第01回 2010年09月20日(後編)

《抽象的なものにおける直接性》
●先に意味があるから統合はなされる、わけではない――誰それさん研究について

 ではシステム、っていったい何でしょう?
 去年も言ったことだけれど、システムっていうのはものすごく曖昧な概念です。日本語に直すと「系」。
 Systemのsys-は、統合する、という意味ですが、それは単純に複数のものが合致するということではありません。例えば、Syntax、これは文法における統辞ですね。言葉が集まって文を成しているということです。Symposion、いわゆるシンポジウムですが、もともとギリシアではみんなで酒飲んでわあわあと気分を昂揚させることでした。つまり、統合の「統」とは、そこに集まったものから何か新しいものが生まれてくるということなんです。その新しいことが生まれる、その新しいものに何か統一性が見られる、ということがシステム論の問題です。古くは、共通する部分をみんなが等しくもっていて、そのみんなに共通する部分が統合の要を担っているのだと、そういう理解がふつうでした。
 では、言語を見てみましょう。
「今日はだるいなあ」
 これは日本語の文章です。つまりシンタックスにのっとっている。文節を分けることもできる。さて、分けられた品詞の、どこに共通部分があるでしょうか? ありませんよね。だから次に、統合の要を担っているのは共通部分ではなく、意味である、と考えるようになってきます。意味に照らして統合はなされていくんだよ、と。でも構造は変わりません。先に共通部分があるから統合はなされるんだよ、と、先に意味があるから統合はなされるんだよ、とは名詞が変わっただけです。
 でも、今日最初にお話したラカンは、そうは考えていません。そうではなくて、「まさに統合するということ自身がどのような出来事として起こるのか」という問いを立てます。ラカンが専門とする精神分析は、いわば心のシステム論です。無意識というものがシステムとしてどのように現れてくるか。
 その一方で、“誰それさん研究”というのは、「先に意味があるから統合はなされる」という考え方考えるんですよ。フッサールが、デリダが、シェリングが、ヘーゲルがいましてね、それらの論理体系の中で、これこれという事象なり問題が統合されます。というのは彼らの名前を意味として考えているからなんです。[哲学者の名前という]意味が[哲学の]システムのなかにどのようにはまっていくか。もちろん、彼ら自身の思想体系もまた一つのシステム(サブシステム)をなしているわけですが。このやり方が、通常言われているところの“誰それさん研究”です。ところがこのとき問題なのは、彼の人生というもっと広域なものが立ち上がってくるという点です。だから“誰それさん研究”は二分されることになる。誰それさんを、哲学のシステムにおける意味として考えるやり方と、彼の人生を現象として考えるやり方です。前者は解釈です。解釈においては、誰それさんの論理体系だけではなく、解釈している人の、私が哲学というシステムをこのように捉えたい、という主観も入ってきます。後者は〈伝記〉です。誰それさんの著作を読み、草稿を探し、手紙のやりとりから推測し、ドイツなんかでは図書館の貸し出し記録がすべて残っているから、この時期に誰それさんがどんな本を借りていたかなども調べ、……などして〈伝記〉を作るわけです。
 解釈をしているときには、誰それさんの全貌を見ているわけではありません。〈伝記〉を作っているときには、サブシステムとしてのつながりが希薄になりがちである。両方とも問題をもつわけです。だから日本で多いのは、誰それさんがサブシステムではなく、システムの全体であるように考えてしまうことです。あるいは、誰それさんという現象の立ち上がりを、解釈の意味とつなげてしまうというハイブリッドなことをやってしまいます。つまり、誰それさんの属していると見なされている○○学派の意味解釈を行っている一方で、誰それさんという現象の立ち上がりについては、一生懸命〈伝記〉を調べるというやり方です。
 それはそれでいいんですけれども、そうした時に哲学というシステムに対する曖昧さはより一層深まります。○○学派、○○主義、○○時代、という大ざっぱな括り方をしてしまうことになる。
 ところが、そもそも一つの問題として哲学が立ち上がってくるということは、歴史的にどのような経緯を持っているかということと不可分です。誰それさんがどのような時代に置かれていたのか、その時代の知識によって考えさせられていたか、――さっき授業で言ったように、頭の中にどのような技が常識としてすりこまれていたか、そこにどのような不具合を感じていたか――そのなかで立ち上がることは、同時にソクラテスやキリストから始まる哲学の潮流においてダイレクトに問題となることと重なりうるわけですよ。というか、この二つが重なるような解釈でなければ、誰それさんの研究というものは、生き生きとしてこない。
 今年の科学基礎論学会で、アメリカの数学者の方を呼んだのですが、ジュリエット・フロイトって人で、彼女はヴィトゲンシュタインの研究者なんです。何を問題にしたかというと、ヴィトゲンシュタインにおける数学の問題を考えたと。そして無理筋なんだけど、解釈と〈伝記〉を結びつけることをやろうとするわけです。つまり、ヴィトゲンシュタインが生きていた一九三〇年代から四〇年代のいわゆる戦間期において、ヨーロッパにおける数学、知的な雰囲気のなかでヴィトゲンシュタインはどういうことを問題にしたのかと。そういうことから彼の仕事を捉えるということをしたわけです。当時話題だった数学の問題はいまはどうでもいい、ということはなくて、それは現在における数学の問題の系譜です。そうやって現代性を確保しながら、ヴィトゲンシュタインの書簡を参照して自説を裏付けるという作業もしている。
 彼女の発表のあとで、日本でヴィトゲンシュタインの大家と言われている飯田隆さんと歩きながら話をしました。無理はあるけど面白い話だよね、と。そして、なんで日本の哲学研究ではああいう仕事がないのかね、という話になりました。ヴィトゲンシュタイン研究者というのは日本にも山のようにいるわけですよ。しかも異常なまでに詳細な研究をする人もいるわけ。日本人の研究者ってマメなんです。細かく原書を読んだりね。人によるんだけど、アメリカあたりの研究者は翻訳でしか文献を読んでいない人もいる。なのに、なぜ日本ではああいう面白い研究がないんだろうと。
 その問いは、いまの日本の哲学で直接性を問題にすることがあまりに気にされていないこととつながっています。もしくは気になっているんだけど、そんなことに集中するとおまんまの食い上げになっちゃう、先端の哲学にキャッチアップできない、学校で教えるにしても、その前に日本の諸々の学会のシステムのなかで論文を書けなければいけないし、まごまごしていると就職できなくなっちゃう。……やはり酒を飲みだすと、皆、直接性ということを問題にしはじめるわけですよ。でも、普段は、察してくださいよ、という程度にしか出せない。じゃあ非常勤の僕がそれをやっちまおうと、そう思ったわけです。というか、僕にはそれしかできることがないんで。


