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伊豆・長岡温泉 深夜のトーク その2

 ソシュール(Ferdinand de Saussure, 1857-1913)はレフェラント(référent:指示対象)をいじらないし、問題にしない。(*1)
 ソシュールが問題にしたのは、レフェラントのような個別的なものを受け入れることができるような、***{聞き取り不能}。
 例えば、力がコップに集中するとき、力そのものはコップを通じて受け取ることができる。力そのものを受けるのはコップなのだけれど、ソシュールはそれについては言わない。ソシュールは、電磁気や重力という、部分的にせよ、それが力そのものに参与できるようになるシステムとしての一般的な枠-型を研究する。つまり力そのものではなく、電磁気力の世界全体がどのように成立するかを書く。電磁気力なら構造が記述できるし、予測もできるから。
 構造を言うためにいじるのがシニフィアンであり、構造によって予約される(電磁気学のなかでいじられるために、あると仮定される)ものがシニフィエであり、両方が接合して力の一部に参与できるというのが記号的価値(varue)となる。
ソシュールが「シニフィアンとシニフィエのシステムに依拠しているだけの、中途半端で満足しないが一致したときに感じるポジティブさは奇妙だ」というソシュールがいうときのポジティブさは、具体的な電磁気力が力の一部分になるという事態であると言って良い。
 電磁気力ではない力が入ってきたとき、物理学は時空を同定するというやり方でその力を考えないようにするけれど、ソシュールの場合は個別性を考えないというやり方で、これを回避する。

 言語使用(パロール)ではなく言語システム(ラング)の内部での受け渡し-コミュニケーションについてソシュールは研究した。ポスト・ソシュール学派は、まったく違うはずの言語使用と言語システムの区別を曖昧にしてしまっている。バンヴェニスト(Émile Benveniste, 1902-1976)は「言語は開かれている」とソシュールを批判しているが、ソシュールは開いている言語使用の部分をはじめから問題にしていなかった。
 バンヴェニストにおいて危険なのは、「開いている」のがシニフィアン/シニフィエの言語システムに乗っからないところで(乗っからないことに気がついていないところ?)、言語使用においては個別-使用者という、言語システムとは別のファクターが絶対に必要になってくる。
 力-具体的な使用としての意味の、その意味の制度を担いうるということの構造的な解釈が、言語使用における言語システムの問題となる。バンヴェニストは、言語使用と言語システムを、エノンシアシオン(エゴ(*2))によってつなぐ。けれど、エゴはレフェラントに比べると強すぎる。エゴは言語システムを評価する者でもあり、同時にパロールにおける個別-使用者でもある。
 クロソウスキーにおいては諸力のシステムが、ソシュールにおける言語システムに対応しうる。だから個別-特定のものがない。個別-特定は、介入-侵入してくる外部に接したときにはじめてありうる。しかし、外部自体も閉じたシステムなので、意味化というレベルでは諸力のシステムと外部のシステムが混ざったところに個別性がありうる。

