●クーンのパラダイム理論
前回は、確かクワインの話をして、ちょっとハンソンにも触れて、エピステーメー、エピステモロジーというところまで話をしたと思います。
科学哲学の発想のなかで、私自身、最も親近感があるのは、バシュラールとかカヴァイエスという、フランス系エピステモロジーの人たちです。
歴史的にどうだったか、彼らの発想がどうだったかという話は前回しましたけれども、基本的には歴史性へ帰ってきたという話です。ポパーは内在的に考えることで問題をもう少し一般化しましたが、クワインはむしろ3つの不確定何とかというタイプを出して考えた。その不確定というのは「世界の現実をある種のタイプの細部としての不確定性である」と考えると分かりやすい。そういう話をしました。
ただ個別性にどう触るかっていったときに、クワインはネオプラグマティズムという、非常にアメリカンな発想の立場を取ったわけです。
プラグマティズムに関して、パース自身はプラグマティズムというよりプラグマティシズムという言い方をして、ある意味で存在論のシステムを考えたんです。それをウィリアム・ジェイムズが個人をベースにする思考にがらりと変えました(宗教的な議論が入っているので、根本的に変わったというと言いすぎだけど)。ともあれその伝統によって、アメリカでは今でもオリジナルの哲学としてプラグマティズムに凄い自負を持っています。昔、パトナムとローティが日本に来て講演したときに、事後の質疑応答でもその自負がはっきり出ていました。ローティはもともとそうなんですけれども、パトナムもそうなのかと。彼らは自分自身の土壌になった哲学として、プラグマティズムに非常に強い思い入れを持っているわけです。これが俺たちのオリジナルの哲学だっていう。
それに対してクワインは物理主義の傾向からネオプラグマティズムをやった。このとき、クワインの立場から見ると、物理主義には内的に問題がある。エピステモロジーに拘泥する理由の一つは(これは僕の感覚なんですけど)科学における「個別」という問題を、どの範囲で考えるかが重要だからですね。
これに対抗して、英米圏ではもうひとつ、新科学哲学というものがありまして、これも何度も言っていますけど、ハンソン、クーン、それからファイヤアーベントとトゥールミンとその辺のあたりが代表例です。彼らも、やっぱり科学における「個別」の問題で歴史に向かうんですよ。
このときクーンの発表したのがいわゆるパラダイム理論です。クーンに対抗する形で、もう一度、ポパーの反証主義に、パラダイム論を取り込んで、うまい具合に折衷主義をとったのがイムレ・ラカトシュですね。ラカトシュのリサーチプログラムです。
クーンの『科学革命の構造』は、いわゆるパラダイム理論を説明したものだといわれて有名になった本です。科学というのは連続的にずーっと伸びているものではない。パラダイムという言葉は、科学の理解における基礎を示しています。この、科学の基礎的な理解、理解のバックグラウンドになるような考え方が、じつは必ずしも連続していない。この手の話を、物理学を例証として考えたのがクーンです。
●地球科学の場合
このようなクーンの物理学中心主義に対してある日本人が「そんなにパラダイムは変わらないよ」という批判をしました。もう亡くなっていますが、都城秋穂さんという方です。都城さんは地学に即したパラダイム論というのを自分の本『科学革命とは何か』で出したんですよ。ただ絶版で今どこでも手に入らないんです。私も3年位前に名古屋大学の戸田山さんが紹介してくれて議論したことあるんですが、現物は読めていない。
これは、学問のスケールが違うんですよね。物理学でこういう凄い転換が起こったのはいくつか有名な例があるし、それから物性物理のような細かい実験室レベルでの話に対しても、パラダイムチェンジということは非常によく言われます。
