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第06回 2009年10月26日 > 01

 前回はシステム論の途中から、パース(Charles Sanders Peirce, 1839-1914)の勉強をしたと思います。なぜパースをやったかっていうと、その有機体のもっている中心化という話をちゃんとやりたかったからなんです。あんまりちゃんとできませんでしたけれども。中心化を、機能的なシステムで考えた場合の、もっとも極端な事例としてパースを考えたんですけどね。そもそもなんでそういう話をしたかというと、「見る」という話を、行為論へもっていって、哲学と科学の関係の全体という大きな話につなげるというイメージがあったんですよ。
 それで、もう一人ですね、哲学と科学の関係について、ちょうどパースと逆方向なんですけれども、言及しておきたい人がいます。それが、ライプニッツ(Gottfried Wilhelm Leibniz, 1646-1716)です。実を言うと、今日はライプニッツを使って、かなり滅茶苦茶なことをやろうと思っているんです。ライプニッツにおける時間の概念はどのようなものかという、非常に難しい問題があります。
 学問的な意味でライプニッツが、正しい技術家とはあまり思わないんです。そのかわり、僕らがしている話が、時間的というか「動き」なんですね。それに対して、ライプニッツという非常にスタティック(静的)な視点を持っている人の話から裏返して見れば少しわかりやすくなるかなと思います。

 使うテキストの、ライプニッツの一番でかいテキストは『弁神論』といいます。弁神論は、神様を弁護する論なんですよね。それからもう一つでかいのが『人間知性新論』と言われてるものです。新しいエッセーですね。『人間知性新論』というのはロック(John Locke, 1632-1704)の『人間知性論』に対する反論として構想されているので、新論なんですね。バークリー(George Berkeley, 1685-1753)が『視覚新論』をやったのに対して、大森荘蔵(1921-1997)が『新視覚新論』をやったのと同じような試みです。なんですが、じつは、そっちで行われている研究を私があまり知らないので、もう少しコンパクトなテキストを使いたいと思います。

 ライプニッツというと大体みんなが思い浮かべるのが、「モナド」ですよね。モナドの学(logos)だから、『モナドロジー』(1714)。これはライプニッツが最後にまとめたテキストです。これに対して、前期のほうので、非常にハンディーで読みやすいのが『形而上学序説』(1686)。これに加えて、『モナドロジー』の解説書に近い作品と言われているのが『グレース』という本です。『グレース』の正式名称は「Essai de théologie sur la providence et sur la grace」です。このへんと、あと『動物性議論』と『動物性身体論』とかいくつかを混ぜ合わせてちょっと議論してみようと思います。
 ライプニッツのテキストはどれも基本的に短いんです。ライプニッツの選集のなかで、『形而上学序説』の厚さはこれだけしかないんです。章としては。『モナドロジー』も非常に薄い本で、そもそも書簡なんですね。人に対して話をして、書簡を書いている。全体で90章ありますが、各章が短いので、これだけしかない。『モナドロジー』はじつになかなか味わい深い本なので、興味がある人は、一度読んでみることをお勧めします。年代が離れてますけど、いろんな中身は整理されていないけれども、ベースになっている発想は非常に近いです。

 で、これ時代背景から言うと、まずこの話。基本的にライプニッツの行っていることは、デカルトに対する反抗なのね。で、デカルトの何が悪かったかって言うと、デカルトは前にも言ったと思うけど、心身二元論といいましたよね。これだから延長物プラス…精神、心ですね。res cogitans、認識のほうだからね。これで、つなぐものをどうするかっていう問題が出ちゃって、彼、このつなぐところで松果体という、脳みその中にあるちっちゃいところに本当のものがあるよっていう議論を持ち出したんです。

 かつ彼はこれを幾何学でやったんですよね。幾何学をイメージした。彼が、座標って言う観念を作ったから、幾何学をイメージした。そうしたときに実は、物理学において問題が起こっちゃったんですよ。物理学において、あの今だったら、運動量という言葉ね。これ…。コナトゥスって言う呼び方を、確かホッブスがしたって、って言われているんですけど。([スピノザと思われる。])運動量保存の法則って聞いたことある?完全弾性衝突だと保存されるっていう……まあいいや。その運動量保存の法則は物理学の原点なんですよ、彼らにとっては。

