●新カント派の問題点
論理実証主義がベースにしていたラッセル、ホワイトヘッド、ムーアが誰に対して喧嘩を打ったかといえば、イギリスのオックスフォード理想主義と言われている新ヘーゲル派です。これが何をベースにしているかというと、実は新カント派に影響されているイギリス人がオックスフォードで紹介しだしたってことにあります。学説史なのでちゃんとそちらで研究しなければいけないんですけどね。
分析哲学に至るもっとも大きな起源、数学の哲学の起源として考えると、カルナップがなぜ経験のレベルでそれをやろうとしたのかが分からない。数学の哲学なんだから経験なんてやめときゃいいはずなのに。もちろん単純にヤツが誇大妄想狂だったからという可能性もあるんだけど(笑)。それよりもむしろこういう流れで諸学の諸学とか、全人的な理解をやろうとした中でこの立場にたってやろうとしたのがカルナップだったと見たほうがいいかもしれないですね。
最大の問題は「どうやったら科学そのものの中に入って議論できるか」ということにはなってないということです。遠くに行ってしまった科学を何とか受け止めようというとき、その心構えをどうしようか、という話をしているのに近いんですよ。
数学から直に入ってきたレベルの議論が含まれているのはヒルベルト周辺です。ここらへんは数学の中における科学的な、あるいは哲学的な話で、公理主義とか論理主義とか形式主義と言われている色んな理解の仕方を、具体的な公理とどう突き合わせようかという形で議論された。ここが接点ではあります。
もう一度こういうレベルに上がってくると、そこをキーにして一般的に理解の仕方を広げるにはどうしたらいいかという話、方法論の話になってしまった。論理実証主義に対するポパーやクワイン、ヘンペル、クーンの批判は、この流れに対して、どういうフレームがよくて、どういうフレームが悪いのか、という議論だったんです。ここで内部的な心構えの批判が行われたわけです。我々がシステム論を考えるときのヒントがこの辺の論争からいっぱい出てきています。
もうひとつの問題は、ポパーは例外の可能性がありますが、この連中が今言ったような文脈での議論をしてないということです。言語哲学へ至るところでの一つの大きな批判に、意味のある命題の意味が正しいと確信する方法は何か、というのがあります。
検証というのはイエスかノーかが言えることによっているんだけど、そんな決定実験はないよ、とクワインが文句を言いました。それでカルナップは。検証では強すぎるので確証という言葉に格下げします。違っているかもしれないけど信じるということです。こういう、人文科学と、自然科学の説明ということをどうつなげるか、という話は、大きくは出てないんですよね。しばらく後にやるつもりですけど、この部分の二つに対して面白い形でつなげているものがあります。
●行為の理解、ヴィトゲンシュタインの場合
行為の理解というものは、本質的には、常に個別の行為の理解です。ヴィトゲンシュタインが前期に言ったように、我々の私的言語は存在しない。けれど心の中の気持ちはある。
たとえばウキウキしたときに「C」という文字を綴ると。11月11日にCと書き、12月1日にまたCと書く。この二つのCは同じ気持ちを示しているのか。そんなことはできないとヴィトゲンシュタインは言っている。なぜなら、私が内観として感じているものには逆らい難くあるんですが、それがそれであると確証する手段はない。今日のウキウキが昨日のウキウキと同じである保証がどこにもない。記憶が正しいことの証明など、他の要素がない限りどこにもない。
同じような議論を「規則に従う」という有名な議論でやっています。プラス・クワスの例なんですが、足し算をしているとき1000までは同じなのに、1000より上は全部、計算結果が5になるというような理解をする人がいる。こういう人にルールをどう理解させるかという難問として出ていて、いまだに答えがないんですよ。
同じように我々が何かを確証するということは、どのように可能なのか。逆に言うと、絶対的な基準がなければ分からない。
そうしたときに、私の気持ちを言語に乗せて表すとはどういうことか。
ヴィトゲンシュタインも心がないとは言ってないんですよ。でも、心をちゃんと表現できる言語があるということは、言語としては認められない。なぜなら言語というのは、他人からも読めなきゃ言語にならない。その意味で同じ意味を持たない。だから、意味という、言葉のベーシックな部分をヴィトゲンシュタインはずっと考えてたわけです。
こういうとき、意味は何らかの形であるんだということが前提とされる。特に検証理論においては強く、意味という部分が確定的だとなってしまう。かつ前期ヴィトゲンシュタインに従って内観的なものはダメだから、外延的なものとして意味が確定されると考えたわけね。
それで、意味の確定を合理的な手続きでできるかということを考えた。
ところが、現在の科学理論で絶対に正しいと確証できる命題なんてあるのか。
