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伊豆・長岡温泉 深夜のトーク

2009年、伊豆長岡温泉 弘法の湯での温泉旅行での、トーク断片。

O「それにしても個別性を考えるときに、カウントができないというのは問題ですね」

 カウントができているということが何ごとなのかが問題なんだよ。
 車のなかで言ったみたいに自然数の全体はわからないでしょう? 「1」ってわかってる? 「1」ってよくわからないじゃん。
 我々の明晰さに対して、語っていて考えている思考の明晰さしか使えていないから。そうじゃないところが動いているのは、間違いない。機能的な意味での幾つかの身体が同時に使っているから。
 それでさらに戻ってあれになるんだよ。生物において個別性がもろにかかる身体のあり方と、個別性が分散してかかる身体のあり方が可能じゃないですか。前者は動物、後者が植物。――というところまでいってリゾーム論を考えるんだったら面白いんだけどなあ。(笑)

I「丸山真男が言ったので、たこつぼ型と従来のリゾーム論はいいんじゃないかと思いますけどね」

 (リゾーム論は)そうじゃないんだって! 個別とは何かという問いから身体の問題を絡んで勧めていかないと。
 ……(ワインを注いだりいろいろ)……
 個別性の話でクロソウスキーから離れちゃいましたが、ラカンの場合は個別性をどうするんだろうね、というのが一つの問いなの。ラカンは現実界を本当にいったら「二つ」は出てこないということを悩んでたんじゃなかろうかと。それが「もう一つのイマジネール」だと思うんだけれど、あくまでもイマジネールでしょ、それ?

I「そうですね」

 だから、イマジネールがどのレベルに成立するかという問いになるでしょ。いまの議論だとラカンの筋に引っぱり直すと、基本的にレアール(現実界)なところとサンボリック(象徴界)なものとの関係になるよね。イマジネール(想像界)の位置が明確にならないでしょ? だから、じつは複数を真似しているんじゃないか。真似するというところにイマジネールが入ってくるはずで、そうすると、イマジネールという世界に複数性があるということ自身がじつは謎なわけですよ。だから、もしその形でどっちなんだろう。対立だったら、イマジネール自身もそのサンボリックなものに対して、オーバーフローの議論があるから一つになるはずなんだよ。にもかかわらず、イマジネールの世界はストレートに複数が出てくるでしょ? 何がそれ(複数)を支えていますか、ということになるわけですよ。――ううん、ちょっと違うかな?
 「もう一つのイマジネール」という言い方になったときに、個別性の複数性が、理論内でイマジネールな世界においては認められるということを前提としてしまうとすると、その部分って三項関係から浮くでしょ? 三項関係、三つの連関性から。だから、イマジネールの世界っていうのは、複数性を開く**でもあるし、**るんだけど、それ自身が単独で複数性を支えるはずがないじゃないですか。もし三つの世界が相関するというラカンの図式を引き継ぐとすれば。ということは、イマジネールの世界というのは複数の形のいまのことが絡んでいないとおかしいでしょ? ということは、もう一つのイマジネールとは、イマジネールな世界における、一つ、二つという個別性ではなく、サンボリックなレベルと、レアールと呼ばれているレベルが別であるような意味でのイマジネールが、いま使っているイマジネールに重なっているという意味で、いま見えているイマジネールをオートル・イマジネール(もう一つのイマジネール)と呼ばざるを得ないということじゃないかな。だから並列に(二つのイマジネールがある図式に)しちゃダメなんだよ。

O「自分がいま使っているイマジネールの世界に、常にもう一つのイマジネールが貼りついているようなイメージですか?」

 そうじゃなくて――六本のお箸で説明しようか。
(……以下、お箸で作った図をもとに説明。図、再現できず……)
「現実界」 le réel、「象徴界」 le symbolique、「想像界」l'imaginaire-イマジネールが混同していますが、ご容赦ください

 いま、三つのお箸を三項図式としよう。
 いま、問題は単一性の問題。本当はまあ、こういう風に書くけれど、単一性としてのle réelがあるとすると、さっきの議論で**のle symbolique がここにあることになる。もう一つのl'imaginaireにおいて我々は複数を承認するを得ない。もしこれにおけるle symboliqueとこれにおける単一性が完全に一致するとしたら、もう一つ作ればいいでしょう。
 はい、一個目、二個目。
 でも、ここにはでないじゃん。

