哲学の現代とは―ホワイトヘッドと現代哲学

※2009年10月24日(土)、中央大学多摩校舎で行われた日本ホワイトヘッド・プロセス学会第31回全国大会での公開シンポジウムでの発表です。
所収は「プロセス思想 第14号」2010年。(本テキストは所収の原稿のドラフトです)


 今回のシンポジウムのタイトルは“ホワイトヘッドと現代哲学”ですが、これをどのように考えるか、ということが既に一つの問いかけではないでしょうか?

 「現代」、英語を分解すれば、時(テンプス)を共にする(コン)、とはいったいどういうことでしょうか。私たちが時の流れ、世界のプロセスの傍らに立って「今」それを眺めていることによってある流れの中の位置を指示している、そのような「今」のことなのでしょうか。それともその流れの只中に巻き込まれ、時の奔流に溺れているのでしょうか。溺れているものは、果たして流れを知ることができるのでしょうか?

 また何に対してどのように時を共にするのでしょうか。私たちは「現代哲学」の、―ドゥルーズにしろデリダにしろ、アメリカのプラグマティズムにせよドイツのフランクフルト学派にせよ―、流れに対してどのように接しているのでしょう。私たちが現代哲学を考察対象にするということは、私たちはそれらの思想の外にいるということでしょうか。

 このようなことが問題になるとき、ホワイトヘッドはまさにそのことに問いかけ、哲学に切り込んでいった思想家であると思います。時というものをどのように理解し、時を共にして知を愛するということを私たちがどうのように理解するのか。ホワイトヘッドを継承する私たち、ホワイトへディアンはこのことに対してどのような立場をとるのでしょうか。

 現代哲学といわれている様々なポストモダン思想やエコロジー思想、ますます私たちの生活へと浸透してくる高度情報化やバイオテクノロジーを代表とする科学技術の進展と向かい合うための様々な科学哲学や科学社会学、これらの諸思考のバックボーンをなしている19世紀末から20世紀の様々な大思想、そのような様々な知の成果とホワイトヘッドの思想を比較検討して新たな知見を得る。これは学究としての正しい答えであり、哲学の本流に掉さしたやり方です。

 ですが、哲学の本流とはなんでしょうか?歴史的に見るかぎりでは、「哲学」は二千数百年前にギリシアという我々から遠く離れた欧州の片隅で、そこに住む人々の生活・文化に根ざして生まれたものであります。その後ユダヤ思想やローマ帝国の実践的思考との交流と混交、キリスト教との二千年に及ぶ融合と離反という複雑な絡み合いをしつつ、近代になってこれもまたヨーロッパ文化の中から立ち上がった科学とそれに伴う地球規模にまで浸透してきた社会の変動という巨大な知と生活の営みと友好的にあるいは敵対的に対決しつつ今日に至ったという極めて特殊な成長過程を遂げてきた知的営みの総称的な呼び名です。哲学という名称が総称的であるがゆえに、この流れの中には相反する様々な思想内容、思考方式があります。そのどれもが自らの普遍妥当性、つまりは自らの「真理」を主張しあい、また宗教や芸術、科学や政治経済といった哲学の成長と不可分である諸分野に影響を与え、影響しきれないことを不当として訴えるなどして、自らを主張するという“行為”をなしてきました。総称としての哲学とは、このような思想たちの、これは必ずしもその思想を考えたり、体現したりした人間の、ということとイコールではないと私は思うのですが、思想たちの共同の営み、それも外部に開かれた営みであろうと考えられます。哲学の本流にあるということは、このような思想の営みである知の流れに属し、それを自らのアイデンティティの重要な構成要素とする立場にあることではないでしょうか。そしてこの立場をとる、という行いは必ずしも人間を単位として考える必要はなく、思想そのもの、思想と関わる形での政治や経済上の活動、生活や社会の動向、時代風潮とか時代精神、大きく言えば文化と歴史の一部をなすあらゆるファクターがこの立場の主語となりうる、そのようなものとして、ヨーロッパ半島周辺からの人類への提案であるのです。

 このように考えるとき、現代哲学に接するとはどのようなことがらなのでしょうか。現代思想を代表する巨匠と呼ばれている人間が哲学の本流の只中で行った思考の痕跡、それを凡人であり、文化も歴史も異なる現代日本という世界に生きる私たちが眺めているということなのでしょうか。ヨーロッパ半島からの提案に対して、そしてその中の特殊な知的営みの、優れたとはいえほんの一握りの成果を、私たちはどのようなものとして受け取るべきなのでしょうか。

