これは実は、ライプニッツ=クラーク論争のなかでクラークに対して、空間に対して充満してるからって言う議論をするわけだけど、物があるから、物って言うか現象があるから。ところが、クラークに対して、私はそこにあるものが古典的に絶対的にあるとは言ってません、っていうわけ。変わっていいんだよと、そこに埋まるものは。レス・イクスパンサーとして、そこにあるという形で、充足させてやらなければ空間が存在しないと言っている物質・物体は、神様の目から見て固定的にあるとは俺はひとことも言っていない、
変わってもいいんだぞ、という言い方をしている。ということは、われわれが言っている有機体というレベルは、われわれが見ている範囲での有機体でしか判断できない、厳密に言えば。この次元で、僕と彼を交換したらどうなるか。いろんなものがあるんだけど、それはただこの世界の現象として、この世界に出てくる形には表れていると考えているだけなんです彼は。
そこがやっかいなところで、実はこれが鍵になって、この理由の世界が、実は[???01:04:11]の世界に分裂する。どう分裂するかって言うと、これは、要するに物理的って言ってるけど、延長って言ってる世界、つまり作用因の世界、作用因の領域。と、それから、目的因の領域、…魂…この[???01:04:41]に分裂するんですね。これはそれぞれにおいてそれぞれの完全な、この意味でのこの範囲内の仮定的なことまでは説明が付くっていうんです、彼は。それぞれ独立だと。しかし、その期限において、相手がいないと完全にならないから、期限において、つまり神様が説明するレベルにおいて、この仮定性のところを直感で飛び越える、というさっき言った、世界を選ぶところにおいて結合化される、この結合が予定調和なんですよ、彼が言っている。しかもこの予定調和は、このレベルでは、現象としての時間の内部にはないわけだから、時間ってことが先にあって、いつ前にやるっていう予定じゃない。全体の枠組みとして予定調和しているということが、この二つの対応が予定調和、もしくは彼は代用っていったんですけどね。これが自然領域なんですよ。これが自然なんです。
ここまでが、さっき言ったアニマルのレベルで全部行われている。アニマルのレベルでここまで分かる。これに対して、さらに実は、ここのところは、身体なんだけど、これ両方絡んでるからある意味で、移動しているんだけど、運動しているってことがあるから、でも一度現象界でやったらそれぞればらばらだから、連続創造みたいに、神様の意思とかそういうものは、物理法則にはいってきちゃいけない。物理法則は物理法則できちんとできてる。それからそれは二つやったのね。デカルトは神様が介入するって言う意味での、神の一説。もう一つマールブランシュっていう人がいて、マールブランシュって言う人は、お互いが原因になりあっているから、機会としてそれを要求しているから、お互い交流しながらってことで多分機会原因説です。マールブランシュ。彼はそれを批判している、調和なんだと。どこでやるか神様の悟性において、調和としてこの世界に現れている、ということで対応している。
スピノザの平行論とよく似ているんですね。スピノザは、世界は神様の影だと。モードだと言っている。そうでないライプニッツは、モナドのわれわれの現象界では変化しているっていうことを、現象界の問題だとね、変化しているってことのレベルがどこにあるかってことと、秩序があるっていることのレベルがどこにあるかってことを、ライプニッツはきちんと説明していない。ずれちゃっている。ずれちゃってるところがあるんだけど、秩序という形で後からわれわれがあとからみることができるんだから、そこに何か間違いなく対応している。それが自然なんだ。さっき出てきたガイスト、精神のレベルが入ると、実はわれわれは、精神が何が他と違うかというと、精神こそが神の似姿って言われるんですよ。ここでアダムとイヴ、創造説出してくるわけね。神は人間を自らの姿に似せて作られたという話がそこに出てくる。精神はそうだと。だから、精神のレベルに行ったときには、被造物ではあるんだけど、被造物であるだけではなくて父と子という関係。それから共同体のレベルになる。だから、父と子としてイエスを作りますが、神の子イエスキリストっていってるんですけど、神でありながら、神の子であるってことは、人間であるってこと、ガイストのレベルで問題が無いと考えるんですよ。そういう形でこの上で、自然に対して、道徳の世界というレベルがここで出てくる。この世界を実は恩寵と呼ぶんですよ。これも予定調和になるんです。より高いレベルのガイストモデル。さっき言った自然と恩寵ということの原理、理性から見たところの。グレースといわれている本はこれのことをもう少しよく説明している。というシステムになります。だから、さっき言った一番下の言い方にもともとの問題があって、予定調和という全く同じ神様のレベルで普通に行われるようになっている。
