●実験における理想化
バシュラールはそうはいかない。それは我々が世界として作り出したものなんだって言うんですよ。理想化状態自体がね。理想化状態は、そのまま自然には無いんです。我々が科学をやるという、世界とのインタラクションによって、初めてできたものだって言うんです。だから逆に言うと、人間がいなかったらそういうのは無いのか。そういうファクターはないのか。ありません。ただもし宇宙人がいたら、理想化状態を作り出すことが可能かもしれませんが。
だからバシュラールの場合、本当に因果とかいうのをそのように分解するということが、どうして確実に正しいの? ということがわかんないわけだね。普通は、大体これでいいよというふうに説明するでしょ。 ニュートンの法則は落下現象を非常によく説明します。だからこれは真理ですって言うけれど、落下現象をニュートンの法則として分解しなきゃいけない理由っていうのは無いわけです。アインシュタインがやった分解の仕方もある。
どういうふうに理想化するかということは、理想化に対してどういうイメージを抱いているか、どういうこととしてその理想化をほかの分野で繋げるか、ということにかかっている。つまり科学で実験とか理論をくり返して、ある理論がいろいろな状況で使えます、たくさん使えますっていうことは、他の理論、他の現象、他の実験に対して、その理論がちゃんと上手く接続できるということの量的な指標になるわけです。その指標によって我々は判断する。自然の実態がその理論の通りだからというのは、一つの説明です。だからバシュラールは、ある理論を先に独立に立ててやるんじゃなくて、そういう自然と人間と情報、そういうものが全部一緒になっていったときに、できてくる世界というイメージを持っている。
でもそういうことは、人間がいろんな活動でやっている。政治だってそうだし、文化だってそう。そのなかで科学的といわれているものがどういう特性を持っているのか、というのが彼の問いだったわけです。だから、彼が科学的精神の発展というのを、精神分析の理論でとっているのは、科学的精神ではないタイプの精神活動(バシュラールは、精神活動とは世界の活動だとしています)のなかで、何が科学的なものと言われ、特徴付けられていくのか、という観点があるからです。
そういう形から見ると、やっぱりもう一度、問題は「個別」に還ってくるんです。「個別」に対してどういうふうに対処するか。その「個別」ということのキーになったのが、バシュラールの場合は、当時元素がどんどん発見された化学なんですよね。何しろ彼が仕事している頃に、人工の元素が、要するに93番から上がどあーって出てきたから。
でもこの化学に対しての説明ということがなかった。化学は事実の集積かというと、そんなことはない。例えば、いまは量子化学というかたちでその下にある電子対がどうなっているかわかっている。H2Oの構造式をふつうは「H-O-H」を書くよね。でも、下図のようにさまざまな書き方がある。
【図】
全部記号が違うんですよ。組成だけ示しているもの、原子核がくっついた状態を示しているもの、構造式の“棒”、“―”は、共有電子対がどうなっているかを示している。でも、電子概念と量子力学(波と、堆積する粒子という電子概念は)概念としては別のものなんです。普通は、電子という実態があるとして、これを別々の説明です、と考える。
でもバシュラールはそうではなくて、どれも理論上で考えている話でしょ、と言う。誰も現物としては電子を見てないんだから。どこで分子と分子は接合してますか、というと、どちらもまさにこの電子という名前の構造で、分子間で電気的と言われている関係で繋がっていますと。だから、彼の場合、クーンが言っているパラダイムを、ものすごく細かくしているような感じですね。クーンの場合もっと広い意味で一般的な概念を取り扱うけど、そうじゃなくてもっと現場で細かいところを考えたときにその細かいものをどういうふうに繋いでいくか。その合理的な繋ぎ方は、形式において、構造において繋がっていく。
だからこの構造という概念は、通常は理論の方で理解しやすくなる。カヴァイエスの専門は数学でした。数学は理論形態なんだけど、ただ理論だけじゃ駄目だと彼は言う。なぜかというと、理論と言った途端に、理論そのものが、クワインがやっているみたいに非常にスタティックに見えてしまう場合がある。そうじゃなくて、カヴァイエスの場合は、関数概念とか数学にあるような理論は、自己発展していくということを考えます。ちなみに、カヴァイエスに関しては、近藤和敬君が多分日本で唯一の専門家です。