 「時を共にする」という側面と「哲学に接する」という側面がヨーロッパ哲学の本流においてどのように結びついてぃるのでしょうか。哲学に属する思想たちは自らの「真理」を普遍妥当的なものとして主張します。真理はその普遍性ゆえに、時の奔流のうちに超然として立つ巌のように、または流れの彼岸にそびえる懸崖のようにイメージされます。永遠不変の真理であることが真理の真理たる所以なのです。すると人間は、少なくとも哲学を営むときには、時の流れに対して翻弄されない真理に向き合いそれを十全に「見て」取るべきである。そのためには視点が、時の流れから離れていなくてはならない、もしくは見て取られるべきものが視点と共に時の奔流の中にあるのではなく、そこから取り出したものとして眺められることになります。「見る」ためには距離が必要だからです。接していては「見る」ことはできません。また「見る」ことによって対象は変化してはならない。見て取られることは真理なのですから―ただし、量子力学のレベルではこのことは否定されていますが―。そして時間はこの真理が顕現する世界や場を秩序付ける枠、形式として考えられます。世界の中で「時を共にする」とは被造物としての私たちの位置づけと同じ位置にある、ということになるでしょう。そして哲学の本流にあるということが、このような真理を通じて知の流れに属することを自らのアイデンティティの重要な構成要素とすることであるならば、哲学をするということは常にこのような真理と「時を共にする」、永遠の今である場に立って活動するということではないでしょうか。

 このような「見る」ことにその本質を置く思考はキリスト教における神様の知恵、神による世界の製作の姿、絶対的な設計図として真理をとらえることと関連しています。もちろん人間は被造物であり、その知恵は限られていて神の御技の全てを神のように扱うことはできません。しかし神の王国の住人になりうる唯一の地上の存在として、その精神において神の設計図を知ることが、思想ごとにその程度の違いはあれ、できるはずであると考えられてきました。真理とはどういうことか。普遍妥当性とはどこでもいつでもそのものとして受け取ることができる。文脈を無視しても受け取ることができる。それは、被造物は各々が神によって創られ、個々に神の前に立つことでその真理を享受しているからです。個々に神の前に立つことは、信仰の問題としてはとても敬虔で重要なことであります。しかし、真理の、哲学の問題として考えた場合はどうでしょう。文脈によらない、自己自身の正しさを持つ、そんな図々しい性格の真理の受け取りを私たちは許されているのでしょうか。

 真理が最高の価値の一つであることと、哲学において「時を共にする」ということはヨーロッパにおいては、全く当然のことなのです。彼らの固有の文化に根ざす哲学はつねに現代哲学であるのです。もちろんその具体的な内容は「時間」をどのように考えるかという哲学の大きな問題に依存しています。私が今述べたのは、キリスト教文化圏というきわめて大雑把な視点からの素描の試みに過ぎません。

 では、いま、ここにいる私たちにとって「時を共にする」ということを、そして「哲学に接するということは当然のことになっているのでしょうか。

 真理という神からの贈り物があることがキリスト教文化圏に生きる人々の心の底に沁み込んでいたとしても、それは今ここにいる私たち、幽玄や縁起といったあえかでかそけき時の流れを肌に感じてきたこの日本での長い営みに根ざすところのある私たちに、心から納得し切れていることなのでしょうか。西欧でさえ二つの世界大戦と環境破壊をはじめとする二十世紀の厳しい経験を経た現在では、真理ということの性格について様々な考え方、感じ方が出てきています。ニヒリズムや実存主義、いわゆるポストモダン思想などに箱のような面が見受けられます。ただ先ほども述べたように、哲学とは西欧の長い歴史に支えられた生活・文化の全面において働く知の営みの総称です。いわゆる哲学者の文章として現れる個々の思想表現はその九牛の一毛に過ぎないかもしれません。西欧哲学にとっての異端はまた正当なる本流をその底に分け持っているという面もあるのです。