だって数学だって、当時はみんな絶対的に正しいと思っていたわけだけど、後にゲーデルが不完全性定理を出したわけです。ヒルベルトプログラムのときにユークリッド幾何学がグラグラして、ユークリッド幾何学に反するのに正しい命題が出てきたりもした。
しかし、非ユークリッド幾何学が認められたのは、ユークリッド幾何学の内部にユークリッド幾何学のモデルが作れたからなんです。ユークリッド幾何学があるから非ユークリッド幾何学も成立しているし、僕らもまたユークリッド幾何学をベースにして理解することができる。
このように何か確実なものがないと思考はできないけど、確実なものそのもののは確実じゃない。ちゃんとステップを踏んで人に正確に伝えることができるというのは、有限なステップの範囲では言うことができない。ということが数学のあるタイプのことには言えてしまう。
サイエンス自身もどんどん変わってきちゃうし、むかし間違いだと言われていたものが復活してくることもある。考えている範囲を広げると色々なものが入ってくるから、見方が転換する。
そこのところでポパーが言うのは、科学的に意味があるのは、反証可能性があるからである。サイエンス自身は至っている極限に意味があるけれど、極限の意味には行けないから、手前まで近づくための手続きとして反証可能性があることが有意味だというんですね。
●デュエム=クワインテーゼ
ところが、クワインたちはちょっと立場が違ってくる。
どちらの陣営も、極限に意味があることは承認します。論理実証主義はそこに直接辿りつけるということにしている。ポパーの場合は、辿り着けはしない。が、批判的合理主義という言葉があるように、極限を理念として、そこはあるとする。
が、クワインがとんでもないことを言い出した。デュエム=クワインテーゼというやつですが、理論は全体として絡み合っているものだから、どの部分がいま問題になっているかを自問することが非常に恣意的だと考えます。
意味のベースになっているのは命題論ですが、命題が命題として身分が定まっていると見る。しかしこの問題は、実はロッツェの「妥当」という概念など、大量に議論があるんですけど、それらがベースになっているんですよ。新カント派のヴィンデルバントがある議論をします。判断論です。判断が正しいとはどういうことかを考えて、実は妥当というのが、客観的可能的恣意において成立するといいます。たとえば数学です。
ギルティッヒという概念は、現実的恣意におけるものである。時空の中で判断をしているという限定された状態において成立してくるものだという。数学の証明があるよね。初めて誰かが証明したとするでしょ。証明が正しいってどういうふうに正しいの? 証明自体は超時間的で、時間的なファクトは入っていない。ところが、きのうリーマン予想の話をNHKで見たんですけど、証明が超時間的だということは、これは決定しているのか。そうじゃない。誰かが証明しないとわからない。もしくは、ユークリッド幾何学のときみたいに独立で正しいときもある正しくないときもあるというふうに、分かれることがある。
というふうに、判断っていつ成立しているかによるんです。フェルマーの定理は証明されましたから、今や内容は超時間的です。でも、証明されるまでは、わからなかった。だから最初からフェルマーの定理があります、という世界がイデア論的に前提になるわけね。
でもそうではなかったかもしれない。後追いの知恵で言えるだけ。
こういう風に、客観的可能的な恣意と、現実的な恣意の区別は、数学になるとベーシックに問題になるんです。その話を新カント派は、理論的に、妥当性を判断という思考の能力として分析していたんですよ。
ところが、科学からこっちに来たときにそういう主観的な発想が消えちゃうんです。だけれども、だからこそ彼らは最初にこういうことを言っていたんですよ。検証理論においてはそこに意味があるはずだと。
しかし、現実にあてはめようとしたとき、科学は近づいていくしかできないから反証可能性というしかない。これは、我々が現実に科学をやるときにここまで超限化するものなんてないんだから。これの逆に当たるものが入っているんだから、と考える。
●クワインの問題意識
クワインは何を考えたかというと、さっき言ったみたいに、命題に対して、どういう風に命題を組み合わせるか。命題の単位をどう考えるか。それをどうやって決めるのか。ということです。それが彼の一番の問題。
非常に有名な[板書]クワインが出した三つの有名な説明を言うと、翻訳の不確定性、指示の不可測性、決定不全性です。これらは、何かを決めるときに焦点を絞ることができないという三つのテーゼです。
