※以下は講義の備忘録です。正式なテープ起こしはもうしばらく(数年)お待ちください…。太田120714
…今回、読んだところ…
概念形成の理論の主だった特徴はよく知られているので、立ち入った説明を必要とはしない。その前提はきわめて単純かつ明瞭であり、常識的な世界観が通常使用し扱っている基本的仮定によく合致しているので、批判的吟味のための手懸りはほとんどどこにも与えられていないように見える。じっさい、さしあたっては見通しきれないくらい多種多様な相にある事物そのものの現存、およびこれらの個々別々の実在の充溢のなかからそれらの多くに〈共通に〉属する要素を取り出す精神の能力以外には、何ひとつ前提されていない。こうして、同一の性質を共通に持つことで特徴づけられる対象をわれわれがひとつの部類にまとめあげ、さらに、この手続きをより高い水準にまで繰り返すことによって、個別の事物を貫く存在のより堅固な序列と分節とが、事象的〈類似性〉の等級に応じて、徐々に浮き彫りにされてゆくとされる。このさい思惟が用いている本質的機能は、ただ所与の感性的多様の〈比較〉と〈区別〉とに尽きている。諸対象の一致した本質的特徴を確認するために個々の対象間で往来する〈反省〉は、異質な成素を混入させることなく、この同質の特徴だけを純粋にそれ自身で捕捉し取り上げる〈抽象〉へと、おのずから導く。という次第で、このような把握は自然的世界像の〈統一〉を損うことも傷つけることもない――そして、このことが、その固有の長所であり権利づけでもあるように見える。〈概念〉は、感性的現実にたいして異質のものとして対立するのではなく、当のこの現実そのものの一〈部分〉をなす、つまり、現実のなかに直接に含まれているものから抽出されたものなのである。このような見解に立てば、精密数理科学の概念は、もっぱら所与の概括的な整序と分類とに携わる〈記述〉科学の概念とまったく同じ水準にあることになる。われわれが樫や樵や白樺などの全体から、一連の共通した徴標を取り出して木という概念を作るのとまったく同じように、われわれはたとえば、正方形や長方形や菱形や平行四辺形や対称ないしは非対称な台形や一般の四辺形において、じっさいに見出されそこで直接直観的に示されうる性質を抽出することによって、吾豊形という概念を作りあげるのだということ概念論のよく知られた原則は、この基礎の上におのずと生み出される。比較可能な諸対象の系列のおのおのは、これら諸対象が一致する規定のすべてをそれ自身のうちに含むある最高の類概念を有し、他方、これら最高の類のなかでは、比較される諸要素の〈一部分〉にのみ属しているような性質によって、さまざまな等級の種概念が定義される。これまで維持されてきたあるひとつの徴標を断念し、こうしてより広い対象領域を考察範囲に含めることによって、ひとつの種からより高位の類に昇ってゆくように、逆に、新しい内容的要素をつぎつぎと付け加えることによって、類の特殊化がなし遂げられる。したがって、ある概念の徴標の個数をその〈内包〉の量とするならば、高位の概念からより低位の概念に下がれば下がるほど、その量は増加し、こうしてその概念に属すると考えられる種の個数は減少するであろう――他方、より高位の類に昇ることによってこの〔下属する種の〕個数が増加すれば、それに応じてこの内包の量は減少するであろう。したがって〈外延〉の拡大には〈内包〉の制限が伴い、こうしてわれわれが達することのできるもっとも普遍的な概念は、つまるところ、もはやなんら特筆すべき特徴や規定性を持たないということになる。このような手続きで作り上げられた「概念ピラミッド」は、その頂上に至って「あるもの」という抽象的な表象、つまり、あらゆる任意の思惟内容がその下にあるいっさいを包括する存在ではあるが、同時に、あらゆる特殊な〈意義〉を完全に欠落させた表象で終る。
エルンスト・カッシーラー、山本義隆訳『実体概念と関数概念』、みすず書房、1979年、5~6頁
哲学塾カントでの塩谷さんの『実体概念と関数概念』読書会、4回目、終了。今回は、3回目にやった集合論の「内包/外延」の話が、概念形成とどのように重なってくるかという話。カッシーラーが採用している“伝統的な概念形成の理論”の解釈。
- カッシーラーは『実体概念と関数概念』の冒頭で、形式論理学と、数学の〈集合論〉とが接することによって新しい領域が生れた、と書く。いままでばらばらだった論理学は統一され、具体的な課題と成果とに導かれるだろうと。どのようにしてか。集合論にもとづく概念形成の理論への批判によって。
- 「形式論理学の批判は、概念形成の一般理論の批判に煮つめられるのである」(5頁)。では、概念形成と集合論は、どのような側面で重なるのか。概念(concept)と集合は、ともに「内包(intension)/外延(extension)」という構造で表現できるのだ。
※繰り返しになるけれど、外延は「集合の要素を{ }かっこのなかにすべて並べて集合を表す」方法で、内包は「{x| }の中に集ったものの性質を示し集合を表す」方法。内包は、「xはαである」という「文」になるため、論理学で扱われる。(第3回
http://t.co/595pgLEy参照)