 実はこうしたときに問題があって、ライプニッツは『形而上学叙説』でも触れていますけれども、一つの短い論文として若いときにやったやつで、高いところから物を落としたら、ガリレイが言ったんだけど、要するに、高さに対して速度というのは、高さと速度が比例する。えーとそれから、エネルギーはK=1/2mv2だから、この式で、4倍になる議論をしていて、こっちは保存されるんで、向こうは間違いだよっていう議論をやってるんですね。そのときに何を言い出したかっていうと、デカルトは幾何学を図面で書いているんだよね、やっぱり彼は。図面上の幾何学で作図をするっていう議論をやってる。ところが、mv2は図面で出てこないわけです。傾きって言うのはある程度喩えるけど、長さの微分っていうやつだから、長さと時間の比をずっと縮めるんだけど、これは実を言うとニュートンのなんですよね。二つ目の微分が出てくる。二回目の微分が出てくる。そうすると、速度の比のやつだから、見える場所を書けない。

 で、そこのところが力学ということの本体であるといわれて、ライプニッツは力という概念を非常に強調するわけです。世界が動いているのは力の概念なんです。力の概念は、幾何学の上での図表と、純にそれやっただけでは出てこない。だから、世界が動いているかぎりの話をするときには、延長のレベルでやってはだめなんだ、という風に結論付けたんです、彼らは。ところが、延長と世界というのはきちんとあることは間違いない。だから、延長の世界に対してそのバックにあるもの、何かがなければならない。これを運動の原理と呼ぶんですが、その場合の運動の原理という言葉は、歴史的に言えばギリシャ人が言っているのと同じなんですね、えーと、力、運動の原理…我々は運動の原理を基本とする議論を色々出しました。ライプニッツのその微分法の開発者の二人のうちの一人であれなんだけど、こういうことの原理というのは、運動というのはギリシャ時代、非常に広いんです。ギリシャの人たちは、この運動だけじゃなくて生物の成長ね、そもそも発生から、成長すること消滅すること、質の変化、そういうことをすべて運動と捉えているんです。だから、運動の原理というのは、内在的な原理だといわれているんですよ。内在的な発展、というか縮んでっちゃうこともあるから、発展だと正確じゃないかもしれないけど、発展とか全体の原理ですね。つまりある意味での生命原理なんですよ。その生命原理での力ということを見出して、運動もある意味の形而上学で考えるときには、この物理世界にもそれが影響しているはずだと、それがなきゃいかんと、って言うのライプニッツの立場です。ですから、ライプニッツは、こうしたときに、この内在的な力の拡幅の原理を担うものを考えたわけです。

 で、延長の特性は何か、無限分割のものである。部分を作る。分けることができる、いくらでも分けられる、とりあえずね。ところが、それに対して延長ではないんだ、延長ではないんだから、この原理は、一つの原理として何か確固たる物が無いと、具体的なものにならない。それで、力の原理を担うものとして、延長的には、あくまで延長的には、分割が可能なんです。まあ原理を担うものなんですけどね。これがその当時に、いろんな言い方があったんだけど、これを最初は、魂と呼んでみたり、アニマね、もう少し古い言葉でエンテレケイア、これはギリシャ語で内在原理なんですよね。エンテレケイアって言うのも、生命原理だっていう形になって、二十世紀のときにもう一度復活しました。例のドリーシュ(Hans Adolf Eduard Driesch, 1867-1941)という悪名高き、ネオバイタリズムといわれている彼ね。彼は、エンテレヒーというドイツ語でこれを使っています。で後に、こういうものをライプニッツはモナドと呼ぶんです。だからこの段階で既にこの議論というのは出ているんですね。この段階で今言った、力に対する内在性、内在原理って言うのは分割可能だって出てて、結局30年近くたっておんなじことずっとやってるんです、ずっと。ただ、途中いろんな人たちと論争があった。で、重要な論争、というかこの八巻に九枚入っているんですけど、書簡宛で何人か出てるんですね。で、有名なのがデ・フォルダー宛書簡ていうのがあって、何年にも渡るんだよね。これがモナドロジーの前の段階でやってる議論なんで、これにネタがいっぱい入っているんです。それともう一つデ・ボス書簡というのがありまして、これも内部の細かい話がさらにたくさん入っています。それから有名なのが例のクラークとの論争ですね。ライプニッツ=クラーク論争と呼ばれている、ニュートンの絶対空間・時間に対してクラークっていうおっちゃんが、イギリスでは今こうなっとんだぞー、って言ってきたときに、お前さんの言うことは間違っとるぞー、ってやりあうわけですよ。クラークっておっちゃんも非常に頑固でして、あんたが言うとることは間違っとるぞーとごちゃごちゃやる、というような背景があります。

