経験的ということを言い換えたんですよ。これは、科学は経験を超えた世界には行っていないという、ニュートンの立場と同じです。デカルトやライプニッツは「なぜそれが起こったか」という議論をしていましたが、ニュートンには「なぜ」がいらなかった。「いかに」という態度で正確な定量化をやってきた。だから彼は万有引力が「なぜ」成立しているかという問いには答えなかった。この点、むしろニュートンの哲学的な背景としての万有引力は、ある意味で汎神論です。神様が常にそこにいて働いているんだ、という理解だったんですよ。しかし、こうなったらこうなるんだ、という形で世界を決定づけているものを、正確に決定しようというのが「精確」に対応するわけです。それは定量性という問題です。
 こういう筋道があるので、実証っていう言葉から「確実」という議論が出てきます。偶然ではなく、いつでもこれが使える。科学が法則的だという態度は、いつでもそれが使える事実が支えています。だから、それら全体の確実性が重要になる。
 「有用」は、無用の知識を持っていてもしょうがないということ。「精確」は定量の問題です。「いかに」をきっちりと区別するというべきか、同一性の再生ということを、描ける範囲でなるべくきっちり描こう、ということがコントが言ってたことです。
 こういうことを組み合わせて考えると、経験がバラバラなものではないことがわかります。 また、それがいつでも確実な経験かどうかもわかります。 さらに、ここから組織論的という発想も出てきます。「建設的」ということが、「有用」「確実」「精確」から現れるわけです。これらの組み合わせとして、色々な思考が可能になるわけです。
 最後に「相対的」ということが入っています。絶対ではない、ということが重要です。例えば論理実証主義は、ラッセルの「論理的単子論」の影響で、経験的なベースを論理に限っています。論理の経験的基礎は論理学ですから、そうなると論理学が絶対化してしまうんですよ。
 しかし同じ実証主義の立場で経験を思考しながらも、コントは相対的であることを重要視する。なぜか。非常に難解なんですが、コントの確実性は組織間の確実性を意味しているという事情があります。コントは知らなかったのかもしれませんが、数学と論理学の様子を見るとその意義がある程度分かります。論理学では推論規則だけが確実だとされていました。しかし後に数学で、公理主義という概念が出てきます。ユークリッドの公理は5つあります。しかし、例えばそのうちの一つ「平行線の公理」を証明しようとすると、実は証明できません。しかも、平行線の公理が違っていても大丈夫だということが19世紀に分かってしまいます。絶対確実だと思っていた数学でさえ、ベースにおいては相対化できると公理主義は言ってしまっています。(そして論理実証主義は数学を論理学に還元しようとした。)
 コントは、こういうシステム内の組織的なものの間は確実性で繋がれなければならないが、全体の布置とすれば相対的である、と言っているんです。実際、コントの六つの項目を見て、相対的だけが凄く問題であるという感じはありません。どうとでも読みようがあるし、一つだけ取り出して正しいも間違っているも言えません。だから問題は、具体的に当てはめるときにどうするかにあります。ある意味では、どこに相対化を認めるかがコント的な実証主義の争いなわけです。
 しかしコントという人は、これだけのことを考えていながら、実際の科学に対しては何もしていないんですね。前にディルタイの話をしたときに出たと思いますが、この時期には社会学を諸学の学として成立させたいという思いがありました。どうしてかは謎ですが、僕の解釈ではさっき言ったような、社会全体の存在が知的な問題に影響を与えている。それをポジティブに受け取ろうとしたとき、科学ベースは物理学だと思います。確かに、現実に影響があったのは化学の熱力学でしたが、発見や予言というものをいちばん綺麗な形で示したのは物理学だったんです。化学は何かを予言というよりも、いろんな物質を作っていくときの発見的方法として発展してきました。だから、あくまでも物理学が、我々に対する影響という点ではいちばん重要です。
 だからそういうものを全て含めてこの世の中はどうなっているのかとい問いを統合しようとして社会学が現れたときに、コントは交差させたんです。しかし持ち上げたはいいが、それ以上何もしていない。
 これは面白いことにフランシス・ベーコンやロジャー・ベーコンもそうなんですよ。この二人は科学革命のスタート時に、ルネサンスにおける色々な発見と古代の回帰のイメージを膨らませました。デカルトの発想と同じように、フランシスの『ノヴム・オルガヌム』などが、今日の科学の理念を打ち出して大きく宣伝したわけね。それが科学革命に至る知的潮流のベースの一つだと言われている。