 しかし、文化という枠組みの中においてのみ哲学を考えることは正しいことではないでしょう。先にも述べたように哲学は思想たちの外部に開かれた営みであり、そのことによって文化の他の要素と接し、また特定の文化圏を越えた世界へと染み渡っていくものです。この浸透は総称としての哲学全体で斉一的に行われるのではありません。哲学に参加する個々の思想の営みごとに異なる接続の仕方と範囲において「新たな」出会いへと開かれていくのです。このことは文化という事柄自体に当て嵌まるものではないでしょうか。そして文化圏というのは、この新たなフロンティアとの接触、外部との交流のスピードと頻度がそれまでに組み上げられてきた内部の有機的結合に比べて相対的に小さかった時期の纏まりの称号と考えられます。科学技術の進展のために、この接触と交流の機会とスピードが向上した現在、哲学の開放性ということは哲学の本性としてますます注目すべき特性となっているように思われます。

 すると今ここにいる私たち、哲学の本流から見ると外部に位置する私たちにおいて、哲学に接するということは哲学の開放性との関連を必然的なものとして含むように考えるべきでしょう。このときには「文脈を無視できる真理」ではなく、開放性を許す、むしろ開放性を必須の契機として含む真理の可能性から哲学に接していくという道があるのではないでしょうか。
 このような真理の可能なモデルのひとつとして、真理を「資源」と見なすことがあるように思われます。真理はそれ自体が固定した永遠不変の硬いものではなく、私たちが、そして哲学が開放性を発揮するための足場、さらには開放の運動の生成素をなす契機として捉えられます。そのとき真理と関わることは、時の流れの中で、更なる進行方向を模索する手掛かりとして考えられます。私たちと哲学が「時を共にする」新たな形を紡ぎだす地点に立っているのです。

 このような見方は私たちと哲学が共に時の流れ=プロセスの中にあることを意味しています。カント、フィヒテ、ヘーゲルらは方法論的なある側面でこの方向に即した考察を行っています。ただ、それをプロセスの存在論として開放的に捉えることは十分にはなされていません。それは、いまここにある知らないものに接することによって、哲学や知が発展するとはどういうことか、という問いを個別の次元で捉えようとはしなかったからです。哲学が外部に開かれるのは非斉一的な仕方であるため、開放性は個別と不可分の関係にあります。しかしドイツ観念論はこの非斉一性を再び総称的な哲学、理性という能力を梃子にして斉一化して考えてしまいます。現象学の祖フッサールは個別性について記述という形で配慮しました。しかし彼もまた「意味」という装置に依拠して斉一化へと傾いています。意味の記述は完全な決定性を持つ全体という理想像をもとに考えられます。フッサールにおける射影(アプシャットゥング)のなかには部分の総和が完全な全体をなして意味を完結させるという発想が忍び込んでいるのではないでしょうか。

 しかし真理を資源として考えるということは、そこには常に開かれた可能性、決定しきれない潜在性を伴い続けるとみなすことです。私たちは生命、プロセス、クリエイティヴィティといった言葉をもって関わる事柄を通じて、この開かれ続ける開放性に触れることができるのではないでしょうか。そのとき現代のシステム論の進展を援用することによって、全体が部分の総和以上のものであること、与えられた資源の合計を常に上回り続けるものとして考えられねばなりません。

 この全体、動的に開放性であり続けることを私たちはどの位置から見ているのでしょうか。これがポイントになると思われます。資源としての真理を考えるためには、まず真理の典型的な担い手と考えられてきた「実体がある」ということはどういうことかを問わなければなりません。実体は古典的には「それ自身にのみよって存在し続ける」ものとされます。これは先に述べた真理が文脈によらずその真理そのものであることと相即的です。そして真理が神の前に立つということに支えられているとすると実体の「よって存在する」の原因も神になる。真の実体は神のみであるとか実体は神に由来するということは、このようにして生じてくるわけです。そして神の創造によるのだから人間の自由にならない。抵抗感を実体の識別の第一歩とすることも、素朴実在論との接合もこのようにして理解可能です。素朴に実在するものの間の関係は各々の実在が確保されてから成立する二次的なものであり、部分/全体関係もその一部です。

 しかし、資源として実体をみる場合はこれとは異なります。例えばマイクがここにある。私はこのマイクをもって話すこともできるし、背中を掻くこともできるし、気に入らないヤツがいたらぶん殴ることもできます。マイクは完全には私の自由にはならない、私の思惑を外れていく可能性を常に持つ。だからこそ私にとって思いもよらない出会いをもたらすきっかけになりうるのです。資源としてものを見る態度においては基本的な関係は部分/全体ではなく、今まさにここにおいて働いていることであり、それを―フィヒテにおける「事行(タートハントルング)」として―見る、そして「見る」こと自体を「行為」として捉えること、このレベルで哲学に接すること、あえて言えば哲学することを考えたい。それがホワイトヘッドにおける「プロセスの進行」という問題を私たちという現存在において例示することなのではないでしょうか?

