第03回 2012年06月22日

※以下は講義の備忘録です。正式なテープ起こしはもうしばらく(数年)お待ちください…。太田120713


…備忘記録者の内緒話…
 1910年のカッシーラーが企図している「論理学上の理論を裏付けるために、個別の科学の原理的な構造全体をたどり、この構造を支配し、結びあわせている機能を浮きぼりにすること」というプロジェクトの壮大さもあるけれど、塩谷さんの話のなかで、追えないところがだんだん増えてきている。新カント派の科学史家であるカッシーラーが論述の前提としている諸々(アリストテレスの類概念から素朴集合論の限界まで)がほとんどわからないのが、厳しい。


以下、塩谷さんの講義の備忘。カッシーラー(1874-1945)http://t.co/LeYgUKEXの生きた時代の背景説明に関してはこちら(http://t.co/STMhNhGU)。今日読んだのは、第一章「概念形成の理論によせて」の最初の3段落。

  • アリストテレスとカッシーラーは何が違うのか。どういう言語をベースとしているかがまず違う。アリストテレスは日常言語。カッシーラーは科学言語。これは1910年当時、分断した科学を、もう一度つなぎあわせることが哲学のミッションの一つであったから。

  • アリストテレス以来の〈形式論理学〉の基幹理論が、当時の科学の展開のもとで被った変化とは何か? その前に、そもそも、それまでの〈形式論理学〉はどういうことをやっていたのか? 有名なのは三段論法。中世は数え歌(http://t.co/uTFY2PHb)で覚えたりなど。

  • ただ、中世の論理学の焦点は、真であることの証明ではなく、言明の形式にあった。「証明」という概念がしっかり検討されるのは、19世紀末。フレーゲを経た、ヒルベルトから(つまり、ヒルベルト・プログラムhttp://t.co/AwSReuOj)。

  • ところで、「形式論理学が、数学の〈集合論〉と接触することによって生まれた新しい大きな問題領域が登場している」というとき、〈集合論〉と訳されている部分は原典だと「Mannigfaltigkeit」(多様体: http://t.co/ZqKPyEuq)で、「Menge」ではない。

  • 集合論は、素朴集合論と公理的集合論に分かれる(http://t.co/h7hEOIM4)。カッシーラーが注目しているのは、公理的集合論のほう。すでにラッセル・パラドックスは知られていたから。「属する」ということを描図ではない方法で、どのように数学的に表記するのか、という問い。

  • 当時の数学者を悩ませていたのは公理的集合論だけではない。「aと{a}(←aのみを含む集合)は、同じか、異なるか」なども。ちなみに、現代の集合論では、両者はそれぞれ異なるということになっている。{a}はaを無限に含んでいないといけないから。

  • このあたりは1920年代、集合論と、ロシアのレシニェフスキによって創始されたメレオロジー(部分と全体の計算)によって進展。…それにしても、なぜこの時期に集合論に注目が集まったのか。それは「無限が扱える(ようにみえる)」から。

  • 正確に言うと、無限を扱う場合には、外延(extension:集合の要素を{ }かっこのなかにすべて並べて集合を表す)ではダメで、内包(intension:、{x| }の中に集ったものの性質を示し集合を表す)が求められる。論理学の対象になるのも、内包のほう。

  • というか、外延は、「xが含むのは、a、b、c、…」とただ要素が並べてあるだけなので、論理学の対象にならない。その一方で、内包は、「xはαである」という「文」になる。ここが重要。フレーゲは、「文」という単位を基本とし、その「文」の真偽を明らかにする方法について考えていたから。

  • アリストテレスは「主語」を単位としてそれにアクセスする方法を考えていた。つまり実験・観察。例えば、カニがいたとき、つついてみたり、捕食行動を観察したり、煮て食べたりなどしてカニを知る。これは外延的な操作といえる。フレーゲの考えるような、「文」の真偽は問題にならない。

  • ざっくり分けると、科学は内包的な操作で、技術(および魔術)は外延的な操作、と言える。外延は、どうしても観点に依存してしまうため(実験・観察には特定の観点が不可欠)、数学における、観点に依存しない一般性には応えきれない。

  • 例えば、二等辺三角形の一般性を考えようとしたときに、外延的操作で、ひたすらたくさんの二等辺三角形を並べて「二等辺三角形の両底角は等しい」という性質を導いたとしても、「それでは、辺って何?」「角度って何?」という、“物としてもってこれないもの”を求められると答えられない。

  • 1910年、新カント派は「数学による科学の統一」という目標があった(ドイツ・ベルリン大学にアインシュタインがいたのはそういう気風があったから。ポアンカレらがいたフランスはどうだったのだろう)。そのため、外延/内包など、集合論の可能性に通暁することが求められていた。

  • ここで、アリストテレスに戻ると、彼は自然学(形而上学)で、四因説(http://t.co/bTz0hVSg)を唱えている。つまり、「ある現実が成立している“本質的な”要件」として質料因、 形相因、作用因、目的因をあげる。集合論関連で注目されるのは、質料因と、形相因。

  • 集合論に引き寄せて考えると、質料因(かたどられるもの:焼きそばの具)は、外延に。形相因(かたどるもの:焼きそばのイメージ)は、内包に、それぞれ対応する。…ただし、アリストテレスの場合は「ある現実」の個体性(焼きそば)が前提であり、個体を超えた一般性というものは考えない。

  • カッシーラーがまずアリストテレスの〈形式論理学〉に対して行おうとするのが、「個体を超えた一般性というものは考えない」という枠を外すこと。そのための方法は…、次回に続く。

※質料因と、形相因について付言すると、質料因はプラトンのイデア説への反論が下敷きになっている。どれほど明瞭に焼きそばを思い浮かべても、それは現実の焼きそばにはならない。























最終更新:2013年01月26日 19:26
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