 ですからモナドというのは、運動の原理として分割不能である。ならば、部分という形でのモナドは延長的な部分は持たないといいます。ところが、ここからが分かりにくいんだけど、モナドというのは創造されたものである。彼の神様の考え方、弁神論の立場なんだけど。で、創造されたものは、変化を免れない、いかなるものでも変化を免れない、というんです。だからモナドにおいても変化は免れるわけがない。さあどうする。何が変わるか。モナドはモナドであり続けるために。そう だから、分割したのはモナドなんだけど、延長的に分割できないんだけれども、モナドは必ず変化するんですよ、被造物だから、どうやっても変化する。その変化を伴う変化を必ずもっているもの、表わすものをもってないといけない。この持っている内容を彼は実は、表象と呼ぶんですね。ある種の情報、内部状態、計算科学でいう内部状態みたいなもんです。つまり、物理的にもちろん回線の中にあるかもしれない。…メモリーがあって物理的に実現するものはあるかもしれないけど、メモリーとしてかわっていくものそのものは、メモリーの内分そのものは、物理的なものそのものではないですよね。それと同じような二重性を考えて、表象がね、represantationじゃないんだよね言葉が。これ彼ね、モナドロジーってフランス語なんだけど、パーセクションという言葉が出てくるんですよ。現代で言うと力ですよね。これをね、彼は表象っていうのよ。誰を表象する存在なんだっていうことになるんですよね。これ、当然。変化するのはどこでしょうか。世界に決まっているわけですよ。世界が変化しているのは我々の道理ですよ。だから、ペルセプシオというのは、つまり世界を表現するということですね。しかしこれをどこまで表現するかっていうことが難しい。訳者、米山さんとか佐々木さんによると、ライプニッツはそういっていながら、あんまりちゃんと区別して使っとらんと、まあ手紙で書いている人だからね。きちっと学問論文としてあまりこの手の話は書いてないんで。大体似たような話だと考えてください。

 で、そうするとライプニッツはもう一つ、こないだのパースもライプニッツから非常に大きな影響を受けているんですけど、基本的にいくつかの大きな原理をベースにします。有名な原理が二つあります。矛盾律と充足理由律。矛盾律というのは、Aがそれ自身と矛盾するものであることができない、という原理です。どういう場合であっても矛盾するものというのは、同時にではなくて、それ自身がそれ自身でないことが無い、自同律の裏返しなんですけど。これは彼が、必然ということを説明するための道具です。つまりそれ自身の反対が不可能であるということ、いかなる意味でも不可能であるということ、これを彼は、必然と呼びます。矛盾律はそれが不可能である場合、禁止事項としてあります。
もう一個は充足理由律。何事かがあるときには、必ず十分な理由が存在する。いかなる、十分な理由が存在せずに存在することはありえない。これは彼の二大原理と言われていて、後者のほうをさっきのデ・ボス書簡とかで、非常に強い原理として強調します。ところがね、問題なのはね、そうなると、その充足自由律ということがあるから、自同律というのはある意味で、それはそれである、だから可能である、矛盾はしてないから、つまりそれを全部自同律から、全部導き出すわけです[???]。

