塩「この前、新国立劇場に『ラ・ボエーム』を観に行ったんだけど、やっぱり『ルサルカ』、『こうもり』に続いて、呪いの話だった。あとのラインナップは、『沈黙』と、『さまよえるオランダ人』でしょ。2011/2012シーズンは、“呪い”をテーマに演目を選んでいるのかもしれない」
塩「あれは“自由の呪い”の話だよ」
私「自由であるために呪われる、ということですか?」
塩「そうではない。自由そのものが呪い。
ロドルフォはなぜ詩人であることをやめることができず、第3幕で、ミミの肺病を治癒させるために、彼女への愛情を偽ってまで、彼女を子爵の妾にさせようとしたのか?」
私「働けよ、ロドルフォ」
塩「ふつうならね」
私「ボヘミアンという呪い、ということですか」
塩「その呪いは“嘘”によって隠蔽される。
プッチーニのオペラのなかでも、『ボエーム』における嘘の頻度は、異常に高い。次は『蝶々夫人』。でも、前者は、ロドルフォとミミの出会いから、ショナールの手柄話、ムゼッタとの出会いなどの細部のエピソードに至るまで、“偽り”なしには成立し得ない。対極は、ワグナー。逆に“嘘”がない。
ウィーンで『タンホイザー』
http://t.co/Z2N3YHnt―3幕が精神病棟の演出のやつを見た後で、『ボエーム』を見たんだけど、後者のほうが圧倒的に人間らしいのね。なぜか。ワグナーの作品は“呪い”の原因が明確なんだよ、どの作品も。官能に溺れるとか、指輪を手に入れるとか」
ワグナーやヴェルディの諸作品は、“呪い”の原因が明確で、だからある種、“呪い”への対応プログラムとして観られる。人物は完全にプログラム上の機能の単位に還元されている。一方、『ラ・ボエーム』は“呪い”の原因がわからない。しかも“嘘”で隠蔽される。ボヘミアンたちは絶対に働かない」
私「働かないことが、“自由の呪い”なのですか?」
塩「違う。“自由の呪い”とは、ハザールhazardの呪い、特定の枠を所有し、所有されることができない呪いだ」
私「偶然であることの呪い、…contingencyの呪いですか?」
塩「違う。contingencyは、ある枠内の偶発性」
塩「『ボエーム』のボヘミアンたちが皆、芸術家なのは象徴的だけど、基本的に創造は、創造物を所有することなんだ。でも、ロドルフォは出だしに、部屋が寒いからって自分の原稿を暖炉にくべるでしょ?」
私「天啓を天に返すんだ、とか言って」
塩「所有から遠く離れていること、それが“自由の呪い”。
〈創造〉と、〈創造物の所有〉の結びつきをは、非常に強固。創世記もそう。でも、法哲学以外でそのメカニズムはほとんど考察されていない」
私「マルクスは?」
塩「あれは所有を前提としたうえで、私的所有から共有へ、という所有の形態を論じているでしょう。ローマ法は、所有概念そのものが問題。
所有の形態の変更ではなく、所有そのものの解除を目指した思想家をあげるとすれば、ハイデッガー。なぜ彼がナチスに傾倒したかといえば、国家社会主義が所有の解除に見えたのが一因。じつは所有する単位の移行が起こっただけなんだけどね。彼と同じ轍を踏んだのが、国粋主義に傾倒した京都学派」
私「後期ハイデッガーが所有の解除を目指した、というならわかるのですが、『存在と時間』で、ハイデッガーは「道具的連関」の話をしていますよ」
塩「それは所有でなく、使用でしょ? 所有haveは、使用useと違う。むしろ正反対。使用したら、その物は消費されるし、自分に刃向かうかもでしょ」
私「ハンマーは、使えばすり減るし、使用者の親指を叩くこともある」
塩「しかし、所有物はそういうことはない」
私「所有の解除を目指したハイデッガーが、蕩尽を思想的基礎にすえたバタイユを「フランス最高の知性」と讃えたのには、そういう背景が」
塩「日本人も、ハイデッガーとバタイユ好きだよね。明治大正期、フッサールではなくハイデッガーに多くの留学生がいったのは、そこが親和的なのかもね。
『ボエーム』に話を戻すと、あれは財産の所有も扱っているけれど、認識の所有も問題になっている。それが“嘘”問題。ミミは清純なお針子、ということになっているけれど、当時、お針子は娼婦とほぼ同義だし、第4幕ではごく自然に子爵の妾になる」
私「“本当のこと”を誰も所有できない」
塩「真理の獲得自体が、世界の、あるいは起源の一挙的な所有だから」
私「“嘘”以外でそういう認識上の所有を解除する方法は?」
塩「能は示唆的。まだ起こっていないことと、手遅れであることの二つしか語られない。“現在”がない。そして“起源”を語ることもない。なぜ古事記の能はないのか?」
最終更新:2012年06月19日 21:17