 例えば、べん図をイメージすると、それぞれ異なる無数の集合が凝集/散乱して、論理積(AND)をなしたり、なしえなかったりする、その不安定な論理積(AND)の組み合わせが個別性になるということ。
 また、色と形は別の閉じたシステムにあるはずなのに、コップが動くと、コップの色もコップの形も動くというのは個物として整合性が成立しているといえる。ただ、これだと凝集に関しては説明がつかない。一点に凝集がおこるとき、バンヴェニストだったらそれをエゴといってしまうが、じつのところ、凝集している一点というのは何の主体でもない。
 凝集の一点というのをイメージ化するということが新しい問いとなる。凝集することを引き受ける装置として、身体を考えたい。でも凝集することを引き受けることによって別のシステム(理解のシステム……現象学においては現象、意味論においては意味のシステム)を引き込むことになる。そのときに必然的に**は別のシステムを裏切らざるをえない。不完全性を知らなければならない。にもかかわらず、不完全ではないかのように語ってしまう。
 ソシュールや自然科学が正しいのは、彼らが個別性を絶対わからないものとして捉えているところ。にもかかわらず、その個別性に極限まで近づこうとしていくところ。また、個別性のわからなさをその現場で(ソシュールの例なら、それぞれ異なる無数の力が集まる現場で)わからないとするのではなくて、あまねく成立する電磁気学の理論を使って個別性の裏返しのものを指し示すことが可能なのではなかろうか。個別性を直接さししめすことは構造的に無理なのだから。だからむしろ個別化という問題を、いま目の前にある個別として捕まえるのではなくて、個別化がわからなくしている構造を、わかる範囲の限界を知るというやり方で(もちろん、「個別化がわからなくしている構造」と「わかる範囲の限界」はイコールではないけれど)知見を得ることができないか、とソシュールや自然科学は考える。
 デカルトの明証は、直接、個別性を指し示す方向へゆく。凝集の一点が現前することの明証を望む。ライプニッツの言う盲目的思考がたどる、と言ったのは、「個別化がわからなくしている構造を、わかる範囲の限界を知るというやり方」のこと。システムの使用を、現場(システムの一部分)に限定するのではなくて、システム自身の全域性として使用する。
 個別性を理解するということは、どうやったって電磁気学のシステムからだけでは不可能である。(「このコップにも適応することができるのが電磁気学です」「ではこのコップと言われているものは何ですか?」「…………」) そこで、電磁気学の限界は何かということを一般化して考える。電磁気学として適応可能な範囲を局限にまで広げていく。(「電磁気学がこのコップに関わる、適応するということはどういうことですか?」)
 電磁気学として適応可能である、ということを形式化して考える。思考とか理論は、関わりの仕方、という次元でしかわからないから、現にあるこのコップ、というのは構造的にわからない。関わりの仕方を考えるには、仮定を立てずに、システムの内部でどこまでも一般化していく。それがシニフィアンのシステムの内部であがくということになるのだけれど、その場合シニフィアンのシステムは全体としてとらなければだめ。シニフィアンの連鎖、という個別性もだめ。そこまで推し進めて、「個」に関するそのシステム(電磁気学のシステム)からの側面がわかる。
 この場合、あるシステム(電磁気学のシステム)からの個別の関わり方の一般スキームを問題にしているから、複数性は絶対に出ない。複数があり得ない。複数があり得るのは、個別性が前提となっているときのみである。個別性を考えたいときは、複数性が使えない。だから、個別性を考えるときには、凝集にかかわる指示作用も使うことができない。