大体大丈夫かな。ここのところを、ここの、ここから大体ライプニッツの僕が使う道具としては、この辺まで分かっててくれれば十分だと思うんですが。僕の中身はたいしたことないんですけど。この二つが完全に分断しているって言ったときの言い方が、ライプニッツは理由論をしてたりするから、物理学理論と法学の理論は分けておかなければならない。人文と自然科学は違うんだよ。因果律と理由率、理由は違うんだよということを、彼はちゃんと守っているんですよ。ところが、それを何処で切望するかって言うと、神様がそれを選んだ、その意味で本当に、神は非時間的だという、ライプニッツのレベルだとね。神が行った行為においてそれが対応したわけですよ。そうすると、本当の意味で時間が進むじゃなく、時間っていうのは秩序なのね彼のね、変化をする、変化をするって言うのは自己展開、モナドの自己展開なんだけど、モナドの自己展開して変化すると言っていることは、普通のわれわれで見て現象で見てしまうということは、理由の世界の話ではない。だから、影として時間が見えているという意味で、ここで見えている時間を、そのまま時間と考えるのはまずいわけです。
これは同じ、ある意味でこのヘーゲルの時間とくっつけて考えたのが、マクタガートの議論になるんですけどね。マクタガートはだから、A系列B系列という話で時間が存在しない話をして、実は正しい理由の世界、真理の世界の段階性、構造性ということから、C系列という概念を出して、それが時間の本体だという言い方をしたんです。普通みんなA系列、B系列はすれ違うよ、という入不二さんみたいな説明をして、だからわーとかいう話になるんだけど、C系列って話であって、後ろの理由の世界のとき出てきます。それつまりヘーゲリアンの話になるから。このシステムも、それ自体を展開する運動だと思った場合にヘーゲルですよ。歴史という形で言い直した場合。ライプニッツは悟性だからそこに対しては言ってないわけ。だから神様は、神様自身のためには働いてないんですよ一回も。この世界を作るという行為においてしか、ライプニッツの神様は意味を成さない。でもそこにこそ、変化というものの本体があるという風に考えていけない理由は無いでしょ。そこでこそ本当に神はなにかしたんだから。つまり、僕が言いたいのは、変化っていう問題があるときに、…変化の影ではなくて、本当に変化するということの部分がどこにあったか。モナドの自己展開は何が保障しているか。それは神様が意思でかなわないか。ある意味で、これは僕の解釈ですけど、この次元とか、この次元における神様の誠実さがあるからこそ、このレベルでの変化ということがここで保障されるわけです。これと全部ずっと来るんだから。で、ある意味で、やばいのは、だから人間を通してこっちまでずっと恩寵がくだるんだから、人間が支配していいんだぞというイデオロギーも、実はライプニッツにはあるんですよね。なかなか危険なところもある。でも逆に、だからみんなを助けなければならない、プラスマイナス両方あるということです。
でも僕らの問題はこの変化です。われわれは、そこまでいかなければいけないんだろうか。確かにこの見えている現象は、しかし、しかもライプニッツがここにいる段階は、常に真なる無限の議論をしなければならない。ある意味で、われわれはどうにもならない。昔からよく言う、怠け者の本意っていうのがあるわけ。今、彼がうんうんとうなずいた、彼は授業出てこなくたって単位とれるかもしれない。取れると決まっている、予定調和してるなら、来なくてもいいじゃねーか。運命論、宿命論に対してこういう批判はずっとあった。決まっているんだったら何しても無駄なんじゃないだろうか。やったって意味ないやんけっ、て言うのはよくある宿命論の議論なんですよね。それに対してライプニッツは、言っているんです。そういうことをいうのはアホやと。お前は神様の知恵の範囲と、予定という概念を分かった気になってそういうことを、いってんだろ。