 この「働き」をどう捉えるかは難しい問題です。しかし開放性が非斉一的であり、それぞれにまた異なった接続が複数可能になるのであれば、それは「形式」において考えるのがよかろうと思われます。ところが「形式」という言葉には様々な手垢がついています。ことに形式言語、抽象記号の意味で「形式」というものをイメージしやすい。ところが記号は形式の本質ではなく、私たちが形式の持つ一般性を捉える一つの手段です。むしろ個々の場面での「働き」に重点をおくならば、構造主義の意味での「構造」といったほうがいいかもしれません。この両者はほぼ同じものと考えてもよい。ただ形式は一般性に重点をおき、構造は個々の事例に内属した様子を示すのに使うという気分の違いはあります。この気分が違うということも、実は形式や構造の一般性を空間的にイメージしていることに根ざしているように思われます。ある一定の「構造」をもった事例を並べておく、そしてそれらの共通性をこの事例の集合以上に拡大するとき、「形式」という言い方をする、こんな形で私たちは一般性を空間的に「見て取ろう」としがちです。この見方は、先の時の流れの外に立って、もしくは見るべきものを時の流れから抽出してみるという姿勢と繋がってはいないでしょうか。私たちは方法論の水準から「時を共にする」、むしろ「時と共にある」ような捉え方を必要としているのです。そのように考えると「構造」には二つの意味があるといえます。ひとつは「配置としての構造」、これは先の見方での形式を個々の事例に内属させたものです。もうひとつはお互いに働きあう「機能としての構造」です。これはシステムの経過や変動を外から眺めるよりもむしろシステムに参加するときに感じるもの、共同参与の中に現れる連帯性、何か新しいものを目指して皆で取り組むときの一体感、ある人が偉大な成果を達成すると自分のことのように喜ぶ感覚、そういったものによって示唆されるなにごとかです。もちろん二つの意味は独立した存在なのではありません。両者は密接に関わりあっています。例えば「規範」や「法」といった概念は両者のかかわりの中にその足場をもつものといえましょう。「機能としての構造」ということでなにが明示的に扱えるようになるのかはまだ分かっていません。しかし規範や法がただの一般的規則やパターンに過ぎないのではないということは、「配置としての構造」では不十分であることを示しています。

 「時とともにある」とき、私たちは開かれた潜在性、実現とは異なった水準での開放性を常に伴っています。そうすると完成ということもないのではないでしょうか。全てが決着し完全な規定性が与えられるということが現実性の究極の姿ではないのではないでしょうか。これはまた「最後の審判」のような終末論的な世界観、完成を最上のものとするキリスト教的世界観の反映ではないでしょうか。永遠の神の国が真、善、美のそろった世界である。知るということ、神の特性たる知によって知られる世界はこの理想の世界を範型にするという思いが西欧の人々の心の襞に染み付いてはいないでしょうか。私たちにとってそれは絶対の前提ではありません。「もし、世界が完全にうまくいっているのなら世界は動く必要などないのではないか?」。このような疑問は生じてこないでしょうか。ヘーゲルが動的なものの力の根源を矛盾に求め、弁証法を展開したのは、このような思いに呼応するものでしょう。またフロイトの欲望の議論も、その欠如性が動的なものの根源になっています。ホワイトヘッドの合生(コンクレセンス)はどうでしょうか。これらは皆、満たされると停止してしまうのです。満たされきれないか、別のものに乗り替わるかしなければならないのです。

 一方、日本の文化、とくに禅に根ざした考え方にとっては、縁起が連綿と続く世界、苦に満ちたこの世が存在する限りの世界なのかもしれません。そこからの解脱は異なる存在世界、異なる時間にいくことではありません。存在の分別では捉えきれないものがあるということを素直に感じられるのであれば、それは開かれた潜在性へと繋がるのではないでしょうか。とはいえ私たちを取り巻く世界、苦界であり浮世であるこの世界においても「世界は何も矛盾していないのではないか」という感覚はあります。この感覚と開放性をうまく捉えるにはどこに着目すればいいのでしょうか。