O「もう一つのl'imaginaireが、ですか?」

 だって、こっちはまた別に二個作っちゃうでしょう。ここの二個と重ならないじゃん。こっちの二個と、こっちの二個は無関係でしょう。ここにl'imaginaireは二個あるわけね。でも、ここは整合的にさっきのphénomèneともし乗っかるとすれば……ラカンはそう思っているのかもしれないけれど、せいぜい単独でしか出ないわけね。
 でもle réelというのは本来、複数性を支えているはずじゃない。だから、もう一個作りましょう、となる。でも、ここに二個あることと、こっちに二個あることはイコールではないじゃない。
 とするとどうするか。
 ここに重ねればいいんですよ、l'imaginaireを。

I「三つの箸で仕掛けをつくる、ということですね」

 そう。だから、ここが一つのl'imaginaireであるにもかかわらず、別のle symboliqueと別のle réelに対するl'imaginaireだから、まさにこのイマジネールがautre imaginaleなんですよ、この枠から見れば。

O「autreとなるとき、見ている観点は一番最初のここですよね。この図式全体から浮き上がっている、という意味でautreなのではなくて」

 そう。ここは同じl'imaginaireなんだけれど、こっちとこっちがあるから、自分に対してautreなの。縮退degenerateしているんだよ。量子力学における縮退状態(*)。もっと簡単に言うと、二次方程式の重解、二つの解の値が同じである場合が縮退。だから、これ自身が自分自身を二重化しているんですよ。
 自分自身に対してautre imaginaleなんだよ。

O「自分自身と極限で似る、もうひとつのl'imaginaireということですか?」

 ちょっと違うな……。l'imaginaireということが成立すること自体が整合性になるんだから。
 ところが、これに対して無限に良いはずなのね、l'imaginaireの空間っていうのはそれを満たせるから。しかも現実に我々がイメージする空間、って、無限のイメージが存在しないのよ。だから、理論的に行くとl'imaginaireの空間は無限空間なわけなの。絶対、無限のイメージが我々には現れない。イメージは必ず有限なんですよ、なんらかの意味において。それがオーバーフローといわれる問題なわけ。
 もしラカンの理論につながるとすればね。
 世界が有限なのだとしたら、話は違いますよ。でも、ラカンは世界を有限だとは思っていないだろう。その問題があるからエトルディ(???)を気にしたんじゃない? 潜在無限は認めるけれど、建材無限は認めない、という

I「エトルディ(???)はオイディプス批判でもあるんですよね」

 それは教条における二重排中律の問題になるのかな。
I「そうですね。お父さんを選ぶか、お母さんを選ぶかという精神分析における排中律の問題です。そうじゃない道があるんじゃないかという」
 でも、排中律の除去っていうのは、無限性の結果として出てくるんであって、それ自身が最初からルートではないんですよ。ブラウワー(Luitzen Egbertus Jan Brouwer, 1881-1966)のレベルから見た場合は。ハイティングが言ってたみたいに、無限なんてわからないものを持ち出すのはやめましょうよ、もっと一般的に使えるじゃないですか、って図式にしたときには、排中律の拒否っていうのはじつは記号システムで表したときには等価になるんですよ。(註)というか、そっちが記号になっちゃったわけ。

I「ラカンが知っていた元ネタがハイティング(Arend Heyting,1898-1980)だったということもありますが」

 1950年代以降は普通の意味での直観主義っていうのはみんなそっちのことをいっていたわけ。
 そういう意味でautre imaginaleを解釈すると僕は面白いと思うけれどね。もしそれがうまくいくと、僕がさっき言った、思考におけるイメージの使用のもっている**がはっきりするじゃない。