ところが、地球科学っていうのは今ものすごくサイズがでかい。最近は何をやっているかっていうと、例えば全地球史とかいうことをやっています。全地球史というのは、地球が45億年前にできてから今までという流れを、全部地学的な要因と絡めながら、地球の歴史を語るということなんです。例えば、原始地球には酸素はほとんど無かった、酸素は無いと言っても、元素として酸素が無いわけじゃなく、遊離した気体の酸素というのが無かった。それを作ったのは20億年程前に発現したケイ藻類で、それがオゾン層を作る場合があるとか、そういう話。それから地軸とマントル対流の話に対する色々な知見とか、大から小までいろんな事が地球の環境に影響を与えたて言って、地球史を45億年トータルでやるわけです。しかも45億年トータルだから、微生物とかそういうものが出している細かい物質も累積して、ものすごく影響になるわけ。さっき言った、酸素なんか一番いい例ですね。
笑い話があって、わたしの知っている分子生物学の先生がいて、大学院生の国際競争があるんだと。そこで面白い研究を発表すると賞がもらえるというので、彼がある年に学生に応募させたのが、レイズドタイタニックっていうやつ。何やるかっていうと、遺伝子コントロールしたバクテリアを使ってタイタニック号を浮上させるってことですね。どうやるかって言うと、バクテリアのなかでまず炭酸ガスを排出するバクテリアを飼って、タイタニック号のなかに送り込む。こういうのをちゃんと計算して浮上させる計画というのを作って応募したんだそうです。かなり絶賛されたけど、賞は取れなかったそうです。
いまのは冗談に近いんだけど、本当に地球惑星科学では、こういう微生物のサイズから考えて議論しているんですよ。その一方で、地軸が変動しているのはなぜかといったら、単なるマントル対流だけでなく、マントルがぼこっと落ち込んで、中心金属核の高密度の液体金属の分布が変わることによって中の渦が変わっちゃって、地軸の磁気の向きが変わるからだというサイズの話もある。それでは、それが生物学にどう影響するのか、とか。そういうある意味でものすごく学際的な学問をやっている。そんなところでころころと全体の人々が見ているようなパラダイム、バックグラウンドにあるパラダイムというものが変わるなどという発想ではできない、という形で都城さんは批判をしました。
●バシュラールのエピステモロジー
パラダイムっていう議論の元になるのは、やっぱり理論科学、もしくは前回も言ったハンソンの理論負荷性があります。頭で考えて個人の学者が言っていることは、個人としての学者たちの知による理解の体系なんですよね。でも理解しているのはあくまでも個人で、その「理解」という言葉が結構問題です。
フォン・ウリクトの『理解と説明』で前回ちらっと紹介しましたが、理解というのは解釈をすることです。解釈の仕方、解釈のバックグラウンドになるものを、科学者共同体はだいたい一緒に持っている。それが科学観といわれるものです。いまの科学観はこうです、物理主義はこうです、という形の解説を支えているものが、パラダイムと言われている言葉には入っている。
ところがそれに対して、エピステモロジーは違います。ポアンカレから始まって、有名なのはバシュラール、カンギレム、そしてカヴァイエス。彼らも「理解」を問題にしていますが、「理解の背景」とはちょっと違うんです。なぜならポアンカレをはじめと、彼らはプロの科学者がプロの科学をやっているなかでしていることそのものを扱う。つまり「理解」といわれているものは、私が見た像の内容ではなくて、理解をする機構であり、その機構としての歴史に目をつけるという発想なんです。
エピステモロジーの発想で「理解」がどこまでいくかというと、精神の発達に行き着きます。精神の発達という発想自体はヘーゲルのものです。ヘーゲルの『精神現象学』における精神の発達は、自己発達です。エピステモロジーの場合、この精神というのは、各人の自由な精神ではなくて、それぞれの科学の、それぞれの分野がやっている、合理的な思考とか実験の手続きとか、そういうものをバインドしている、計画しているものとしての精神であるいう発想になります。
だから、こちらでは、「われわれがイメージしていること」と「理解」が直結していない。例えば、バシュラールなんかだと、この科学の精神がどう発展してきたかということは、同時に、科学教育がどう改変されるかということだというふうに考えていくんです。もちろん、それは個人の精神の素養としてとらえることはできるけれども、逆に言うと、個人を超えてそこに広がっていて、その場として教えられる思考の様式の変更であるとも言うことができます。