 さて、そこから派生するものとしてAとBという二つのものがあるとする。自同律は、AがAであればいいんだよね。矛盾律と逆だから。AとBが違うのはどうすればいいか。つまりそれは自同律が出てこない。でも、矛盾しないわけだよね。矛盾したら意味ないから。ということは、AとBが違っているということは充足理由律に従わなきゃだめなんだよね。違っている十分な理由がなければならない。理由なしに違っているということは言えない。これが彼の大原理です。これがだから、[識別できない2つの個体はないとする]不可識別者同一の原理になります。いかなる意味においても違いが見出せないものは、つまり理由がないものは、同一でなければならない。同一者は同一であるのは当たり前、同一者なんだから。これが不可識別者原理といわれているやつの原型です。充足理由律から出てくる。そうすると実はね、…これ、ライプニッツから別の話に飛んで解説の時間が長くなってしまうんですが、そうしたときに、この表象であるモナドに対してもこの議論があてはまるんですね。つまり、変化する以上は変化の理由があるんですよ、必ず。変化の理由を彼がなんて呼ぶかというとこれは、表象(la perception)といわず欲求(l’appetit)と呼ぶんです。これがアペジションと言う言葉で、変化していこうとする、表象を変化させていく、つまり、まだない表象を見ていこうということを考えようということを、彼は原理として立てます。

 アペジション。Appetiteっていうと食欲を表すものだよね。一般に欲求という非常に広い意味でこれを使うわけです。では問題、さらに表象の対象はなにか。世界です。世界ってなに? 世界であろうとするものなんですよ。つまり世界は全部を表象しようとする。だから、これがライプニッツの合わせ鏡とか、万華鏡だとか、お互いに反射しあっているとか、鏡の迷宮の中にいるとか言う比喩を使われている。ところが問題はね、さっき言ったとおり、モナドは違うんですよ。被造物だから、モナドは。どう違うの、っていうのがあって。モナドの本体というのはこの二つしかない[???]。モナドのモナドであるっていうことは。モナドは他のものを何も持っていない。有名なのがね、他のモナドを見るときに、モナドには窓が無い、って言う言葉があるんですよね。モナドにはそこを通して何か物質が出入りするような窓は無い、でも、表象はする……そうとしか言えない。モナドはだから表象がないという言い方をするよりも、正確に言うとそもそもモナドに内外という概念がないんですよ。普通の意味の内外は無い。延長的な意味の内外はいっさい無い。だからそもそもモナド自身には目に見えるような意味での境界が無い。境界が無いから、当然、窓があるわけがない。。そういうふうに考えてください。

 前回の最後にも言ったかな。境界というのはシステムだということに対して非常に重要なものにあるにもかかわらず今言ったようにライプニッツの場合は、少なくとも触れられる様な形での境界というものは無いんですよ。世界の面のレベルで[???]。ところが、そうしたときこれしか本性が無いんだから、ものすごいんだよ。何かを表象しようとするその本性、これを押しとどめてここまでしか表象しないよというふうに制限は何者にもできない。神様でさえできない。つまり、何かを表現しようとするものは何でも表現しようとする。パースがね、前回、すぐさま記号になる、「記号の万能性」みたいなこと言ったでしょ。何で記号という形になるの。ライプニッツもすでにそういうことを言っている。神様でさえ、記号であることをやめろと押しとどめることはできない。

 例えば僕が、数字123と書いて、原子的なものがあるからこれ数しか表わせないよねっていうのは本性に反しているんですよ。記号の。存在論的な意味での記号の本性に反してる。我々が勝手にやってるの。この記号の本性に反しているって話は、僕自身は、システム論におけるニクラス・ルーマン(Niklas Luhmann, 1927-1998)のやっていることに繋がるのかなと思っています。




 そうすると、「世界を表象する他のモナド」で表象する。他のモナドで表象するっていうことは、表象の表象の表象ですよ。いっぱいある。しかも何を表象しないということは限定されていないから、全部が全部見えちゃう。そしたら困るよな。だって、どうやってものを区別するの。不可識者同一の原理なんですよ。そうすると、すべてのものを写しあうものというのは、全てという無限の要素が入るんだけど、彼は無限の要素があることを全然気にしませんから、区別ができないわけですよ。そうするとモナドが一個しかないという議論になって矛盾してしまう。だから違う。モナドは、何かを表現しようとすることにおいては制限はされないが、いかに表現するかにおいては制限される。つまり、表現の仕方に曖昧さとか見えてこないものとか、中には眠っちゃうとかそういうことまで言うやつがあるんだけど、そういうことが起こる。つまり、表象の対象ではなくて、表象の仕方において差異がある。