これがどこから出てくるかというと、二つのドグマという概念がありました。分析命題と総合命題の区別。実証主義のベースとしてずっとありました。あるものは、あるものの別の概念。主語の中に別なものの述語が含まれている。だからそこから中を探っていけばAはBだっていうBの概念が出てくる。ライプニッツは、神様の立場からは全ては分析命題だって言いました。だからシーザーはルビコン川を渡ったって命題も、神様の中からはシーザーに全部入る。だって予定調和っていう神の概念だから。
総合命題はカントがいった話です。お互いの内部に概念としては別に存在しているのに、結びついて真なる命題を作りだすものがあるということ。カントが問題にしたのは、経験的な総合命題は存在するけれど、アプリオリな総合命題は存在するかということです。
それに対してクワインは、その区別がいいかげんだと言った。なぜか。主語を設定するということをどうやってできるんだと。ある単位を取り出しているというのはどういうことなのか。僕の言い方ですが、システム論的に言って、あるものが存在するというのはその関係の中で決まるだろうと。だから一義的にこれが概念ですよとぱっと指して決めることはできないだろうと。
クワインの厄介なところは、彼が物理神学であることなんですよ。後に認識論の自然化と呼ばれます。彼は物理学における因果の絶対性は信用していた。問題は、因果は、物理のシステムの間で起こる事象であって、言葉の問題じゃない。
投げた、って言うか、筋肉がアクチンとミオシンが働いてここが離れて重力が作用したと言うかで、全部言い方が違うんだけど、物理が起こっている因果だけは確実だと。だからその因果を確実に描いている物理学だけは大丈夫だというのがクワインの思いなんです。
その因果の形式化のために必要だったのが古典二値論理だったり、述語論理だった。クワインのドクター論文はプリンキピアを述語論理で書きなおすというものでした。
そういう点から言うと、普通の言葉というのは、今言った物理学的な限界から見たらものすごく荒っぽい。
そして二つのドグマの問題がある。一つは分析と総合の命題。もう一つは還元主義と感覚与件の問題。
後者の還元主義と感覚与件の問題が微妙で、還元というからには感覚与件が全て完全に組み立て直されるはずだということです。ということは、情報は失われないはずです。
しかしクワインはそうは考えない。情報が失われているかもしれないじゃないか。これは還元を物理学的な関係性の間のものとして考えているからです。これはカッシーラーの関数概念を思い出すとある程度分かります。そもそも、因果概念を関数概念に置き換えるというのはラッセルがやったことです。物理学の方程式は原因・結果と言わないで方程式上は全て関数で書いているわけです。
外的な関係から決定が行われるということは、どういうふうに関数をまとめるかで結果が変わってくるということです。
従って中核になる部分はあるんだけど、それをどう膨らませていけるか。そのとき、普通の言語が持っている範囲において、全部の情報を持っているところまで還元できるのか。それがクワインの問題意識でした。
●3つの決定不全性
理論の決定不全性とは何か。データが与えられる。そのデータの合致した理論は、一つに定まらない。データの単位が何か、ということが非常に恣意的である。物理的に起こっていることがそこにあるのは間違いない。でも物理的に起こっていることだけを解釈するんだったら、それは物理の世界そのものでしかないわけです。それでは理論にならないんです。
クワインが言う物理的な確実さというのは、個別の因果の確実さです。物理学まで上がってくると、確かにそこが最も物理の確実さに近いんだけれど、全ての状況を全て書き出す物理の法則というものは無理なんだよね。ある部分だけがこうであるということしかできない。抽象にならざるを得ない。
抽象の仕方が、時空間分割という形での妥当性を持っているというのが彼の意見です。
でも、理論である以上は何か消去しているものがある。その消去の仕方が、どの理論部分を対象にしているか。単位をどう取るかによってデータの合致性は違ってしまう。そして、理論はいくらでも言い逃れができる。ちょっと組み替えたらいくらでも違うものが出せる。そういう意味で、理論は、ひとつのデータが決まったら出力も決まる、なんていう保証はどこにもない。理論――精確に言えば科学理論の決定不全性はこういうもので、むしろプラグマティズムになっちゃうんですね。だからネオプラグマティズムなんて言うんですが。理論に関するプラグマティズムですね。
さらにややこしいのが指示の不可測性ってやつですが、これも単位をどう設定するかという問題です。これで有名なのはうさぎの話です。現地人がいる。うさぎが跳んでいる。現地人が「ガヴァガイ」と言った。うさぎが跳んでいる、という意味だと思うが、そうじゃないかもしれない。うさぎのしっぽが動いていた、とか色々な可能性がある。
ここにも単位の設定の問題があります。だから、仮にイエス/ノーが分かるという程度の状態で言語を学ぼうとしても、決して単位の問題は扱えない。どこがこれかは分からない。私の言葉の使用法において辻褄があっているかどうかでしか分からない。