この繋げている構造の部分が、我々から独立した実在だとは思わないんです、バシュラールもカヴァイエスも。この構造は、我々とのインタラクションの中によって初めてでてきたものだと。でも我々が勝手に作っているものでもない。勝手に作っているものだったら非合理だからね。実験、構造式、数式などの、我々の自由にならないものが作る。まあ、実験が一番大きいです。特に実験においては、ハンソンのセオリーリーデッドっていう議論があって、理論というのは実験に対して様々なレベルで絡み合うわけです。この部分の計測装置に対してはこの理論、この部分に対してはこの理論、というのがたくさんある。そういう意味でいうと、すべての実験は、ニールス・ボーアが考えた、量子力学に対するコペンハーゲン解釈の、ミクロの世界とマクロの世界の両方が無いとできません。量子論のなかで、内部を説明するのが量子論の細かい理論になります。でも実験の準備をしたり、結合させるときに、我々はマクロの概念が無ければ、それらを考えることができません。ミクロ一本でばーっと通すことはできない。
というのが、前も言ったけど、こういう全部を改変するっていう今よくある宇宙の方程式を全部書きますっていうそれくらいはできるんだけど、それは現実的ではない。というニールス・ボーアが言ったような発想と近いものを、もっと一般化したような感じのものが、バシュラール本人が考えたような意味での科学的精神ということです。さらに面白いことを言うと、普通サイエンスって何もないところから真理を持ってくるって、さっき言ったけど、なぜ実験っていうのが抽象化って言ったときにね。普通はこう考えるわけ、何も無いところから神様の雷がくる。空虚の中に材料をちゃんと足していって作り上げていく。そうでしょ、だって抽象したものに足していくんだから。落下の法則に対して、空気の話を足して空気の抵抗の話を足して摩擦と熱エネルギーに変わる部分の話を足していくわけね。足していくものを足し上げる場所というのは、まっさらな場所。だからまっさらなものに対して、書きこんでいくっていうことを考える。教育というものを考える。だからそれがロックの言うタブラ・ラサっていう議論と全く同じかたちをしているわけです。
●科学的精神とオートポイエーシス
ところがバシュラールはそれはない。我々はもう精神として生きてしまっているから、科学的な精神が発展するということは、そうでない精神で同じ部分に対して打ち負かしていって、相手をブチ壊して自分が乗っ取るしかないっていうんですよ。つまり、まっさらなところは無いんだと。まっさらじゃなくて我々がもうある程度こういう風に見てますとか、もうそれは判断をしませんとか、という形で既に先入見が入っているような世界でしか我々は生きていなくて、まっさらな世界なんて見ていない。そこを変えていくというかたちで見てかなきゃならない。それが科学的精神というものが発展していくときの、もしくは人間に伝播していく。教育の場でもそう。それのかたちだと言っているんです。つまり組み替えてる。無からただ機会をつくりあげるんじゃなくて、そこにあるものを自分のものとして取り込むかたちで、且ついらないものはいらねえよって排除するかたちで。必要に応じて分解するかたちで自分を形成していく。この話、どっかで聞いたような話でしょ? 本当にオートポイスの議論と全く同じ。やってることは。
つまり科学的精神は極めて狭い範囲内の、極めて狭い機能になるものとして、自分自身を形成し、しかもそいつらが踏み合わさっている。この構造概念といっている組み合わせ、カップリングという問題になるんだけれども、というかたちで科学的精神の全体をイメージするものだとして、バシュラールを理解することはできます。だからバシュラールにおいてはこの構造的なというか、システム論的な発想ということが、他のシステムがどう発展していくかということに対しては別に科学である必要はないわけ。科学というタイプを彼は最もの手で細かいことをやったけど、発展の可能性として彼が史学とかそういう議論をしたのも、どういう風に他の物をその中にとりこんでいくか。どういうものとしてそいつらをある構造概念を使ってカップルする可能性があるんだ、と考える。非常に広い枠を考えていると言っていいです。
