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第06回 2009年10月26日 > 02

 そうすると世界というのは、モナドとモナドの間に関係するっていうことではない。本質的にいま言った理由説明というでかいシステムの間の関係なんですよ。つまり、完全な理由説明をなすものを彼は神と呼んでいるんです。それでも恩寵があるから人格神的な言い方をもちろん使っているんだけど、同時に説明を与える、理由を与えるという意味での人格神なんですよ。神の意思もあるんだけどね。彼の場合神の意志と、それから神の知性というのは、いや神の悟性か、まあ両方は一緒なんだけどね、西洋の伝統から言うと、彼の言ってるこのレベルは常に神の悟性を参照するんです。ところが、デカルトの『方法序説』なんかだと神の意思のほうを参照するんですね。一緒にやろうよ。時間の概念が、神の意思が時間において発動する。意思って言うのは必ず。だから時間と神が、神とわれわれは時間において同じ地点にいてくれるっていうところがあるわけ。だから、時間の問題とすごく深く関わっている、この辺の議論。ただライプニッツはそうじゃない。神の悟性の方で、言っている。神の悟性は普通の意味での時間を越えているんです、完全に。永遠のレベルですから。だからこの神の悟性のレベルにおいて問題になるのは、二つの真理の問題で、永遠の真理といわれていること、それか、偶然のもしくは事実の真理。これは注意しなければならないのは、我々と神様の間の真実の違いじゃないんです。神様のレベルにおける違いなんです。こちらが何か、こちらの真理が何か、これは矛盾律と対応する。矛盾律で禁じられることは必然だといいましたよね。矛盾しようが無いもの、その反対が矛盾してしまうもの、として承認された真理。これはいかなる場合でも成立する。これが必然、これが永遠の真理、必然の真理なんです。神ですら逆らえない、っていうかこれこそがある意味で神の悟性の本当の本性だから。じゃあ事実の真理って何? 反対が可能であること。たとえばチョークって白いね。黄色のチョークで書いたら、矛盾する?一緒にはできない。でも黄色のチョークであったら可能だよね。黄色のチョークであること自体は可能だよね。自体としては。これがこちらのレベル[???]ではどうなるかというと、直感的なレベルにおいては、一緒に出ることはできない。でも仮定的なレベルにおいては、可能じゃないですか。この関係自体はめんどくさいんだけどね、ちゃんとやろうと思ったら。可能的であるんだったら大丈夫じゃないですか。つまり、偶然の真理というのは、反していない。ここでライプニッツの可能世界が出てくるんです。偶然の真理ということが成立するというのは、神がこの世界を選んだ。もちろんそれは充足理由律であるから。偶然ただガラガラポンとやってもだめなんだけど、神はこの世界を選んだ、だから、僕は白いチョークを持っている。違う世界だったら黄色いチョークだったと思う。これがライプニッツの答えである。

 これに対する充足理由を何と呼んだかというと、彼は、最善なんですよ、善なんですよ。最大の善を選んだということを選んだ。恣意的ではない。それが、実は論理学と倫理学をつなぐ筋となっているんです、ライプニッツの。さらに面白いのはね、どうやって彼、神様を見たの? そうしたときに、ここの問題に対して、これが呼応したものを論証と呼ぶっていう考え方があるんです。これはライプニッツ本人というよりもライプニッツの解釈なんだけど、この両方が接合しないものを、ほんとに見るという。もちろん彼は見るだけなんだけど、これが分かれている場合と分かれていない場合と考えると、理解しやすい。つまり論証的な場合は、さっきの質問の証明と一緒で、充足理由律ではなく、矛盾律にたどり着く。まあだから帰謬法でしか普通の証明はできないと思うんだけど、それでもう終わり。第一原理、最大の原理までいったから、ってことになるわけね。ところが、論証と仮定が一致しない場合がある。でもそのときの結論全体に対する結論は、必ず外に行ってしまう、というのがライプニッツの言ってることで、これは現代の常識からすると当たり前です。123ずっとやってみようね、こうやってn+1まで行けばいいよね。これで次々証明していけば行けるでしょ、どっかでおかしくなったらおかしくなっちゃうね。ところが、ここから、ゆえに、すべてに対してOKだって言い方をするところは、この系列の外にある。これがカントールとかああいう人が言った話とも繋がるんだけど、外に出なければならない。でも、外にないとしたら矛盾するんだけど、外にあるということを、限定はしない、可能にはするけど。[???]