 私たちにできることは部分的なものを見ることだけでではないか、このように考えたとき、つまり私たちが哲学をするという次元そのものが限られている、と考えたとき、先の欠如を記述しきれるという前提は異なった取り扱いを受けることになります。機能という記法で世界を捉えることに対して、―これはホワイトヘッドの言葉でもありハイデッガーの言葉でもありますが―「機能には限界がある」。限界は「他」、「多」、「外」といった仕方で、見るという行為の開放性を示唆するのです。このことは数学基礎論において、実例が見られます。フレーゲは数学が論理から一意的に帰結するという論理主義の立場に立ち、数学の形式化を具体的に進めました。今日の目で見るとそれは代数的な概念を用いた優れた研究であり、情報科学や言語学との接点をふんだんに生み出した実り豊かなものでした。一方、カントールは関数の数列による表現の特性から集合論を構築しました。これはいまのところ、もっとも包摂力の高い数学の言語と考えられています。カントールの言葉に「数学の本質はその自由さにある」というものがあります。集合論とは新たに集合を生み出していく手続きを示しているのですが、それは数学が常に動的に発展していくという直観を抽象的に受け止めようとする体系だともいえます。一方、論理はそのような動態性における規範として働きます。極めて大雑把にくくってしまうと、フレーゲの試みは「配置としての構造」への傾斜を、カントールの試みは「機能としての構造」への傾斜をもっていたといえるでしょう。すると図式的には「配置としての構造」は「代数・記号」に、「機能としての構造」は「生成素」にと対応させることができます。そしてラッセルのパラドックスやゲーデルの不完全性定理が示したように、十分な表現力をもつこと、反復を捉えることができるような状況では、規範の次元が完全な決定性をもつには、動的なものは豊か過ぎるのです。このような意味で「機能」は「働き」の記法としては不完全であらざるを得ないのです。それは「機能」自体がひとつの「働き」であるからには、「機能」の自己同一性が担保されないことを示しています。この限りで対応的な指示の概念は、そのままでは存在論的に受け入れられないものであると考えられます。

 「機能」をそれ自身「働き」として評価するとき、私たちは「機能」を止めて横から眺めることはできません。数値化したりグラフ化されたりしたもの、意味によって語られたもの、それは既に当該の「機能」であることを止めてしまっています。私たちはこのような形では「機能」を直接的に評価することはできません。つまり私たちは「機能」を、「機能の限界」、「機能の極限」として関わることでしか評価できないのではないでしょうか。つまり真理は「極限」の相をとって現れるものではないか、真理というものは、場所の複数性において異なったものが接続し交流するがゆえに通じるものとして、「極限」「物象化」として成立する概念として捉えることができるのではないでしょうか。

 ここで現代の真理の重要な担い手と考えられ、また「機能」概念の具体的な実例を提供しているものしての科学との関連に触れておきます。実在論や反実在論との関係で科学的世界観が語られますが、科学的世界観は科学そのものではありません。科学自身の内部において科学全体を載せる基盤としての真理を担保することはありません。これは世界観において科学が判断停止をしているということではありません。科学は総称としての哲学と同様に非斉一的な形で開かれた知の営みです。そのために科学ということが内部モデルとして、営みとして、行為、システムとして「極限」を持ってしまう。それは限界としての理論内容、限界としての実験、限界としての対象をくくりだすことによって、メタレベルで他のシステムと出会い、統合されていく、むしろ「時を共にする」のです。この部分が科学的世界観として眺められるのです。

 こうした営みの出会いと統合を参照するとき、ホワイトヘッドの「抱握(プリヘンジョン)」は次のような概念であると考えられるのではないでしょうか。つまり、私たちが何かと出会うということは、その場その場における具体性としてのアトミズム、「機能・システム」であるというレベルが出会いの機能という意味ではアトミックであると仮定せざるを得ない。だからといって、実体としての個体があるわけではない。出会うのは複雑なものたちである。ではその出会い方はどのようなものか。複雑なものどうしは「極限としての限界」として出会うしかないのではないか。この極限が成立することがアトミズムなのではないか。このように考えると「抱握」でのパースペクティヴ性は「現実体(アクチュアル・エンティティー)」の能力というよりも、存在論的な様態に近いと思われます。