 コントもまったく同じように何もやってないんだけどアジテーションはやった。それが後に19世紀末から20世紀初頭に関する社会学的な、あるいは人文科学的な学の統一を社会学のレベルで目指していく流れのベースになった。余談ですが、社会学はディルタイ的な精神科学までも取り込もうとしましたし、実際に影響も受けているんですが、最終的にはほぼ失敗してしまいます。

●新カント派
 さて、同時期にもう一つ、広い意味での科学哲学の影響下にあったものとして新カント学派がいます。実はこれこそが日本の哲学にものすごく影響を与えて原型になった連中です。新とは言いますが、実際にカントが歴史的文献学的にちゃんと受容されて始めたのが1850年代の全集発売、即ちこの頃です。
 新カント派は、現実性を問題にしたときに、形而上学はいやだという点では実証主義と共通していいます。というのもニーチェなどのロマン主義の中で、形而上学がいかにも形而上学的なイメージで捉えられてきたところがあったんです。
 経験を組織化する論理は誰なんだ、と言ったらカントなんですね。経験に対して組織化ということを経験自体の立場に対してやったということがカントの第一批判の仕事だと。つまり、カテゴリーと感性だった。ヒュームやロックはもちろん経験論をやってたし実証主義ですから広い意味で入れてもいいんですけどね。
 それをこの段階でもう一回捉え直そうとした人たちがある意味では新カント派です。つまり、科学的な時代においてカントがやっていた経験の組織化と、批判哲学をやり直そうとしたわけですね。あるところを踏み越えて形而上学に行ってはいけない。
 カントの二律背反は、我々の認識・知ること・妥当な知識の限界の問題を形式的に議論したものです。それに対してドイツ観念論の、フィヒテなりシェリングなりヘーゲルなりといった人々は、存在の問題にまで踏み込もうとした。そして、形而上学の悪しき城に入ってしまった。そこを一回戻りましょうという話です。
 しかし、今度は科学のレベルで考えなければならない。ここで微妙なのは科学ということ自体が単に見ている知識だけの問題ではないということです。さっき言ったように、これは我々の生活に強い影響を与えたもののベースです。だから本来なら、存在の問題にも関わるはずなんですよ。そこを踏みとどまって、経験の中でこれはどうなんだという立場から見ようという非常に細い道を頑張ろうとしたわけですよ。

●新カント派のマールブルク学派
 新カント派の大きな代表は二つあります。
 一つはマールブルク学派で、大物としてはヘルマン・コーエンというユダヤ人。それを継いだのがエルンスト・カッシーラー。先生と弟子なんです。で、もう一人がローゼンツヴァイク。この派の特徴は、極めて論理的なことです。コーエンはカントをきちんと注釈しなおすことを考えていました。それをだんだんと拡張させていった。最初は三批判書をきちんと読むということから始めたんですね。カントはニュートン物理学の紹介だという読み方もずっとあったんですが、コーエンの論理的な立場においては、別にニュートンという特定のものに関わらなくてよくなりました。もっと図式的で可能な限りの思考に対する枠組みを作った。経験を組織化するカントというイメージをもっとも綺麗に打ち出したのはコーエンです。
 第一批判に対して、『カントの経験の理論』という本を1873年に出しました。第二批判には『カントの倫理の基礎付け』、第三批判には『美学の基礎論』という本が出ています。この辺りで、カントの言う超越論的という概念から「経験の可能性の条件として」という部分をはっきりと取り出して議論し、体系化していった。
 このことによって、コーエンの場合、感性の働きが非常に弱くなっています。基本的に悟性のレベル、悟性の自発性というものに重きを置きました。(これは九鬼一人さんという私の先輩に当たる専門家の教授を頂いています。)
 ともあれ、感性論も理性論もあまり議論されていない。というのも、特に理性論には踏み越えてしまう可能性があった。純粋理性批判の序文などがそうですが、理性は我々の限界を超えて先に進みたがる。そうではない、という批判のために行われたのが悟性の議論です。
 理性が分をわきまえるようにするにはどうしたらいいか。その上で初めて人倫の形而上学の基礎付けに行こうとしたのがカントなのだから、悟性が中心になるのは自然である。この悟性の自発性という概念を中心に考えようとしていたのがヘルマン・コーエンでした。