 モナドの違い、モナドの差異は、何処にあるかって言うと表象の仕方にある。だから、簡単な感じで、AがBを見るという、見るということからスタートしちゃうと、AからBを見るという対象化の立場に立っちゃうわけ。これはモナドのレベルから言ったら見るということをきちんと表してないわけ。いかに見るか、どう見てるかということを問わなければ、モナトロジーをやったことにならないんですよ。僕の頭では、自分でいろいろ考えたつもりですけど、ライプニッツはやっぱりそういう風にいっているな、と解釈できちゃうんだよね。困ったもんだと思ってるんだけど。で、このいかにということに対して、ライプニッツは本を書くというよりも、非常にそこで緻密な人なんですよね、やっぱり、唯一健康だった天才だと言われているだけのことはありまして、たいしたことなんですが、それに対して、いかにという説明のシステムを作るんです。これは知っておいていいと思うんで書きます。でこの場合は、ベースは『形而上学叙説』のほうの注に入っているんですけど、この本の中にはね。『形而上学叙説』の一節に入っているんですが、そこでは「認識」という言葉が使われています。ただ認識と表現とそれから概念では、いや認識と観念かな、ただ観念は後に認識と大体一緒になりますから、区別はしてないんで大体こんな関係だと思っていいんですけども、表象する仕方のね。認識というものに対して彼はいくつか分割します。どうするか。まずこれ線を引くわけね。前見たのと同じだと思えるか、思えないか。そこにいる彼が、ぱっと見て、あ、昨日の彼だと先週の彼だと思えるか思えないか。よく分からん…分かるってイエスとノーが分かれる。で、イエスのほうをなんて呼ぶかというと、これを彼は「明晰」と呼ぶんです。その次に、こっちのノーはね、「曖昧」なんです。曖昧な認識ということです。で、その次にここにおいてね、しるし、象徴、細かい特徴ね、象徴が分かる。ぱっと見てね、なんとなく一週間前の彼だなって思う、でもそれ以上理由は分からないってことはあるわけね。ぱっと見てね、確かに他とは違う。特徴は何です? っていったらよくわかんねーな、なんとなくってことはあるわけです。

 それが、ここでイエスかノーかで、ノーのほうを、彼はこの場合実は混雑した認識、混雑した表象としてるんです。これに対してイエスを、明晰、判明というんですよ。分かってるんだよってこと。ところがまだ先がある。さっき言ったとおり、認識っていうのはモナトロジーがあるから、下へ下へと下がっていくんだよ、どんどんどんどん。だから、何処までいける? 一番下、つまり、原始的概念とかまで行けるのか?って聞くわけね。そうするとやっぱりイエスとノーになって、イエスの場合は、「十全」と呼ぶんです。ノーの場合は「不十全」です。細かいところまでずっと分かってる? 彼を見ていて、メガネをかけてて、髪の毛がかわいいおかっぱ頭でね、いつも作業着を着てるんだよねってところだととりあえず判明がかるんだけど、じゃあそのメガネのところはどうなってるのメガネのところはよく分からないっていっちゃうと、メガネの段階で、ここに戻っちゃうわけね。だからずっと下がっていくというのは、原始的概念っていうのは、形而上学的にはモナドにほぼ対応する。いちばん細かいところだから。そこまでいったら十全というんです行かないのは途中でここに移っちゃうやつは不十全。そして更にいくと、まだもう一個あるのね。
 そいつらを全部、一挙に見てるって人が出てくる。一挙に見てるとき、かれは直観で生きてるんですよ。でこっち側を実は、仮定的って言うんです。このレベルまで行ったら、これ、神様なんだよ。すべてのものの一番下の下までまでいっぺんに全部見てるから。このレベル、人間に全くないとは言ってないんだけど――でもまあホントはないんだけど――基本的には神様が、ある意味で完全な絶対的な知性ね、このレベルまで行ったらある意味…ていうこともある。もう一つこの問題[???]なのね。これどう違うの?いっぺんに見てないってどういうこと? 彼はこれでデカルトを出す。千角形の例を出すんです。千角形かどうかって分かる? あれは図形だから。数学に対しては彼は、十全性はできてると思ってるんですよ。ほんとはそこはゲーデルとかいう問題もあって微妙なんだけど。まあそれはおいといて、千角形というのはぱっと見てよく分からないんだよね。丸かどうかもよく分からない。でも、これは核があって、こうだとすればこうだという風に、前から順々にこう、やってくことができるんだったら、とりあえずそこまでは行けるわけですよ。順々に。だから、よく言う数学的帰納法というのは、順繰りにやっていくことをどんどん繋げていけば、全部下のほうまで行けるだろうという話なんですよ、基本的には。数学的帰納法は数学の中だけで済む話なんだけど、ライプニッツのレベルからいくと否定的なものを全部繋ぎあわせたら、直観的なものにいけるじゃないか。という話になるはずなんですよ。