 「機能」ということを動態性、その「働き」としての身分で一般的に考えてきましたが、実際に科学や哲学で具体的に機能を考えるときは、それは既に「高次レベル」での私たちの思考でのモデルとして存在します。ここで「高次レベル」ということは、比喩的に私た大地から離陸すると言われたりしますが、むしろ足元をちょん切ることによって、出会いや交流のしがらみを忘れることによって作られているものではないでしょうか。複雑なものである営みどうしの出会いは、単純な点的接触ではありません。非斉一的であるがゆえにどのような契機がどこまで影響しあうかは測り知れなく複雑でしょう。そのため開放的であるにしても、その開放性にある種の構造的制約が課されます。高次レベルへの移行とは、この制約を消去し、より多様な接続を可能にする、資源としてのあり方を改変することの一つの形態ではないでしょうか。間違えること、忘れることも戦略―制約を絶って自由になるという戦略です。「機能」的には高次レベルは戦略、より一般的に制御としての水準にあると考えられます。

 どういう戦略を採用するかによって「高次レベル」の設定は変わってきます。時間という概念、あるいはその方向―未来、そして「神」という次元。ヘブライの民には非常に厳しい、ときには敵対的な環境において失敗を避けるために、現実から身を離して制御の万全を期すということがあったのではないでしょうか。その戦略から超越的な時間という発想が生じたのかもしれません。そういう背景をその根に持つ哲学に対して、気候は温暖で食うに困らない、四季豊かな日本の現代において、私たちはどのように出会うのでしょうか。そう考えたときに、私たちは他者としての哲学の限界をどのように位置づけるか、限界のあいだで共有できるものとして、「極限」として包含できる思想内容をどのようなものとして扱うか。それが問題となってきます。

 このようにみると「時を共にして」「哲学に接する」ということは、決して内容を外から眺めることではありません。カントが「哲学を教えることはできない、哲学することを教えうるのみである」と言っていますが、それはもっと深い意味で考えられていいと思います。哲学は内容を表現することではない。それは営みなのです。科学がそのような営みであるように、営みのなかでの他者との交流、営みを超えた出会いということにあたって初めてひとつの手段として思想ということが現れる。そして今日私が話してきた「配置」や「極限」もまたその営みにおいて現れるものです。私たちにとっての現代哲学は、私たちを巻き込み、私たちのアイデンティティの構成契機となる一つの挑戦的な営みです。

 大雑把な話が続いて申し訳ありませんけれど、「高次なレベル」において、機能の同定ということは自由なことなのです。たとえば空間的なものに対して、それを言うことができます。皆さんは{a, b, c, d}という図をどう考えるでしょうか。ある集合として考えるでしょうか。四つの「あいだ」になにがあるでしょうか。そんなものは何もない、aとbとcとdだけだ。でも、「aとbとcとdだけ」だとわかったのはなぜでしょうか。それは四つの文字が、{  }という空間的な暗喩によって仕切られているからですね。

 私たちは簡単に空間的な暗喩を排除することができるのでしょうか。ホワイトヘッドは空間的な暗喩を排除することができているでしょうか。空間は、機能として、時間と同様に大きな問題です。「限界」や「境界」というものを直接的にモデルに書き込んでいるわけですから。「見て取る」を行為へと移行するとスローガンを言っても何も動きません。具体的にその「機能」をもっと自由に表現したり、使用したりしなければならないのです。

 また「機能」という面から考えたときに、科学的である、機能的である、数学的であるということに対してもっと動態的なイメージを持っていいのではないでしょうか。ベルグソンにしても、フッサールにしてもきわめて合理主義的であり、理論モデルはスタティックな数学的構造に沿っています。そのモデルにおいてなにが違うかといえば、着地するべき「限界」です。数学において、アルファベット、原初的な記号をどのようなものとして私たちの行為、私たちの生きている世界とどのようなものとして接続するか、ということが問題となってきます。現代科学というものは、ひとつの単純な場面、限界を見出しやすい場面における機能のシステムを提出するという試みでした。それは哲学、文化、宗教に導きの糸として資格を与えてきました。そのような観点から、構造の生成素としての側面、「機能としての構造」を受け入れることができるのではないかと思っています。
最終更新:2012年03月27日 21:29
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