そういういうものとしてエピステモロジー、今回はバシュラールを主にとりあげます。
●科学者集団
パラダイムや個別性に関わっている哲学に、分析哲学があります。そこでは、クワインが言い出したコンセプチュアル・スキームっていう概念があって、これが重要なんですね。概念の枠です。クワインは、全体的に概念枠という枠組みがあって、そこにいろいろと経験が当てはまってシステムになっていく、と考えていく。
その一方で、クーンのパラダイムはあくまでもそこにいる科学者集団の社会的な現在の理解です。彼の場合は、科学者集団の全体の雰囲気、日本の山本七平が言っていた空気とか、そういうものを非常に重視している感じがあります。
ところが、エピステモロジーの科学的精神は、むしろ人間というよりも科学におけるものです。例えば、公理、技法、実験、そういうものを律している。非人間的かもしれない。しかも、これは個別にバラバラでいいんです。だからエピステモロジーを論じるバシュラールは、科学哲学を分配される哲学と考えます。「分配される」と言っても、生物学の哲学とかなんとかっていうそういう大雑把なサイズの話ではなくて、科学において進歩の斉一性っていうのは全然保証されていない、という意味合いです。進歩の仕方は分野によって違う。さっき言った地学と物理は違うとかそういうレベルじゃなくて、物理の中でさえ分野ごと、理論ごとに違う。だからそれぞれの分野、理論に対してそれぞれに応じた形での科学的精神というものが存在する。その分配の間を繋ぐものが、「構造」なんですね。構造という概念を使ってそれぞれの科学的精神の間のやりとりをする。接合する。
だから、この「構造」概念は、狭くとれば形式的な部分や理論の方が着目されるんですけれど、必ずしもそうは限らない。 ただ基本的に、科学的精神・合理的精神というのは、一つの精神としてそこにあるのではなくて、たくさんの精神が、別々のレベルで(例えば、人間の体の中でものすごい数と種類の細胞が仕事をしているのと同じように)非常にバラけた形で、しかもこの「構造」概念を通して、科学であることをひとまず認めている。さらにそれぞれが、いつも教育、実験、発見によって動的に変わっていく。バシュラールは科学をそういうものだと考えているんですよ。
だから逆に、科学的精神のどこに個人が出てくるのか。科学的精神における個人とはなにか、という問いがあるのね。そこがじつは結構難しい。
バシュラールの言い方では、通常、科学哲学において(新科学哲学とかそれから後の科学社会論になると特に)、科学者が研究室を出たときに、何を考えているのか。普通の人に戻ったときに、何を考えているのか。そこに哲学的な問いがあるということをよく言います。だから自分の個別の狭い研究室のなかではなく、そこを出たときに科学をどう理解しているか、ということをカンギレムは考えたわけね。研究室の中にいると科学者は歯車であると。
ところがバシュラールはそうじゃない。研究室に入ったときに何をしているか。研究室の外じゃなくて研究室に入ったときに科学者が何をしているか。バシュラールが問うのはこっちなんです。
一方で、クワインの概念枠は、そんな研究室の内と外の区別なんて何も考えていない。われわれが見ているものの全体としての理解という、非常に大きい枠で考えるわけです。ですから、「組織化する概念」というのは、これはこれで正しいんだけど、じゃあ具体的に、その実態はなにもんじゃいと言ったならば、この言葉以上に言いようがないわけですね。
クワインの概念枠は、前にお話したシステム論における、システムという概念の一番大雑把なところとほとんど変わらないわけです。具体的にそのシステムをどのレベルでどう接しているか、どこを重要なタイプとして考えるか、と考えたのが、例えばクーンのパラダイム論、エピステモロジーの人たちが考えたことです。
●クワイン、デイヴィッドソン、ラカトシュ…