 もしラカンがそれに数学的な知見から気がついていたとすれば、ボロメアンの結び目における「もう一つの想像界」の議論はその複数性と個別性の問題を論じているのではないか。適応の限界までもっていって――超一般的に形にして、シニフィアンの関係だけで、同一性をもたらすことを考える。この作業によって、「適応するということはどういうことなのか」という問いに対してスキームが与えられるわけ。そのスキームを通してしか、個別性ということに関して理論の上からでは語れない。
 個別性を論じるにあたって、個別性を前提とする複数性を前提としない。けれど、この理論が個別なものに関わっているのだとすれば、個別性に関わる部分は理論のもっとも強い一般性という形に転換させなければいけない。そこである理論におけるもっとも強い一般性は、個別であるということのスキーム、個別であるということに関わるやり方として出てくるわけですよ。でも、まだそれでは「もう一つの」は出てこない。最初に分けられないから。それでは困る。なぜなら他者は自分より他に「もう一人」いなければありえないから。
 だから、「なぜわれわれは個であると思えてしまえるか」というのが、最大の問題となる。
 個であると思うことがないと時間の議論もできない。時間が理解できているということは、なにかものすごいレプリカを使っているのではないか、と私は思う。何かを時間と思い込むことによって、時間のレプリカを使って時間を理解している。でも、厳密に思考のレベルで考えるとそれは無理。無理にもかかわらず、時間のレプリカを使えるのはなぜか、ということを考えると、身体を考えざるを得ない。つまり、基本的に理論で透明性(ニーチェにおける明晰性)、整合性を徹底させると、時間はあり得なくなってしまう。では、いま言った「もう一つ」をどのようにして受けとめているのか? 不透明を受け取るという操作でしかあり得ない。その不透明さをもっているのか、というと、そこで初めて身体が出てくる。
 だから、身体には広がりが不可欠となる。透明性に対するオーバーフローとしての身体。しかしその場合でも、十全な「もう一つ」を捉えていない可能性がある。その可能性を無視することはできない。だから、イメージと結びつく形で身体性があらわれるときに、その身体はそれ{その可能性???}をレプリカととることで、残りをオーバーフローさせる。物理身体ではない、心理身体や理論身体などが、私に関わるときには、それらと私との接点において、それら自身が、いま言った意識の透明性や明晰さと関わる限りにおいては、全部はぜったいに出していない。それらが私に関わる限り、ぜったいにオーバーフローを起こしているはずです。
 世界にものが個々あるということ自体が、なにかをオーバーフローさせている。世界自体は残り滓であり、統計的結果にすぎない。その統計的結果というのは、先に選ぶ全体がないということなのだけれど……。
 そのときの身体というのは、私にはぜったいに捉えきれない身体だし、どの思考に返してくる身体かというのもわからない。身体は複数あっていいと思うけれど、――数学的理論性の身体があってもいいし、そうではない諸々のロジックにおいて身体があってもいい。(意識においては、外部言語記号としては、統一性がないかもしれないから。(エノンシアシオンとしては非整合の可能性もある。))――単数性でない複数をとるということはやはり問題なままで、けれど、現にそれを知っているというかたちでごまかしているはずだ。世界というのはごまかされて見えた部分しか見えないという言い方もできる。そのごまかしの部分はオーバーフローという言い方もできるだろう。
 イメージと結びつく形で身体があらわれる前には、オーバーフローしているにもかかわらず身体が存在しないということになるか? という問いがあるとすれば、それは違う。その段階では、厳密に明晰さを推し進めていくことがなされている。つまり、理論ではなく、ライプニッツの言うところの盲目的操作としての思考を推し進めていくことがなされている。回答作業をしている。その回答作業自体は、例えば職人技で、手で一つの作品を作っていくとか、修行によって得られる熟練ということと類似でいいと思う。



(*1)
ゴットロープ・フレーゲ(Gottlob Frege, 1848-1925)の指摘にもあるように、シニフィエにあたる「意味」ないし「概念」という概念は、「指示対象」の概念とは必ずしも一致しない。この意味において、「指示対象」はシニフィエとは区別される。
(*2) (以下、バンヴェニストの議論……)人は言語によって/おいて自己措定する。言語のみが自我という概念を発することができる。(「「我」とは彼が「我」と言うところの者だ(Est ego qui dit ego)」)また、「私(ego)」と言うことによって個人は他者との相互依存関係に参入するが、原則としてこの他者は誰でもかまわない。「私(ego)」ということばが何らかの意味をもつのは「他者」と対立関係にあるときのみなので、この「私(ego)」は事実上「他者」によって可能になっていると考えるべきだ。「私(ego)」と言うとき、すでに人は「他者」の領域に転位しているのであり、発話行為において措定された主体性は原「私(ego)」との無媒介的関係を喪失している。

 仏教にはきわめて実在論的なものがある。
 離れてみたときに存在論的実在ではないなにかがある。
 日本の仏教はそれを非常に曖昧にしてしまっているけれど、『中論』とかのレベルになると、ある種の実在論である。その実在を支えているものはなにかと考えると、行為。その行為を、どうやって「行為」として受け取るかが問題である。
 「行為」は「もの」-存在があるのではないのでetre-beという言い方はできない。あくまでもdoだ。
 「行為」が自らを示す存在であるという言い方はマズイ。だから、西欧哲学のように唯一の存在を仮設したりもしないだろう。
 それは再び起こるre-presentものではない。だから「刹那」という議論がある。
 そうなると、流れの中で何も残らなくなり、計算ができなくなるので、西欧的には理解しがたい。
 クロソウスキーがあくまでもそこで考えようとする「基体」もある意味では「刹那滅」に近い概念であるが、別物。
最終更新:2012年04月06日 12:50
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