●科学的精神の限界
ただやっぱりそこで限界があって、彼がやった自然科学が頭にあるんだよね、常に。でも自然科学はある意味で困惑化しているところがあるわけね。ほうかの学であれ、作っている学だから、機能だから。そうしたら我々が通常言っている意味でのもっと幅が広い科学、自然科学と工学、こっちは逆に自然科学と工学の区別が無くてもいいわけですよ。自然科学と工学の区別は何だって言ったときにいくつも定義があるんだけど、…(板書音)…自然科学というのは…(板書音)…サイズ…。
これですね、普通理学と我々はいいますよね。理学部ですから。そうするとエンジニアリングっていって工学ですけど、何だ、って言うとある人はこう言いました。人工物科学だと。つまり人工物、この世に無かったもの、人間が作ったものを科学に対して(00:46:08)のが人工物科学。そして工学という概念を持っている。
ところが、この場合は科学ということの捉え方は色々あるんだけど、通常はこの言い方をしたときには、しかも工学部の先生たちはこちらの寄りに考えるわけね。こちら寄り。人工物の細かいファクターがある。でもある意味でバシュラールが言った分断する科学というかたちは、むしろこちら向きに考える。方向としてはこっちにいくわけ。人工物としての工科の学みたいに、こちら側に寄ってる。で、実はもう一つこの先があるんですよ。人工物というかたちでその両方に入っているところが、技術というものがあるわけです。技術というのは何かっていうと、これは科学という風に言っちゃいれないんだよね。技術は何かっていうと、大きい意味でこれは問題解決の技術なんですよ。むしろ。だからそのファクターってのが技術なんですよ。だから、この三つというのはこうつながる場合とこうつながる場合であるのね、両方の立場が。そういう見方からいくと、バシュラールは個々の科学的精神というのはむしろここを中心とするようにこちらを集めながら、個々の部分のファクターがね、分散されたということで繋げるというにはこれを重視するんです、技術を。
つまりその技術というのは、我々がここに現存しているということ、問題ということでいうと他の科学的でないものを駆逐するということ。それが問題の解決になるんです。だから何かの問題と言ったときにバシュラールにおける科学的精神の問題というのは、自分以外のものを自分に慣らす。科学的精神の帝国をつくる。科学の王国をつくる。ただそこがどこの範囲までいくかはわからないよ。そんなもんが人文主義の、人文社会学までいくかどうかというのはまた別問題ですけど。基本的にはこういう流れなんです。
つまり、普通は今までは、こちらへこちらへという流れが多かったわけね。つまりこちらへこちらへの一般性というところに持っていく流れだった。そうすると、一番ケツには何がいるかっていうと、前も言ったけど、…(板書音)...で、こちら側の後ろに何がくるんだっていうと、人の生というかこれは問題としての生に投げ込まれちゃった。「どうやって生きていこう」ということを考えていく。これは僕の見方なんですけど。この二つの大きい理念のなかで、どちらの側に揺らいでいくか、どちらの側に動いていくか。だからこちら側に寄ってきた場合に科学を考えるパターンというのは、ずっと授業でやってますけど、いわゆる西洋伝統の思想がものすごくここに入ってくるわけです。神学的、色々なパラダイムとか、神学的なコンテクストとかそういう構造とか色々効いてくるわけ。
こちら側に入ってくるときに、まさにそれこそ近代の神様を捨てるかたちで人間が問題にひっかけなければならなくなったというファクターと、プラス、問題の具体性というのがどんどん入ってくるわけだね。こっちに来たとき。だからこちら側の方向に来るときに、さっきも出しましたけど、社会学というか勿論コントの意味での19世紀終わりの実証主義と言われている意味での、方向というのはこちら側から考えてる話なんですよ。神様の設計図の話ではないわけ。
で、これは余分なんだけど、西洋で実はこの両方の間を繋いだ概念がキリストなんですよ。神様と人との両方を持っているから。キリストというのは。だからキリスト教の発想というのはこの円を閉じてくれるような発想を持っているんですよ、彼らのなかで。でもだから一番難しいんだよね。キリスト教の三位一体が一番わからない。だからアウグスティヌスが三位一体というのは信仰状況の最大の躓きの石だと言ってますけど。でもこれを閉じるようなかたちになっている。まあこういう、端という端を出してくっつけてるのは入不二さんの常套手段ですけれども。