いやいやそういうもんじゃない、神様の言っているレベルは計り知れないんだから、人間はその分を尽くして仕事をしなさいという、たいがいみんなそんな答えをするわけですよ。ある意味正しいんだけど、でもそうしたら、その本に関しては、我々の、実質的な、生々しい感じに対して、諦めろという話だよね、理論的な議論を。現象学の根本を、分をわきまえて諦めろということだよね。それはそれであるかもしれない。でも僕は、授業の最後に冗談めかして言っているけど、人間はそこを考えたくなるのが業なんですよ。カントが純粋理性批判の序説で言ったように、そこが業なんですよ。そこを考えたくなるのがわれわれなんですよ。そこで留めておけるような敬虔なやつだったら、もしくはずうずうしいやつだったら、哲学やって困る必要は無い。それを考えようとすることが問題。だから、ぼくはそちらに行ってしまいます。
この変化というものをライプニッツが言っている、このようなものとして、ただ明らかにはできない。何故だったら、無限の実在を把握しなければならないから。これだとね。ライプニッツの言っている無限というのは、さっき言った、こうなっていけばっていう数学的帰納法のパターンの繰り返しの無限じゃだめなわけ。それにあるものを、それとして全部見なければならないから。[???01:14:35]これを全部きちっと見分けなければならない。
だから、この場合の無限は、バラバラの無限なんですよ。連続ではないんです、ある意味で。これは非常に不思議なんだけど、ライプニッツは、連続ということを世界の一つの原理だと言います。事実としての。連続は原理なんで、たとえば形相の抜け、それが空いてしまう、空間があるということは禁止する。これがライプニッツ・クラーク論争のなかで、ニュートンの絶対空間は隙間だからね、隙間に対して、反論する論拠になっている。にもかかわらず、それは常に現象界なんです。現象界だから、連続で隙間がある。この途中だから隙間がある。神様のここの面までいったら、隙間が無いけど全部区別できる。
これ分かりにくいでしょ。前も言ったかな、A…B…C…四つあるね。どうして四つあるって分かるか。あいだ開いてるよね、区切っているよね。今の数学では、そうじゃなくて、この部分は…ABC、四つしかない、ほんとは何処にも無い。ほんとに考えて。分からないでしょ。ある仕方である仮定のもとにたって、やっとイメージできるんです。ある仮定の下にたたないと、ライプニッツに観念は我々にどう与えられるかって言う論文が入っているけど、そこで、この言い方で無いけど議論、この問題を議論しています。簡単な限りで言うと、僕ら何かしらの形にしないと、これとか、…順番にぱっぱっぱっぱと四つ時間的に繰り返していくとか、なんかという形で、それを分ける手段、分ける過程においてわかるよね、他っていうのは。つまりなになににおいて、その何々においてという前提条件が統一しているということがなければ、他ということも分からない。だってこれが、ぜんぜん違う、別のものに書かれていたら、四じゃないよね。二が二つあるだけだよね。ライプニッツは、二十歳くらいのときにこの結合法の議論をやっているんですけど、いっぱい。当然そういうことを考えているんですよ。だから、数学の本性で、他ということを扱うということは、実は、単純に見るというレベルでは本当はないんですよ。で、そうしたときに、神様ってのは、あれがストレートに四って分かっちゃうっていう次元なんですよ。あんな仮定がなくてもわかる。これが、現代の哲学の問題、例えばドゥルーズとかで問題になる、マルチプリシティ、多っていう問題ね。多が多としてなんであるか、常に一というもの、この場合だと仮定というものに従属したことでしか我々は分かっていないということは、どういう縛りなのか。こういうことが、ポストストラクチャリズムでずっと議論されたわけです。