- 概念は、集合と同じように、「内包/外延」という構造をとる。例えば、「カラス」という概念について。「カラスは黒い」という文で、「カラス」概念にあてはまる性質(「黒い」)を示す(←内包)。また、「カラス」とされるものを一羽一羽、並べていって、その性質(「黒い」)を示す(←外延)等。
- 概念(concept)は「内包/外延」という構造をとる、というとき、観念(idea)と比べるとわかりやすいかもしれない。つまり、観念に「内包/外延」はない。感情(emotion)にも、ない。
- それは観念、感情が“心”という領域にあるものだから(私のなかのカラスの観念は、あなたのなかのカラスの観念と違う、と言っても不都合はない)。その一方、概念は“心”の領域にあるとは限らない(私のなかのカラスの概念が、他の人と異なっていたらカラスを議論することができない)。
- 集合と概念とは、ともに「内包/外延」という表現ができるが、もちろん両者は同じではない。例えば、集合のあいだに書けるのは「=(等しい)」と「∈(属する)」。概念のあいだでは、「logic(理)」。これらが混同されると、“哲学で よく起こる間違い”が発生する。
- 概念形成と集合論の話に戻る。伝統的な概念形成の理論は、「個々別々の実在の充溢のなかからそれらの多くに〈共通に〉属する要素を取り出す」(6頁)ことで概念が形成されるとしている、とカッシーラーは述べる。複数の個物から、上へ上へと抽象を進めていくことで一つの概念ができるというイメージ
- この複数の個物から上へ上へと抽象を進めるというイメージは、中世の教父哲学における修業のイメージと対応している。つまり、プラトンのイデアの階層論と、「精神において、人間は神と比べると、能力的には不十分だけれど、質的には同じ(プネウマ:息を吹き込まれているから)」という前提がある。
- でも、概念の形成される仕方としては、「上への抽象」ではなく、「ぼーっとした全体があって、それを分割していく、それに限定を加えていく」というのもある。アリストテレスが「類(Gattung)」と「種差(Artbegriff)」で示すもの(cf.『形而上学』)。
- この場合の概念形成は、ある類が種差によって種に分化され、その種も次のレベルにおける類として、次のレベルの種差によってまた種に分化されていく…、という博物学の分類法のイメージ(界→門→綱→目→科→属→種)。下位の概念になるほど、制限が加わり、その概念に属する個数は減少する。
- 集合論と密接にかかわる概念形成の仕方は、このアリストテレスの方(「上へ」ではなく「下へ」の概念化)。例えば、〈哺乳類〉の〈犬〉の〈チワワ〉であるところの〈シロ〉という飼い犬がいるとする。集合論的に外延で書くと、「Ext(哺乳類)>Ext(犬)>Ext(チワワ)>Ext(シロ)」
※ここでは外延を例にするけれど、内包でも同様に「Int(哺乳類)∩Int(犬)∩Int(チワワ)∩Int(シロ)」と書くことができる。
- いま、飼い犬であるところのシロは一匹しかいない特定の動物なので、「Ext(シロ)」という書き方は集合論的にはできない(xはx自身に属さない。cf.「ラッセルのパラドクス」)。…でも、ちょっと待った。概念としての「シロ」を形成するうえでは「Ext(シロ)=シロ」で何の問題もない。
- 「Ext(シロ)=シロ」は集合論では問題だけど、概念としてシロを捉えるうえで問題はない。というか、現実的にそこにいるシロ、は、「Ext(シロ)=シロ」というあり方でしか書けない。集合と概念の違い。
- 集合論で概念形成を考えると、さまざまなことがわかる(概念と観念の違い、概念がいかに内包に帰着しやすいか、“目の前のシロ”を概念として捉えるときに、集合論とは別のやり方をしていること…)。しかし、私たちは集合を考えるときに、余計なイメージを付け加えて理解していないか?
- ただ単に個物が集まっているだけの集合は、それをもとに世界に働きかけるのに不向き。そこでようやく、関数概念が登場する。つまり、世界を「系列」として考え、「順番を入れ替える」というやり方で、世界をいじるとき、その入れ替え方を表現するのが、関数。
※「列の順番の入れ替え方としての関数」を考えるときに、それを「幾何としてグラフにできる関数」と同じものとして考えてよいか? という問いが出てくる。同じだよ、とするのがラッセル。違うよ、というのがウィトゲンシュタイン。
- 世界を「系列」として考え、「順番を入れ替える」仕方を表現する関数を、概念のありようとして定義すると、以下の問題がとける。つまり、「概念の頂上(キリスト教神学の「神」のイメージ)は、すべての概念規定を含んでおり、同時にすべての実体も含んでいることになるが、おかしくないか」という。
- 集合論から概念を考えると、「すべての概念規定を含む」とすれば実体は何もないはずだし、「すべての実体を含む」ならば何の概念規定もないはず。しかし、概念を、〈実体概念〉ではなく〈関数概念〉とすることで、この矛盾の突破口を開く、というのがカッシーラーの試みなのではないか、と。
最終更新:2013年01月26日 19:27