この部分として解決されるものとしての人間、キリストっていうのはある意味こちら側でいくと神であり人なんですよね。神=人という両方の側面を持っている。やっぱりこれが彼らの思想、この思想ベースがあったときに、その中でどの位置を我々が各自が分担していくか。各自の世界を分担していくか。というかたちで見たらどこに続いているのだろうか、というような話になる。
でもサイエンス自体というのはどこにいるかって言ったときに、実はバシュラールが示している、問題としての世界に対してこういう世界自身が問題だとかかっていく分散の仕方ということは、必ずしも個人の人間というかたちをインデックスにしなくてもできちゃうわけです。社会学、それから政治、似たような政治学、それから広い意味での倫理学。このへんは実は問題の問題群なんですよ、どちらかというと。問題に対してどういう態度をとるかという学問だと思ったほうがわかりやすい。
●技術、産業と科学的精神
だからさっき言った「事実の学」と「効果の学」、こちら側から言ったときに理学、工学、まあこちら側の寄りの意味でね、それから数学も入っちゃってるね。このタイプは基本的には「事実の学」だと思われてます、みんな。理学がでかいね。基本的に事実をベースとした学だと思っているわけ、みんな。事実を、神が設計して作った事実をもとにして、世界に、問題に対処する「事実の学」なんです。
政治学とかよくわからんのが実はこれなんです。歴史学と哲学なんです。一番よくわかんないのが。こちらはむしろ、なにか事実があったというよりも、まず問題が先に立っちゃう学なんです。まず問題を解決するために何度も合理的な理論を持ってこい、と。だからさっきのリサーチプログラム論というのは、この段階で見てるわけですよね。でもここの間の細かいところの議論というのは、それぞれに任せましょう、つってふっ飛ばしてるわけ。バシュラール自身の位置はだいたいこのへんです。このへんの辺りを、理学からこのへんの辺りを進んだ位置にバシュラール達の議論がある。
むしろリサーチプログラムという発想はこのへんの話を、ここはなんとかなりますよねえ、つって伸ばしてここへ繋げているという感じ。だからここに繋がる背後にキリストっていったときの一人の個人、人ということがやっぱり背後にあるわけです。ここのところの個ということへ持っていくときに非常にやっかいなのが、個と言ったときにそれは人間が代表できるのか。人間が常に代表していいのか。これはさっきの問題群ね。今までは普通は哲学は、というか西洋近代、特にサイエンスが起こったとされるベースであるデカルトの議論は、心身二元論、心身を二分した、二元論だと。その心というものが、個別性を保証したりするのね。
だから、人で、しかも彼らは神学的なものによって助けを、変化を司るものとして神様で連続性をなしたから、基本的には神と直結した人、これを言うと言い過ぎなんだけどね怒られちゃうんだけど、近代科学で発生したというときにデカルトを持ってくるということ自体は、ここの人ということが個別性に対して暗黙の了解になったわけです。
ところが、ここに対してこういう問題が入ってくるとこに、特にここのところで入り込んでくる奴らがいるわけ。この図式のなかにどこにも入っていないやつとして、これが出てくるんです。産業っていうやつが特にここに突っ込んでくる、こことここに。人工物というところと問題というところで産業というものが入ってくるわけです。人間の分業としての。産業の議論ということが、今科学史から科学に対する批判する人、例えば村上陽一郎さんとかがいる。それから科学に対する問題で必ず産業と関わる問題が出てくるわけ。それは、最初に言った様に、我々の生活に科学が影響を及ぼすのは、今は勿論インターネットで見たね、雑誌で見てこうだってことはあるけど、まず産業っていうかたちが大きい産物を作ることによって、そこを通してこのかたちで科学を通すかたちで我々に影響してきた。それが起こったのは産業革命という18世紀から、特に大きかったのは19世紀の重工業化の時代がそれだったわけです。だから、こいつは学問をどこに捉えるか。これよくわかんない。まず、こっちでは産業というかたちを誰が捉えたかはなかなかない。問題群としては捉える部分はある。問題としてはね。産業社会学という言い方もある。でもジャンルになるんであって産業ということ自体が何をファクターにし、こう言ったらいいいかな、バシュラールが言ったように合理的精神、これ科学ということが一つのこのレベルで考えると、人間を離れてるってことは科学的精神、例えば現在だと産業に宿っているという言い方はあるかもしれない。もしくは企業に宿っているとかね。