 このところでさらに言ってしまうと、ライプニッツが定義といっている言葉に対して問題があるんですよ。彼は定義には三つの定義の種類があると言っています。実は理由説明の定義っていうのは、裏腹なんですよ。定義って言うのはAがBだと定義するよね。ていうことはAがBだってこと説明できるじゃない。入れ替えれば。逆でもできるよね。だから、定義という概念は、ある意味でこれの逆方向だと考えればいい。これを互換可能な性質って言ってるんですね。彼の定義は三つあるんです。名目的、実質的、さらにこの下にもう一個あるんだけどね、それちょっとおいときます。名目的定義と実質的定義との差は何? 名目的というのは、その定義がこれは入れ替えられるよっていうだけで、そのものが可能であるということを何も指し示してくれないもの。そのものの可能性について、何も語ってくれないもの。これを名目的定義といいます。たとえば矛盾したもので、最大の自然数。言葉は分かるでしょ。「最大の」ってはいっていれば、使えるじゃない。自然数入ってるから。でも、不可能でしょ。これは名目的な定義にすぎない。ところがその定義の仕方が、それが可能であることを――必然じゃないよ――可能であることを示してくれるもの、それを実質的定義といいます。これが大事。
 さらに、この実質的という意味のなかで、どこまでいくのっていう議論が出てくるわけです。ここまで言ってくれよ。ここまでいってくれた定義を彼は、「完全」というんですよ。完全な定義。もしくは、「因果的」って言うんですよ。つまり理由の説明において一番下まで行ったところ、神様が見ている世界の直観のレベルまでいって、はじめて因果なんですよ。そこらで我々がチョコチョコやっている物理とかなんとかは、彼の定義だと因果の因の字にもはいらないようなもんです。ここまで徹底しているんだよね、ライプニッツって、すがすがしいでしょ。

 こういうところを考えたときにライプニッツは全部の質ってものを考えた。さっき言ったようにモナドの複数性というのは、つねに曖昧さが出てくる。ここまで行ききれない。でも自分に近いところは分かる。それを彼は身体と呼ぶんです。自分の近いところ。実際この身体の問題は有機体の問題とつながるのですが、これが大変に難くて、ライプニッツ研究者も悩んでいます。なんでかっていうと、いかにしてという言い方ががあるときに、いかにして部分に対して曖昧さという部分が入ってくるから難しいんだと。ある意味で不十分の世界しか見ていない、無限の立場から見れば。それが世界の多数性を生んでいるんだと。実質的にはこの問題ね、神様は偶然の真理といったときに、この世界を選ぶって言うのは、最善の世界というぜんぜん違う系列から来ているわけね。この世界との関係から決めてるんじゃないんです。だから、神における偶然の真理というのは実は、こちらから見たときに論証じゃないほうのリールなんですよ。そこで神様の行為性が現われる場所なんです。見るということがほんとに真理をただ見るだけだったら、これは、僕の解釈ですけど、ライプニッツにおいては一番のところがここに来るはずなので、本当の「見る」に行けないですよ、論証に行ききらない。この世界があるということ、この世界が動くということ、そこで、ずれが生じている。ここのところにある神の行為性が根本の問題なんです。ライプニッツの神様って言うのは、デカルトみたいにね、デカルトは意思の神様だったから、連続創造しなければならない。大丈夫だと思ったときに、バシャッとつぶれるかもしれないって言ったでしょ。だから神さまが「だいじょうぶだよ」って支えてくれないと。神の善意だよ、っていうのが連続創造説だった。物体extense自体を、時間的extensiveに操作するために必要だった。
 ところが、ライプニッツは、こう言った。神様は悪いやつだったらどうするの。悪いやつじゃないという保証は無ぇんだよい。だから、そうじゃなくて、神の悟性には理由があるんだから、悪くなりようが無い。これに支えられたところにしか創造という行為は起こらない。あとは、モナドの内部の自己展開。モナドが表象してくるということ、表わしてくるということのモナドのオートノミーなんですよ。モナドの自動性、自分で動くということ、オートマトンと一緒ね、自動性、自律性によって展開していく。だから、神様は、最初の一発を蹴飛ばすだけだ。そこに神の運動性の本当の問題がある。これ僕の解釈ですけど、それがライプニッツの世界観です。