●抽象的なものにおける直接性とはなにか

 じゃあ、直接性を問題にするときに、なぜシステムという話を持ち込まなければならないのか。
 私たちはさきほど、システムが立ち上がってくるということを〈伝記〉という歴史的・概念的な立ち上がり方の観察として扱ってきました。システム論というのは、システムを外から見たときにどのようになっているか、どのように出来上がったか、を論じることではないわけです。生命はシステムの典型だけれど、それはプラモデルのように組みあがっているわけではないですよね。去年、オートポイエーシスとの関連で扱いましたが、それ自身がそれ自身として出来上がっていくときに、出来上がってきた結果を観察して記述することが問題なのではない。そうではなくて、「出来上がってくる」ということが問題なわけです。これは、哲学のなかで「立ち上がってくる」ということがどういうことなのか、という問題とつながります。そして、問いをどう立てるか、ということは直接性と関わるんですよ。
 直接性というのは哲学の抽象的なレベルにもまたありうる、と先ほど言いましたよね。ありうる、というのはどういうことかというと、そこでどういう問いを立てるか、に関わっています。直接だから具体的、間接だから抽象的という話ではありません。直接的/間接的、具体的/抽象的という分け方は、同じ軸にあるのではなくむしろ直交しています。抽象的なものにおける直接性とはなにか。
 哲学って思考でしょ。私たちが飯食って、昼寝して、トイレに行くということに比べたら、思考なんて最初から抽象に決まっているんだから。いや、哲学が直接的であるということにはなにか生々しい感情がある、というのは、解釈と同じように私がそのように捉えたいと外側から思っているからではないでしょうか。思考を行為として考えるということは、思考ということがどのように直接的であるか、「立ち上がってくる」とはどういうことかを問うことです。それはしかし記述することではありません。通常、私たちは記述することしかできません。そしてそれで良い、と思っています。なぜなら、人間は別に思考だけで生きているわけではないから。
 極端なことを言うと、皆さんはいまこうやって話を聞いていて、「考えているのは自分だ」と思っているでしょう? けれど、いま話を聞いて考えているのは、自分のなかのほんの一部にすぎません。皮膚の下の神経には絶えず電気信号が走り、ちょっと肘のところが痒くなったりして、そして掻く……それらは紛うことなきあなたというシステムです。けれど、なぜか私たちは考えるということをもって、システムのすべて、自らの本体であると見なし、主人の位置におきがちです。だから、「自分を知りたいから哲学をしたい」という言明がありうる。どうしてでしょうか? それを考えるためにシステム論を入れたいわけです。
 システム論ということになると、抽象的に進んでいくことの典型として、生命を持ち出すことが多いのですが、生命というシステムはあまりにも厄介なので、ここでは社会というシステムを扱います。そして社会システムと同時的な話として学問というシステムの話をしたいと思います。学問というシステムが一番うまくいっている例は何かといえば、それが科学scienceなわけです。つまり、システムとしての性格が大変強い。それ自身がそれ自身として出来上がっていくという側面が、科学には強くある。それは科学に携わっている人間が自立しているからという話では決してない。科学自身のなかに何かがある。
 多細胞生物において、個々の細胞はやはり生きているわけですが、それをもって多細胞生物(人間を含めて)を生命体の集合とは考えないわけですよね。それは一つの個体であると。にもかかわらず、社会においては、社会は個人の集合体だと考え、社会のなかに固有な何かはないという議論がある。でも、これも議論の仕方の問題であって、意味の位置に社会があるのか、立ち上がる現象として――いまは創発emergenceというわかったようなわかんないような言葉を使いますが――社会があるのか、その位置の置き方で変わってくるわけです。