 ところが残念ながらそうは行かない。それは、デ・フォルダー書簡かな、のなかで書かれているんですけど。モナドというのは、そうあったときにモナドもここまで神様のレベルまで行こうとする。でも仮定的で止まるということは、ある意味、不十分で終わらざるを得ないってことなんですよ。なぜだったら、彼、微小表象って言う概念、petit represantationこの表象の内部で、非常に小っちゃいものって言うのはありうるんですね。波の音聞いてるとするでしょ、波の音そのものっていうものは世界にあるわけじゃないよね。小さい波が幾つも重なったり、そこのところで空気を巻き込んだり、いっぱいあるでしょ。僕らそれ分からないんだよね。ただまとめて聞いてるだけで。ただ何かその構成要素あるでしょと思う。その構成要素があるということについては――夢とかですね――そういうものから微小表象というものがあるというわけです。それが我々の現実としてのレベル。ところが微小表象というのは、それ自身の表象の細かさをある意味では言い切れないんですよ、その段階で。それなあに?どっちなのって訊き続けると、とまってしまう。微小表象という概念は、実は途中で止まる概念なんです。無限そのものを追求している概念ではない。それは無限小に対して彼が、デ・フォルダー書簡かな、で言っている話もそうで、無限小ということをいうのは本当は可能的な無限だと。例えば数の大きさになったとき、どんどんまだ先に続けられますね。続けられるよねって言うことを可能無限といいますけど、っていう言い方ってだけです。言葉で言及しているだけである。本当の無限だったら無限の表象の細かさを全部見ていなければいけない。我々が言っているのは仮定であって、次々に見ていくということをいったときに、次のステップに行くためには、「次々に」といったときの同型性を保ってなければならないでしょ。選択してるじゃん、すでに。すべてを見てないでしょ。だから、それは本当の意味で、十全なところの、全部のものを見ているかどうかは分からないわけです。だから、現実のレベルで彼が微分法をやったからといって、彼は、しかも神様も認めていた無限小ということを、無限ということを認めているとしても、所謂無限小が実無限だとは彼は一切言っていない。これは非常にライプニッツが誤解されていることです。ライプニッツは存在論で考えたんだろうという人がいるけど、それは全然の間違い。ライプニッツはこの意味での無限小は我々の認識の仕方のレベルにおける混雑表象のレベル、我々はモナドだから、という形で考えています。

そうすると、世界っていうのはどうなるのかっていう、凄い議論が出てくる。全部認識なんだけどある意味で、分かる分かるだから、理由説明のステップでもあるわけね。何かを理由と見る、説明と見ると考えたときに、二つの最大原理が矛盾律と充足理由律だったんだけど、この中だったときに、神様は全部に対する理由を知っているわけです。神でさえ充足理由律をやぶることはできない。だから『形而上学叙説』のなかで奇跡に対する議論をしています。奇跡というのは、我々が見た一般的な物理法則を破るから、神様の意思による介入じゃないかって言う議論がある。そこで形而という問題をやろうとしている人たちがいる。ところが、そうじゃない。神はもっと上のレベルの規則に従ってやってるだけだ。わしらがこういうのをやってるから奇跡に見えるだけだ。神は理由に外れたことは一切行わない。理由に外れたことが存在するのは、意味が存在しない。というのが、ライプニッツの答えです。
最終更新:2012年04月18日 13:34
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