例えば技術だと、例えば町工場のすごいのがあるでしょ? 日本の、例えば大田区の辺り行くとさ、なんかおっちゃんが5人位しかいなくてさ、金槌持って金属ひっ叩いてるんだけどその金属をよくよく見たらスペースシャトルのノズルでさ。あれはコンピューターじゃできない。というやつを繋いでいってる技術を持ってる人達が日本の、そういう人が日本の支えです、って言ってる話をするんだけど。
そういうところに、ある意味での、頭で記号で書くんではないような意味での、合理的精神ていうのがある可能性はある。たくさんあるんです、技術の中で。
だから必ずしも技術というこういう発想になったときに、必ずしも人間である必要はなくなるわけです。逆にこういうものたちにそこが移植されている部分ていう、移植というかその中で沸き起こっているような科学技術という可能性は大いにある。しかも今まではそれがノウハウとか、人が接触しないとできないとかいってたやつが、それこそインターネット、それこそ情報化、しかもデジタル化が進むことによって、要するにC3Iって言われてるね。コミュニケーション・コンピューター・カリキュラス・インテリジェンスって言われている、これは軍事用語なんですけれども。そういうようなかたちでいちいち我々が理解できるように翻訳する必要が無いかたちで、違ったセクターへと移すことができるようになり得るんです。
バシュラールは勿論こんなこと言ってません。彼は科学者の派以内で言っているだけ。でもこういう図式に当てはめてみると、彼が言っている発想、科学的精神という言葉をむしろ、これは僕の独断ですけど、あんまりいい言葉が無いんだけど、これを科学的情報体という。この情報はインフォメーションの意味じゃなくてインテリジェンスの意味。この違いは、インフォメーションは記号的な情報を持ってるよね。インテリジェンスっていうのはむしろ情報解析して使うという意味でのことをインテリジェンスといいます。ですからCIA、あのアメリカの中央情報局、あの情報っていうのはインテリジェンスです。インフォメーションではありません。セントラル・インテリジェンス・エージェンシーですから、間違ってセントラル・インフォメーション・エージェンシーって言ったらそれはほとんど電話局みたいなものになります。
そういう意味でこういう風に読みかえることによって、ある意味で科学に対する発想をエピステモロジーから拡大することができます。多分この方向で考えてるんで、エピステモロジーの専門は今東大の教育学部にいる金森修さんだったと思いますけれども。で、こういうような構造で実はそのときにこの産業、人間化しなくなった単位のものをどこで捉えるか。それにおける現在というものをどのように捉えるか。ということで、実は歴史という問題に絡みがでてくるんですね。
歴史学というのは一番サイエンスにとって相性が悪いわけでありまして、本質的に。ヒストリー自身はもともとは歴史の「史」っていう字は、「誌」でもあるわけね。これは同じなんですよね。だからイストワールっていうフランス語でいうと物語という意味もあります。だから歴史というのは、最初は物語を編んでいるかたちで作った。日本だったら古事記を木簡に書いたというのがあるわけ。
で、因果の議論があったときに法則の説明をやったときに歴史は法則的な一般性があるから、という問題もある。これもそんなに一般的に簡単に組めるわけじゃなかった。でもそれがもう一つ、バシュラールが見ている科学的精神は常に、彼は歴史に関していくつか触れているんだけど、経験的な歴史と科学的精神の歴史は違うっていうのがある。つまり、先に時間の軸があって何かが起こって、為ったじゃなくて、科学的精神の歴史というのは人間が、今言った人間の経験において成立する時間の歴史だけど、それと一致しているとは限らないと言っています。それが何事であるかということのイメージは大変とりにくいんですが、科学的精神がある意味で今なのか未来なのか、という言葉の意味がよくわからないわけです。