これは余談になりますけど、クワインの概念枠理論に対しては、じつはデイヴィッドソンが「こんなものない」って文句を言います。クワインの有名な『経験主義の二つのドグマ』っていう論文があって、一つが感覚与件への経験論、観念の可能性。もうひとつが、分析判断と総合判断。
これに対してデイヴィッドソンが三つめを言うんですね。第三のドグマ。何かというと、概念枠だと言うんです。 形式と内容の分割、これが第三のドグマだとデイヴィッドソンは言うわけです。
なぜかというと、これは実はパラダイム論にも関わるんだけど、 「理解をするということの意味は何か」という問いがあるからです。前にも言ったけど、デイヴィッドソンにとって「理解」というのは、真理条件意味論だから、真理を導く、証明を導く、ということです。だから証明の仕方が違う、論理が違うとなれば、そんなのわかるわけないじゃないかと。つまりAという概念枠のネットワークに対して、Bという概念枠のネットワークがあるとする。お互いに理解できるのなら一つの概念枠だろ。理解できなかったらそもそも証明とかわからない。だから二つの概念枠は、他者の概念枠がわかるということを言っては意味がない。これはデイヴィッドソンの合理性という考えでも同じなんですよ。私の合理性はわかるけれど、他者の合理性って案外わからない。だとしたら、そもそも合理性という概念を出すことに意味があるのか。そう言ってこの概念枠という発想を否定します。
そうするとパラダイムが違うとか、科学的精神の分割性ということに対して、デイヴィッドソンの立場からだと、そんなことをいう奴は無知蒙昧だと。お前らはわかるということをわかっていないんだ、という話になっちゃう。
つまり理解をするということは、一通りしかない。私がいまここで理解できるという仕方は、一通りしかない。だから、それが変わってしまったら全部が変わってしまう。それがデイヴィッドソンの持っている全体像の話なんですね。でも、デイヴィッドソンは証明という形態をとっていて、システムの内部に、個別と全体とか、タイプとトークン、個別と一般ということを、論理学の形態では持っていないわけですよ。証明をするときには個別も全体もどっちも使えるから。
でもこの個別というのは当然のことながら、頭で考えて一般化できるというかたちでわかるものではないはずです。だから、もし個別が頭で考えて形式的に一般化できるんだったら、クワインの言っている概念枠という概念に対応するし、それの理解ということをデイヴィッドソンのように言うならば、それは結局、「私」の枠が一番大きいことになって、その枠の中にたまたま無知な奴らとか、よくわかっていない奴がいる、という話になるわけね。人間は猿がやっていることがわかるけど、猿は人間がやっていることをわかんないみたいに、上の方が常に下を見降ろしているという立場というのはデイヴィッドソンの態度です。
で、これがクワインの物理主義の物理の微妙なところでもあります。物理といいながら、その物理がいわゆる論理学に還元できない。でも還元できないものだと、「この物理はなんなの?」と言われたときに具体的な物理の書き方は難しいと言った。そのことにクワインの難点があるんですけど。
その部分が、新科学哲学なんかでは、基本的に形式的な取り扱いと言われているものです。実験の取り扱いが、指示や理論を持っていることを確定できない。例えば、指示の不可測性(「これは何の実験ですか?」)とか、理論の決定不全性(「どこに理論があるんだ?」)とか、そういったところに対して、われわれが理解する仕方の不完全な部分こそが、パラダイムという形を生み出すんだと。そう考えた方がわかりやすいです。
ラカトシュのリサーチプログラムは、相性がいいんですね。科学はリサーチのプログラムという個々の理論ではなくて、リサーチプログラムという方向に向かう理論集団であると。
典型的なのは、ビッグプロジェクトです。有人宇宙船を火星に持っていく、そのためには何が必要かというもの。それからさっきの都城さんが出していたようなタイプの、全地球史、全部の地球という課題があってそれを越えていく。それにはどういう個別の研究が絡んでくるんだろうか。そうやって目標を設定して、研究する。その間に必要なもの、手段、目的、それから情報提供という形で、いろいろなバラバラの理論が結びつく。理論の組み換えも起こるし、この理論は駄目だなあと思っても、別の理論が発達して、それによって再出発する、ということもある。