●社会、科学、言語、数学

 去年言ったのは、科学というものがいかに気持ちの悪いものであるか、ということでした。今年はそれを裏返してこう言います。皆さんにとって自分というものがいかに気持ちの悪いものであるか。自分が思考しているということが、どれだけわからないことなのか。
 それにもかかわらず、直接性を求めなさい、と私は言います。
 標語としては、「直接性から行け」、です。
 総発という言葉もまた、直接性において理解されなければならないんですよ。けれど科学ができるのは、それを外から記述することだけです。総発性の科学、というのを池上高志さんとかがやっていますけれど、そこにおいても、直接性において、ということは書ききれないんですよ。なぜか。私たちは記号でしか書けないからです。科学において、記号と記号が表わしているものの分離は仕方ないんですよ。その分離がないもの、それは数学です。あるいはヴィトゲンシュタインが言うように、私たち言語そのものです。
 システムという問題を扱うときに、その典型として科学は非常によろしい。しかし、直接性において、という問題に関しては、科学を安易に採用できない。
 だから、直接性において、という問題においては、言語、そして数学を典型とします。数学が言語であるか否かというのは数学の哲学で問われていることであり、両者は必ずしもイコールではありませんが。
 システムに環境が不可欠です。環境を、世界と言い換えてもいいです。
 科学は、環境=世界に対して実験と観察ということを行い、つながります。では科学の記法であるところの数学は、環境=世界に対してどのようにつながるでしょうか? わかりません。数学が環境=世界とどのようにつながっているのかについては諸々の議論があります。数学的世界がある、という人もいます。言語はどうでしょう? 日常言語と詩の言語をわける必要はあるでしょうか、ないでしょうか。これもやはりわかりません。真理というものが入ってくるかもしれません。そして言語、コミュニケーションによって成立する社会もまた、環境=世界とどのようにかかわっているのかわかりづらい。ただ、明確にこの関係についてオートポイエーシスの立場をとって議論しているのが ニコラス・ルーマン(Niklas Luhmann, 1927-1998)です。法政大学出版から『社会の科学』『社会の法』『社会の宗教』『社会の社会』の四冊が出ています。興味がある方は読んでみると良いでしょう。
  そして、哲学はこの図の全体を鏡にうつす、ということをする。去年は、世界観という哲学の内側から説明していきましたが、今年は逆方向になります。哲学はこのシステムにはめ込まれたものでありながら、直接性を標榜するがゆえに、システムの全体を包み込もうとする。哲学とは一つのジャンルではありません。ものを考えるということには哲学的な含みがあるんです。外から書くという間接的な仕方でしか通常はものを考えることができない。けれど、「考えている」ということにおいてはなんらかの仕方で直接性に触れているという確信がある。考えるということは、ヴィトゲンシュタインが、言語は記号操作ではない、というように、コンピューターがシミュレーションを続けているのと同じではない。一見同じように見えながら、それは本質的に何かが違う。その違いを強調しすぎることはないんですけれど、違うという確信がある。その確信に迫っていくために、直接性の代名詞として、行為を考えたいと思います。それが今年の方向です。どうなることかわかりませんが。























最終更新:2012年07月12日 09:35
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