だから今言ったように、このライプニッツの立場をそのまま、すごいなあ、凄いシステムだなあって、これに沿うように変化の実感をもたらすことはできない。あの問題がわれわれに直覚的に解釈されない限りは。ということは、裏返って、それぞれがとまる段階があります。ライプニッツは何処に対して、だから不十分だだといい、完全なる神様常にだからモナドが二つあると、モナドAとモナドBがあったら、いつもの神様ということを通して、理由から作用を、説明する、説明される、という形でやってたわけ。つまり、いつもここの部分の議論をしてきた。この部分を。ここに照らしてやってたわけ。ある意味で、これはルター神学に似てる。われわれと神様の対話の話だということです。でもね、いなくなって、このレベルで不十分な形があっていいんじゃない? 不十分に見合ってていいんじゃない? 横の連帯として。不十分な単位で変化、ライプニッツはさっき完全的なものを因果って言ったけど、不十分な形で因果って言っていいんじゃない? いけない理由ないよね。だから、その不十分な因果のなかで、何を因果として選択しますか。選びますか。つまり因果というものを、完全体としてのその因果ではなくて、因果図式として、みて見て、因果図式のなかで、だからいろいろあるわけですよいろいろ含んで、山のようにあるわけですよ重力だけじゃなくて。空気があってむこうっかわにもっとでかい月があって重力があっても落ちてこないじゃないかとか。だからこの中で、何かあるものを選択して、残りのものを、以下同様ならばという形で、この型を選択するということが、われわれが因果を書いている、理解している、むしろわれわれの世界の因果がこの現象界としてみたら、ということの一つのアラームではなかろうか。この発想でシステム論を組み立てたのが実はニクラス・ルーマンです。ルーマンももちろんライプニッツの言及はしてませんが、後のほうでやっているかもしれない。僕全部読んでるわけじゃないんであれだけど。自己言及をするっていう翻訳が出てるんですけど、まだ実は、持ってて読んでなかったから、読もうと思って間に合わなかったんだけど、最後のほうで神との対話の議論が入ってます。
つまりこのようなレベルで、因果図式を取り出すという形で、不十分な間、食い違っている間、隙間がずれている間、そこのところで因果という概念を作ることで、現象界における変化という概念、つまり、ライプニッツは、神様の一撃ですべてが説明できるような意味での、ある意味完全で、幅の大きい世界そのものを、全部一回だけで、そいつを支える変化というものを作ったというふうに解釈したとしたら。そうでなくて、不完全であるがゆえにその変化というのはこの世界に、たくさん散らばっている。そしてその不完全なものの間で、結ばれていくという形で、むしろ現象界でのあるものを取り出せると考えていけないか。いけないと禁止する理由は無いんじゃなかろうか。
こういう見方で、システム論を考えるというのを、そのシステムをルーマンはだから、それを選択する場合のシステムのエージェントの問題だと考えたわけですよね。初期ルーマンですけどね。つまり、やはり参加する人間、前も言ったけど、われわれと、私という二重性をもっているということは、この二つ、神の似姿という二重性を持つことと同じようにして変化ということを見るというパラダイムで、考えてみたら。だから、見るとやるってことの不十分さとか、忘れてしまっている部分とか、いうところと重なるわけです。
こういうふうにして、ルーマンを読んでみたら、前に言った境界とか忘れている部分とか、説明がしきれない。曖昧になる。境界って言うのは外から見て分かれる、だから境界っていう概念であるけど下から見たら分からない、ウィトゲンシュタインが言っているような意味で。でなくて、まさに曖昧なる混雑する、ある意味で、忘却する、分からなくなる極限として、意味があるって言う問題として、境界って言う概念をコミュニケーションベースにもってく。と考えることで、社会をシステムしてと考えることができるんだ。まさに、これが理由のシステムだったのだから、同じことを自然科学でやっていけない理由が何処にあるか。
それで自然科学ということを、内容という問題だけでなくて、自然科学をやるということ、というより自然科学において、さっき言ったそれでも因果図式、仮定のレベルにおいてはここまで行けるというもの。論証もない……。それから、実験という変化ということが問題ですが、変化における実験という、ここから我々は読み出さなきゃいけないんだけど、デュエム=クワインテーゼっていうのがあって、実験は常に裸の実験ではなくて、理論的なものに解釈されない実験というものはない。ということを言っている。それは、変化というものをわれわれが限られた範囲で見るという形から、しかもそれを説明するという言い方で、やるということの一つの部分だ、と考えたらどうなるか。