この集団間の、ある意味で闘争だというのが、ラカトシュのリサーチプログラムの科学史観です。だから、クーンはこれを批判している。リサーチプログラムをやったときに「合理的っていうのは何?」って言うわけ。「科学的って何ですか?」って。リサーチプログラムにちゃんと載っていることです。リサーチプログラムの一部を占めていることです。――でもそうなると、どんなに今あほらしい研究だと思っても、後々に復活するかもしれないから、あほらしい研究にこだわっているやつを馬鹿だと言うことができなくなる。そういう批判をするのがファイヤアーベントと私です。
●科学的精神同士の争い
こう考えたときに、さっきの分散した、分配された分散した哲学といっているものとの対比というのがでてきます。対比される見方というのは、リサーチプログラム。それから、背景にある個人としての学者、問題に対する理解の仕方、それがなんという問題なのかと理解する理解の仕方、研究室から出たときの全体を見渡す、研究生活全体に対する、どういう関わりをするかというと集団の関わり。この辺の流れが後に科学社会学というタイプの学問に繋がるわけです。
科学社会学の辺りの話というのは、具体的に科学者の集団が、パラダイムを浸透させるときにどういうふうに浸透させているかです。ある教授がすごくカリスマ的な能力・性格を持っていて、学生にこれをずーっと伝染させるのか。それともレポートの書き方とか授業課題という形で締め付けて、そういう発想をするようにしむけるのか。その形式から外れたタイプのレポートを書いたら、学会で皆でぼこぼこにしちゃって教育するんだとか。結構人間臭い話が多いわけね。こちら側の人間臭い話、哲学が理解するタイプ、哲学が見たタイプの科学、の方法になる。 バシュラールはそうではなく、彼の場合はなにが対抗するかというと、科学的精神同士が争うんですよ。もしくは科学的と科学的じゃない精神が争う。バシュラールにおいては、合理的精神自体が一つの精神とは限らないわけね。それと対角するのは非合理的精神なんですけど、合理的精神はひと塊であると考えてないわけ。分散された合理的精神だから――しかもさっき言ったように発展の段階で斉一性がないから、合理的精神のなかでさえ組み換えが起こるし、その組み換えは分野ごとに違う。一般的なもの(いわゆる哲学において「一般的な」と言っているもの)にはなりえない。非合理的精神、経験を組織化する概念のネットワーク、それは一般的に説明できるでしょ? バシュラールは「一般的だからなんなの?」っていう。一般的だけでは、何も言ってないからね。
つまり一般的に説明したということは合理的に何かすることに関して、何の情報にもならない。ですから、バシュラールはもう一つの問い方をします。
バシュラールは化学の哲学の構築を目指して頑張るんですけれども、物理学で考えましょう。物理学は「事実の学」、ふつうは皆そう考えるよね。でもむしろ、「効果の学」だってバシュラールは言うんですよ。例えばこういう言い方をする。実験室があります。普通はどう考えるか。実験室というのは因果という概念を持ってきて、因果の中のファクターを切り出す場所である。そこには、主要な概念がある。落下の運動があった時に、ニュートンの意見が正しいとします。でも、ここに空気があったり、風で渦が巻いたり、コリオリ力があったりするから、純粋にニュートンの提唱した法則になることはない。個々の場合をそのまま法則に当てはめられない。やっぱり理想化が必要になります。だから科学は理想化をするし、実験も理想化をする。理想化するのは、世界の本質をファクターに分けるためである。世界自身が原子論的に構成されているということに対応して、構成している法則が分けられていく。その法則を抽出するのが実験だ、――というのが普通の事実の見方なんだよね。
最終更新:2012年10月03日 14:17