 もう一人、カッシーラーはものすごく多彩な人で、20世紀の科学哲学にもある意味生き残っています。『アインシュタインの相対性理論』という本がありました。私は哲学関係で最初に読んだんだけど難しくて全くわからなかった。量子力学にも言及していて、因果性の問題を考えた『実体概念と関数概念』という本があります。最後には量子論と相対論の接合みたいなこともやっていました。
 彼は最初のユダヤ人の大学総長(ハンブルグ大学)なんですけど、ヒトラー政権の問題で国外逃亡しちゃうんですね。そのときやっていたのがシンボルの研究で『シンボル形式の哲学』という本があります。ヴァールブルグの言う文法やフンボルトの言語学や神話学といった19世紀後半に集められた成果がいっぱいあって、その中からシンボルというものを取り出して議論したものです。(当時はソシュールらが現れて新しい言語学が出てきた時期なんですが、それは彼は見ていないんですよね。)
 カッシーラーが言うシンボルというのは現象学的な概念です。でもフッサールの現象学ではない。こちらは超越論的主観にどういうイメージが乗るか、という知覚モデルです。カッシーラーの方はヘーゲル的な現象学です。そこに出ている概念なりシンボルなりがどのように自己発展していくか。その自己発展の生物的モデルを利用して概念を考えるという意味での現象学をシンボル形式の議論に援用している。そのベースとなるから、科学がどうなっているかと統合しながら(理論を)描こうとしていました。

●新カント派の西南ドイツ学派
 マールブルク学派に対して、西南ドイツ学派があります。これはむしろ価値哲学に重きをおいた人々です。有名なのがヴィンデルバント、ラスク、そしてリッケルト。彼らが向いたのは社会学の議論に対する説明の仕方なんですね。自然科学の説明は一般的な法則が重要であるという議論があります。ドイツの新科学哲学者ヘンペルの包摂法則モデル(Covering-Law model)というのがあります。自然科学には、一般的な状況を説明する類的な法則がある。それに対して適宜演繹することによって説明するというものです。
 西南派の彼らがしたのは人文科学的説明なんです。この二つは、同じ科学であっても説明の仕方が違います。歴史法則が可能か否かは未だに歴史哲学の問題です。自然科学は一般法則に包摂されるものとして考えている。歴史において、我々はものを理解することができる。しかしその歴史の説明は何によるのか。一般法則によるのか。そうではないだろう。歴史はあくまで個別であって、集団のタイプを扱う。そうでなければ実験を繰り返す意味がないですよね。だって個別なら繰り返した実験はどれもまったく別物なんだから。それによって何かを言ったら矛盾してしまう。
 自然科学においては、特に物理学を見る限りは、基本的に一般法則と個別の法則に違いがない。それに対して歴史は一回しか起こらないはずだ。だから歴史というのは何かが繰り返したという話ではない。もし想定できるとしたら、仮に一般法則があるとしたら、それはこの世界じゃないところにあるしかない。でも、この世界ではない世界を考え始めたらもう形而上学でしょう。
 ということで、歴史に対する個別の記述を一方ではやらなければいけないし、他方ではタイプ的に、類的法則性でやる。確かに説明の原理が違うものの、それぞれやっぱり独特に科学なんですよ。
 この辺の違いにはヒュームに近いものがあります。実証主義だからにはまず経験なんだ、という理解の仕方もいっぱいあります。イメージ化していえば、ヒュームがいったように「因果なんてものは伝説に過ぎない○○という形で、我々が組織化するときに相対化されるんだ」という形で経験論的に徹底化していけばヒュームになりますよね。
 それに影響されながらカントがした「それでも何かアプリオリズムというものが世界にはあるんじゃない、それが世界の仕方なんだ」というような話を、科学革命産業革命が進行した世界の理解のために、あてはめようとしたのがこの二つだと僕は思っています。
 でも、二次大戦のあたりからいきなり凋落してね。有名人が大体このへんで死ぬわけです。しかも、世界中に対するその影響はものすごく大きかったんですよ。ロゴスっていう雑誌を作ってたこともあり、もしかすると論理実証主義に対するある種の影響というものがマールブルク学派からあったかもしれない。
最終更新:2012年10月03日 14:14
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