O「記号はイマジネールなものとして捉えられるんでしょうか」

 違う。記号が、というよりも、正確には記号が意味しているものの像であるとイマジネールを捉えたときに問題が起こる。
 記号において意味しているものの像、記号を通して意味していると見られているものの像としてイメージというものを考えると、それは問題なの。イメージとはそういうものじゃない。
 記号というスクリーンでイメージされるものの方を普通は考えてしまうけれど。
 状態や、与えられたものの特性というものを考えたときには、そう考えるのが自然なわけですよ。僕の立場は逆だから。さっきの普遍論争の議論なんですけれど、どういう働きとしてそれを受け入れられるか、ということになるから。働きじゃなくてそれをどう受け取るか、というレベルに持っていかないとイメージの議論にならないから。そのイメージに対するもう一つは二重になってしまうから、まずその前にイメージそのものは何かという問い直すのが僕の立場。
 けれど僕らはその恩恵をすごく受けているからね。その恩恵を受けている起源として身体というものを――複数が当然あるわけですよ、一つの身体を多重化しているから、これのレベルで。だから、人つの身体じゃないんですよ。そもそも身体という概念は。
 まだそこの制御系がわからないからこの議論が充分に使えないんだけれども……。

I「欲動の議論をその形でするとすごく面白いですね。精神分析の、口唇期欲動、肛門期欲動などのバリエーションが一つのはずの身体にかかってくる様子」

 それは欲動自身が、形式――le symboliqueという言い方を、僕は単純に形式と言い換えてしまうのだけど、その意味で口唇期うんぬんというのは違った記号システムだと言い切っていいと思います。

I「象徴界le symboliqueとラカンが言ったのは、精神分析における学派動詞の戦いという文脈があったからなのですよね。例えばイメージというと、分析家のイメージか、患者のイメージかという反論が起こってしまうのでそういう言い方を避けたり。形式という言い方で充分だと思います。」

 なぜそのときにle symboliqueという語を選んだんでしょう、歴史的に。le symboliqueという語で相手を説得することができたわけでしょう。

I「精神分析の武器というのが、イメージではなくて言葉であるということを強調する必要があったからです。だから精神分析のメディアはle symboliqueであると主張したんです」

 言語が形式だとすると、数式だとしてもかまわなかったわけですね。その意味で数学も言語だから。そうではなくて日常言語で、という妥協点があったのかね。
 僕が思い浮かべたのはパース(Charles Sanders Peirce:1839 - 1914)なのね。パースがsimbolicって言ったときに、彼は記号に対して別の秩序を言うわけ。シグナルとイコンとシンボルだから。

I「パースのように語れる人は分析しにこないので。(笑) ふつう手が震えますとかなんとか言ってくるので、それをふまえると数式に説得力がないというのがあります」

 パースの場合、ちょっと凝っていてね。シグナルというと物理的な情報因果のレベルで考えるんですよ。入力情報に反応した、みたいなレベルでシグナルを考える。イコンは似ているなんですよ、アナロジー。これをイマージュと重ねてしまうのはまずいと思うんだけれど、ある種の同形性をもっているから。さっきのシグナルの場合だと因果と同じだからね、一つのルートが確保できれば充分なわけ。
 それだけだったら、形式はそこでも信号のシステムとして***なんだけど、そうではなくてそれが持っている様々な情報能力をミニチュアとして取り出すとイコンなんですよ。
 シンボルという言い方をしたときにはさらにレベルが上がるのね。表象しているということのfanctionalな性格を自分自身の性格として受け入れているものとしての規定が入っていないとシンボルと言ってはいけないんですよ。自分がイコンなりシグナルであるということの基礎づけを自分の表示性格のなかに含めているもの。そういうものとしてパースはシンボルを考えるんですよ。
 だから、かなりラカンとパースはシンボルの使い方が違うんですよ。

I「逆を言えば、その表示するものをやっているということは、事物なしでOKにしてしまうものなんでしょうか」

 パースはそれは認めないんですよ。どこまでも底が抜けていることがあり得ると言うわけ。
ちょっとお箸貸して。
《お箸を用いた図、再現不可能。以下、指示代名詞が何を指すかは不明なのでそのままにしてあります》
 2というのは、こうあったときに、二つある関係があります。
 3というのはこの関係そのものを取り出すんですよ。オープンな形にして。
 これは入力出力が入っているリフトとしてのレベルなのね。入力出力を抽象化して話したところで3になるんですよ。だから記号-シンボルと言ったときには当然ながら、この部分がそれとして成立していないとダメなわけ。シグナルだったら単一のところで反応しているだけだから、つながりの部分はこれしかないわけ。イコンの場合は似ているわけだから、この二つでいいんだけど、シンボルはこの三つのうちでこれ自身が独立であることなんですよ。それに対して、これ自身を対象としてもう一回重ねる、というのが、パースがどこどこどこどこ増やしていく手法なのね。それはメタというレベルになる。けれど、パースは逆に我々が実際のシンボルを見たときに、こうなっているときに、これをのぞいてみると、これがまたこれだったという形になっていることがいくらでもあると。だから、経験的に止まるかどうかがわからないとパースは考える。