事例で言うと分かりやすいんですけど、本当のところはどうなの、と言われると「確定するものは存在しない」としか言っていないのでわかりにくい。いちばん強烈だったのは、数学の「数」に対するインパクトです。数はどのように指示をするか。たとえば、「1」という概念があるとする。これはなに、と言われたときに1でしょうとか言って指を出すとかしても、それは経験の1だから問題があるのね。数学の1じゃないといけない。たとえばN+1がNと違う、というのはすぐに分かる。しかし、時計を例に出したら、これも差異があるんだけれども、回っていくと戻っちゃうよね。12=0だから。「1」という言葉の使い方は、背景にどのような理論があるかに依存しているんです。
さらに言うと、これがはっきりするのは自然数Nという概念を考えたときなんだよね。Nは確定しているとみんな思っていたところに、ゲーデルが、モデルは確定しませんよ、って言ったんだよね。どんな手続きの概念に対しても数学的には同値性が証明できますよっていうのが、数学における「絶対」の概念です。たとえば順序数がそれです。
ところが指数概念は絶対ではない。123って順番に並べていくことは手続きが明示的なので絶対です。ところがΩ+1、Ω+2、……っていう風に並べていったときに、もう一個足して並列させると、列は違うのに量としては対応させることができるんだよね。列は違うんだけれども、量は一緒だよね、っていうのがカントールの定義です。それをやると、ΩとΩ+1は一緒なんだよね。一対一対応だから。ということは、指という概念は絶対的ではない、ということです。
ということは、直接は自然数ということが定義できなくなるんですよ。数学のレベルですらこれが起こってしまう。さっきのは1を大限である、っていう概念を使えればね。自然数の大限なのか、7の剰余類なのか。ちょっとずるいですけど。これを応用した超限解析っていう非常に強力な数学的思考もあります。
このように、指示の不可測性の例は数にさえ及んじゃうんですよ。面白いのはこれに対して文句を言っている人がいます。ガレス・エヴァンスというイギリスの若くして死んでしまった分析哲学者がいるんですけど、彼の論文の中にいくつか批判があって、人間は考えている限りそんなことはねえよ、お前がダメだと言っている実例はダメだよ、とか言っているんですね。しかし彼には実在論の前提があって、それがどのようなものかによって大きく変わってしまいます。
翻訳の不確定性も同じような問題です。ある文章があるとする。それが何を指しているかは、言語が違ったら分からない。どこまでが文としての区切りかも分からない。形態を見るしかない。それを見て「こうだろうなあ」と思うしかないが、確実に一致する保証はどこにもない。確定する部分が絶対にないとは言いません。でも全体がきっちりするようなマニュアルの作り方は保証できない。常に怪しい。
昔は博物館のモデルで説明していました。展示がされていて、そこに名前がついている。しかし、それが名札であるということをどうやって理解したらいいのか。
ヴィトゲンシュタインはそれを生活様式の問題として考えていました。エヴァンスの議論もある意味で、我々の因果的部分と生活形式の一致として考えていた。クワインも言語のレベルでは翻訳の不確定性はダメだと言っていました。が、ネオプラグマティズム的な側面では、うまくいきそうなもので勝手にやれ、という感じでした。恣意的な基準を取ればいいじゃん、ということです。
このとき具体的に不確定を確定させ、指示を確定させ、理論を徹底するためにどうしたらいいか。それは、物理主義が本当に動いていますか、という問題なんです。物理学は本当に根底的なものなのか。物理学の中でクワインがイメージしているのはニュートン力学のようなものです。量子力学のようなものをどうするか。クワインがこれらに何かを言っているということを僕は知りません。
こういう話題は、システムの議論をするときに常に考えなければならない。あるものが決定するというのは、常に外的な基準による。だから、別の基準によって、あの三つをなんとか回収するように我々はやっていくわけです。その回収の仕方が何であるか、そしてその仕方とその相対性をどう議論するかが問題になっていきます。
その一つの解答が、根底的解釈を唱えるドナルド・デイヴィッドソンなんです。行為を客観的にする。そのためには確定性をなんとか作らなければならない。しかし、ここにはそれをつくりだすことができない。ということは個別性において客観性を無理やりつくりださなければいけないということです。
この個別性と客観性という二つを繋ぐものとして行為を見るというのが最も根本的な立場の一つです。科学自身を行為であるというように見るためにはどうしたらいいのかが、いま目指しているところです。僕自身もまだ解答を持っていないので、手探りで考えていくつもりです。
最終更新:2012年10月03日 14:15