 で、そうすると、普通に見えている作用をどう考えるか。彼は、神様に理由の源泉があるんだから、ここまで行けば、AとBの二つの問題の理由の区別があるはず、どっかでこれが出てくるんだから、どっかでとまってるんだから、比較したときにもっと強いほうが出てくるはずじゃない。だから理由において相手に説明する能力のあるものが、相手に作用を起こす、我々の目では、というふうにいう。理由の世界において、相手に説明されてしまうもの、これを作用を受けるという。これがライプニッツの作用論のベースです。現象の世界といって、見えているものは、モナドそのものではなくて、モナドの全ての表し方というのはさっき言った鏡で映しあっているような、さらに映し合ってどんどん映し合ってるから、ものすごく膨大なものがある。その一部分しか現象世界では現われていない。一部分の現象世界のある部分で説明をするという形でどちらが強いかということで作用するしないを考える。説明するしないということのレベルが、因果となるわけですね。因果図式ということによって、原因が説明になっている。普通は因果の機能で、HOWとWHYが違うというのが我々の立場ですよね。ライプニッツはそうじゃないんです。それは我々が現象を見ているという曖昧なレベルでしか見ていないから。つまり何々を見ているという仮定のもとで制限しているからそうなるんだと。本当の理由の世界まで行ったら、そんなことじゃとまんないぜ、と言っているんです。ライプニッツは極めてシステマティックな形で、理由の概念と全てを結びつけているわけです。

 そうしたときに、彼の言っている時間空間というのは、今言った理由の間の秩序付けの形なんです。だから時間は、継起的に続いて起こるということの秩序といってもいいし、、継起的に起こるという秩序でもいいんです。空間というのは同時に、この同時にという言葉は実は非常に怪しくなるんだけど、とりあえず日常上で、同時を認めたとして、同時的なものにおけるともに存在する、共存在co-exsistenseの秩序が空間のもとであり、たださらにもう少しひねりがあるんだけど、それを可能性のもとでいったのが、空間なんだと。現実にあるだけじゃなくて、可能性として枠が、形があるわけですよね。それを可能性として実際に配置されているっていうことそのものだけではなくて、こうもありえたという形で切り取ることができるから、それを空間という風に彼は呼んだんです。それが、ライプニッツ=クラーク論争のクラークの方で、絶対空間がある、とニュートンが言ったんだけど、絶対空間は神の感覚器官だと。ある意味でカントはそれを外観の形式です、といった。神という言葉を隠して人間のという言葉で言ったらライプニッツは、いやそれは理由のシステム、これこそが、実際にあるものなのだから、この理由のシステムということの可能態として、さっきの言い方でいうと無限小という言い方をした曖昧にした、一つの仮の語り方、それが空間の語り方なんだと。このような議論がライプニッツ=クラーク論争のベースとなっています。ライプニッツを見てると、神神神ってやたら出てくるんですよ。どっちも。神様ということを説明の原理として使ってる。だからね、ぜんぜんそれを知らずに読むと、なんだこいつは神学論争じゃないか科学論争やってないじゃないか、と思えるんだけど、いま言ったように神というのは彼にとって説明の原理という意味で非常に擬神論的なタイプのものです。もちろん人格神という側面もあるんだけど、神秘主義で神を使っているわけでは全く無い。そういうことを気をつけて読まないと、何言ってるのか分からなくなる。というのが、大体ライプニッツのもとになるところの話です。

 もう少し細かいことを言うと、ライプニッツと有機体の説明をまだしてないですよね。
 内的原理といえばギリシャまで遡るんだけど、ギリシャはアリストテレスがまさにそうだった。運動の原理を持っているということは魂をもってる。つまり、生命モデルだったんですよ。で、生命には幾つかのモデルがあって、エンテレケイアというものをもってる、植物本源論からそうなんですけど、成長の内的原理をもっているのがまず一番下のレベル。主のレベルとして、下のほうにある。次に、記憶を持っているというレベルが出てくるんですよ。記憶を持つとは現代的に見るとかなりいい加減なんだけど、彼らの当時、ライプニッツの時代もそうだし、われわれが植物が記憶を持っているということをどういう風に解釈するかは難しいよね。行動的な記憶を持たないからね。いやそうじゃないかもしれないという議論はあるんだけど、いろいろと。シェルドレイクとか変な人たちが考えていることが。それはとりあえず置いておいて、一応は植物は記憶が無い。記憶があるもの、これを動物と考える。動物のレベルは記憶がある。だからライプニッツはモナドのレベルを言い換えるときにエンテレケイアって言う。さっきの運動の原理としてのなかに内的なものと考えたんだけど、それに記憶を伴っている場合を魂と一応は言う。実際にはあんまり分けてないんだけどね。ぐちゃぐちゃに使ってます。さらに、これに対して、反省の契機が可能になっているもの、理性的なものが入ってくることがある。つまり、ただその場で記憶として処理するのではなくて、さらにそのひとつ上の計画を見抜くという力がはいってくるもの、ということがはいったときに、それを精神と呼ぶ。たぶんドイツ語だと、ガイスト。その意味で、もともとドイツ語でガイストというと、彼らの年代から見ると、バッハとだいたい同じ頃にいるんだよね。でmガイストは、精霊の意味なんです。つまりガイストを受け取ってるってことは、われわれは精霊の部位を預かっている。これはプラトン主義の話とつながるようにできていて、だからこそ彼は、神様の王国と言っているキリスト教の話に、モナトロジーの最後をつなげるんですよ。『形而上学叙説』でも。