O「止まる、というのは、これがですか?」

 これの「一」性に至ることが経験的に可能であるかどうかわからない。でも、理論としてパースは「一」性からはじめなければならないから、理論上の「一」は確保する。それはライプニッツに似ている。ライプニッツの場合、神さまの知性だったらぎりぎりの一番下まであるわけですよ。物象表象ではなくて、リアルな表象としてあるわけ。でも、レベルがずれてくるとわからないから。人間だと仮象としてしかそこは想定できないと、ライプニッツはそういう言い方をする。パースはそういうふうには言わなかった、認識としてではなくプラグマティズムとして考えていたから。

I「ラカンの移りっていうのは、ソシュールのレベルを考えないということを、いわゆる最初に経験的にそれを受け取って、そのあとに結果的に受け取るという図式を立てるのですが」

 でも、考えなくても止まらないわけでしょう、ラカンの場合は。患者は目の前にいるんだもの。それが彼の悩みだよね。私は患者を治せませんではダメだからね。(笑)
 パース的なシンボルをラカンに持っていくとすると、さっきの三角形が役に立つ。レファランスを別にしたけれど、パースは一点の部分を区別無しに「一」性にするわけですよ。「二」性っていうのを照応関係として見るわけですね。「三」性としてのシンボルというのはこれ丸ごととしての三角形なんですよ。
 この象徴界におけるシンボルの意味ではなくて、それをラカンが語っていますね、ラカンがスキームとして使っていますねという部分をパースはシンボルというわけですよ。
 それぞれの区別はパースには関心がないんですよ。彼は形にしか関心がないから。形が違ったら、同一かどうかは知ったこっちゃない。(笑) それがパースのロジックに対する感覚なのね。
 ――ということを、パースをちゃんと読んでいない俺が語っちゃっていいのだろうか。(笑)
 パースがなぜ仮説形成をabductionと言ったかというのかはたぶん誰も言っていないと思うけれど、面白いでしょ。何が連れ去られて、取り残されるかですよ。{abductionとは拉致、連れ去りの意。宇宙人がUFOで連れ去っていくこと}取り残されるのは個別事例だと思うんですよ。
 「三」性のレベルにあがるときに個別事例が取り残されるわけですよ。

O「個別性が取り残されるのですか、それとも個別性に関する問題が取り残されるのですか?」

 個別性が取り残される。関係性そのもののレベルにあがるわけだから。
これはさっき言った普遍論争の話にもつながるわけですよ。つまり、取り残されたと言ってもいいけれど制約がなくなったとも言えるわけ。例えば、白というと色でしょう。Abductionのレベルで考えると、「大丈夫? 顔が白いよ」とか「白けちゃったよー」の白ですよ。

I「本当に実践的-プラグマティズムなんですね」

 そう、関係性だけを持ち上げるということは適応範囲の自由化でもあるわけね。

《……以下、ワインに関するいろいろなトーク……》

 『教養としてのキリスト教』(村松剛)のなかで、死海文書のクムラン教団が最後の晩餐の原型となるような食事会をやっていたんじゃないかという記述があったわけ。つまり、祭祀者が最初にワインに手を触れなければならないという規定が死海文書のなかにあるらしい。
 旧約聖書はもともと記述文書の性格がかなり強いところがあって、新銘記に対して発掘された部分が一杯あるわけなんだけど、キリストは伝記だろうか? いや、やはり神話だというふうにとるべきなんだろうけれど。この著者は、やはり生きているイエスはユダヤ教徒であると。革命児であるけれど、ユダヤ教徒であるととるわけ。彼は死ぬことによって、初めて神の子キリストになって、神の役割を果たすことになったということを書いてるの。
 それは一つ面白い解釈だと思うんですよ。ただ、それがキリスト教の正当な解釈になるとはわからないけれど。
 イエス自身がナショナリズム的な発言をしている箇所がマタイの共観福音書のなかにあるけれど、サマリア人

《以下、データなし》
最終更新:2012年04月06日 12:47
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