つまり現在の科学的精神と、それから未来の、過去の科学的精神を考えたときに、一個一個の個別の精神があるわけじゃないわけ、さっき言ったみたいに。科学的精神っていうのは発展の状況が斉一的でない、そろっていない、ドゥルーズの言葉を使えばリゾーム、要するに機能、地下茎みたいにわさわさわさっと整序されていないものだと。
それがどこに切り替わってくるかというと自分自身の中を食いつぶして変えながら変わってきたりするわけです。だからどこまでが今の科学的精神で、どこまでが過去の科学的精神なんていう切れ目っていうのは、変わったということがあるところでしかないわけね。そこが変わったっていうところ、いつ変わったっていうのは今この時点から眺めたら変わってるっていうことがわかるんだけど、全体としていつの時間があるってことがわからないわけですよ。
だから逆にバシュラールの場合には、科学的精神という立場から見たときには、例えばニュートンが発見したときに重力の法則をこう持ってました、彼の頭の中でこう考えてましたっていうのはあるわけね。あるいは神様が持っている遠隔作用。でも現代は、あれは重力場の積分をしてったところの効果ですって考える。だから当時の人はニュートンにそれを言うってことはアナクロだった、普通はね。でもそれはニュートンという理解の精神のかたまり、科学的精神じゃなくてニュートン精神というかたまりとの単位だったわけですね。バシュラールがした科学的精神でいうと、現代の科学的精神から見たときにその部分は現代の科学的精神はそこのところを重力場の話で接続するようによって書いたものがあの時点で現れたという風に考える。だから複数の精神があったときに、一つの事実があったときに、今の場合はS=M/gr2っていう方程式があったとしたときに、ニュートン精神という言い方は変なんだけど、ニュートンっていう個人の中での繋がりという枠組みと、それからこれは勿論現代とは合わないわけです。現代の我々の、2009年の、我々がここにいることを繋いでいる科学的精神というものを接続というのは全然違うわけです。
だからこういう風に起こってきて、歴史がありましたっていうバラバラの、科学的精神はこのバラバラの集積じゃないわけです。どう繋がっているかだから。だからある意味でアナクロをはっきりやります、バシュラールは。
そういうかたちで見た時にある意味では各個々の出来事、歴史に対しては一つの合理的精神と出来事との間の関係、この間の関係はなに? って言ったときに極めて広い意味で解釈がつく。この間の解釈なんです。解釈というかたちで、というか自分の自身と接続をとるんです。だからバシュラールの解釈というのは、出来事のある側面との接続可能性。これは僕の言葉です。バシュラールが言ったことじゃないです。可能性として解釈というものを考える。出来事のある側面との接続可能性とするものとして解釈を考えて、その出来事を自分に対して自分自身を成長させていく、という風に考えているわけです。
そうすると、このところで常に問題が起きてくる。やっぱり、歴史なんだよね。この話が出てくると当然「歴史ってなんですか?」っていう議論が当然でてくるわけです。特に「歴史学はなんですか?」って。歴史とはなんでしょう。これで解釈学という話が入ってくると、実存主義の核とかができるわけですが、ガダマーをひっかけました。その前に、だから科学における歴史という問題、科学史家は何をしているか、ということが問題になっちゃうんですよね。
大変面白いものが多い科学史の本の中では、細かいところを今ね、バシュラールが言ったことに対応するわけ、すごく細かい現象が皆さんたくさんあります。たとえば私の先輩だった人が学位論文で出したものが何かっていうと、アメリカにおける原子力の核分裂概念の導入に対する歴史的研究。誰それが、いつ、どこで、どういう雑誌を読んで、こうやってこうなって、きっとこのへんにこういう風に、そこで歴史を再構成するわけです。だからすごく細かいことをやるんですよ。さらに面白いのは例えば今学問だととても思われていないような、なんとか学ってついてる色んな面白い学問があります。たとえば骨相学っていうの知ってる?骨の相の学って書くやつ。つまり、これは19世紀が一番あれかな? 人間の脳味噌が遺意思の座と大体わかったと。ところがそうすると脳味噌の位置の働きというのは、きっと脳の大きさとなんか相関が…
最終更新:2012年10月03日 14:18