 さっきの因果の議論まで言ったとき、魂は内的原理だったね、お互いが見合っているという。身体は延長だよね、当然。われわれは両方持ってるじゃないか。どうしたらいいか。といったときに、そこで有機体ということを、いま言った生物原理だから、説明しなければならない。彼は有機体ということをどう説明したかというと、これはデ・ボスの書簡の1706年とか、デ・フォルダーの1703年の書簡にも出ているんですけど、こうかんがえるんですよね、モナドから有機体の説明。まず一番最初に何があるかというと、「原始的能動力」――ちょっとこれ、翻訳でどうかなと思う気もするんですけどね――というものがあり、二番目に「原始的質量」です。質量はもちろんある。アリストテレスが言ってるんです。これ第一質量と言います。これを原子的な質量に対応させることによってできるのが、実はモナドなんです。モナドの創造の話をここでするわけ。それに対して、四番目に――ここが怪しいんだよね、物理的に――これが、第二質量ということなんです。そして、五番目として四の中で、際立った、または支配的なモナドによるものです。この段階を有機体と呼ぶんです。これで有機体です。この辺がよく分からない。ここのところが原始的能動力。これ[???]で、原子的質量。これはライプニッツのよくわからん質量。で、神が水の上で漂っているという、創世記の記述なんでしょうね。何にも無かったときにカオスなんですけどね、でもわからない。

 モナド、被造物のモナドなんですけど、矢印をつける理由は、神自身をモナドと考えるからです。完全なモナド、一切の見ているモナドっていう。だって表象するということで神様を考えるとそういうことになっちゃうから。神様自身までもモナドだ、ある意味言っています。これをホワイトヘッドなんかだとどういう風に解釈するかってことになるんだけどね。ここで、第二質量、これが実は身体になるんです。これが、実は支配的だということは、作用を受けているモナドなんですよね。さっき作用の話をしたでしょ。理由を言って、それで説明されてしまうもの。ところが問題なのは、モナドは内も外もなければ、空間的なものでもない。だから、作用を受けているモナド群という言い方をしてるんだけど、そのモナド群というのは、そのままどっかに集まっている。ライプニッツそういう書き方してるんだよね、してるんだけど、モナドそのものではそんなこと起こるはずが無い。モナドには内も外も無いんだから、それ自身としては。このライプニッツがいう本質的っていうのはessenという意味での内的だから、空間的な組み合わせの内的って話は何処にも無いわけ。それまでの個体において身体って言うのは、物体って言い出すんですね。訳も凄いんだけど…[聞き取り不可01:01:38] ぐちゃ…。これがいつも言うとおり困っちゃうんだよね。せいぜい言えるのは、モナドと、身体というのは、そこを通してモナドがある現象に限定されるといったような、つまり身体のある世界は、さっき言ったような秩序としての限定されている現象の世界だから、その現象の世界での重なりあいでしかないんですよね。だから、モナドそのものが集まっているわけでは本当はない。逆にこれそのものはどうか、支配的だって誰が言っているかって言うと、その支配性はあくまでも現象世界の支配性なんだ、よくよく考えると。もちろんモナド全体に対しても、本当言うと分からないんですけど、神様の世界にいるんだからどちらかの段階があるはず。でも場合によって、視点が違ったら支配の関係が違う可能性あるよね。色んなの説明しているんだから。一義的に、この身体が、っていうことは言えないんですよ。
最終更新:2012年04月18日 13:44
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