そういうレベルで科学ということが、このライプニッツ的形而上学システムをむしろわれわれの現実の世界の間に近づけるある種の変形した装置、ある種の変形した営みとして考えたときに、哲学はそこにどういう風に影響されるのだろうか、というふうに考えたいというのが、私の最初の、ライプニッツを使う必要ないんだけど、私の最初に、科学がどれだけ陰険に言ってくるかという陰険さの問題なんですよ。内容に対して批判するという、そんなレベルでも全然ない。我々が利用しているシステム、因果、変化というもっともベーシックな部分に対して、どういうことを便宜にやって哲学システムを構築したか、ということに対して、科学自身が捉える仕方と、どうからんでくるか。それを言うためにわざわざ、一時間以上かけてライプニッツというのを通すために時間かけてきた。だから、それによって、科学に対する、今現代科学がわれわれに影響している、ただ科学が成果物だけじゃなくて、科学がもっているものの考え方、科学ということをベースにするようになったときの、物を選んで、それをしかも、自動的に無意識にわれわれが考えてしまっている枠で、因果って言う言葉だけで、言葉なんですよ、名目的ですよ。今日の言葉で言ったら、それ自体が、今の段階では、って言った瞬間に、因果的ってなんかイメージしちゃうよね、物理学の何たらとか、なんちゃらかんちゃら、って。因果的に説明がつくとか、脳みそもってるが云々とかいうやつがいるけど、そこのところを、一体何処からちゃんと理解するか。われわれが。我々が経験に着地するということを、言語使用において、どのように着地しているか。で、これもある意味日常言語に対する日常言語学という時点でやったかもしれないけど、そのレベルではとどまらない。あいつらは数学ということを論証というレベルでやるのと、…パターンとしてもってきた、この世界は現象界であるという概念に対して今回の現象っていう概念に対して実は議論をせずにやっている。パターンは利用できるから。ある意味そのパターンが利用できれば使えばいいって言ったのは、プラグマティズムね。その説明がちゃんとできればいいんだ、って言う立場でウィリアム・ジェームスだよね。ジェームズは理由があったわけ、きちんとした説明をするために使えれば良いんだってことだから。パースがプラグマティズム、いやプラグマティシズムだっていったのは、彼自身もこれじゃないんだけど、精緻じゃないんだけど、数学のレベルからだけでしか考えてなかったけど、一性二性三性とかそういうことを考えてさ、そういう形で世界を照らそうとしたわけですよ彼は。だからその辺のところにいろんな絡みがあるんだけど、われわれがそういう話に対して、どういう態度をとって、科学論って言うことを、科学哲学っていうことをやっているのか、っていうくらいは、せめて考えなきゃつまらないじゃない。ヨーロッパから論文がでてるからどうだとか、自然科学者はこういってますからねって、やっているわけですよ。で自然科学者がどうなっているのかとか物凄い下のほうでやっているわけですよ。例えば場の量子論で何やっているかなんて、ものすごい分けわかんないことやってるからね。それが彼らは、現実の世界だと確信してないと楽しく生きていけないから。ある仕方で知っている、ある意味で知っている。無意識かもしれない。ここまでいってないけど、少なくともこのどっか、ごちゃごちゃしたものがある。それを外にある枠で、切るしかないんだけどシステムとして、我々とは別かもしれないけど。
でも、どういう図式、どういう言葉の使用ということを当てはめるかという形で、考えないでやって、連中からまともにパートナーとしてもしくは敵対者として、きちんと、きちんと対応してくれる敵対者になれるか、それが問題なわけです。というので、実は科学自体がこういうシステム出てたらどうなるかという話は、私自身がまだモデルを書けていないし、まだ結論までいっていないのですが、全体として、終わりまでの間にもう少しできたらいいなと思います。とりあえず、バラバラにやると取っ掛かりも無いから、そこまで考えてないけど、科学哲学という名前で言われてきた、
その他の思想は、どういう風なことをやってきたかと、今日言ったような観点から見たときに、どの辺に主に焦点を当てて取り出すか。やっぱり見てない場所、見てないって事をくくりだすことも一つのコンセプトだから。ある部分はくくりだしてる可能性もあるけど。そういうことも見ながらあと次の二回くらいは科学哲学に対していくつか、重要な、全部じゃないけど、いくつか見解を説明しながら、こういう立場から僕らはどう考えたらいいかっていうような話をしていきたいと思います。
最終更新:2012年04月18日 13:49