『赤い鳥』
赤い鳥(あかいとり)は1918年7月1日に
鈴木三重吉らによって創刊された童話と童謡の児童雑誌である。近代児童文学・児童音楽の創世期に最も重要な影響を与えた。1929年~1931年の間休刊があるものの三重吉の死(1936年)まで198冊刊行され続けた。
また、『赤い鳥』が創刊された7月1日は、1984年に日本童話協会によって、「童謡の日」と定められている。
「赤い鳥」には多くの作家、作詞家、作曲家、画家が賛同し、文学・美術・音楽などの広い芸術の分野で先駆的役割を果たし、日本の教育の歴史にも大きな影響を及ぼしました。「赤い鳥」から生まれた多くの童謡・童話は国民に親しまれ、その影響は現代にまで及んでいます。
鈴木三重吉の目から見て低級で愚かな政府が主導する唱歌や説話に対し、子供の純性を育むための話・歌を創作し世に広める一大運動を宣言し『赤い鳥』を発刊した。児童文学書とはいえ芥川龍之介や島崎藤村、北原白秋、有島武郎、泉鏡花、高浜虚子、徳田秋声、小川未明、佐藤春夫、坪田譲治などの一流作家の殆んどは、この文学運動に賛同し参画し、その後も菊池寛、西条八十、谷崎潤一郎、三木露風らが作品を寄稿した。
三重吉はこれら一流作家の文章を、「御座居ます」を「ございます」というように、遠慮なく児童向きに筆を入れて直したという。また、一流作家の文だけではなく、読者である少年少女の綴方、詩を選んで掲載した。『赤い鳥』において「詩」は北原白秋が担当し、寄せられる投稿作品の選者として重要な役割を果たした。全国からの参加校は320校を超え、毎月2000名以上の詩を通覧したと云う。少女時代に「綴方教室」を書いた作家の豊田正子は、鈴木三重吉の「綴方運動」によって育てられた人でもある。また、白秋自身も、328編もの創作童謡を「赤い鳥」に発表した。
大正7年創刊の時掲げた理想に、「俗悪な子供の読物を排除する」という意味のことがある。そして表紙、挿絵も本の象徴として重視し、清水良雄、武井武雄、川上四郎などの一流画家が担当した。全号196冊の表紙画は、今以て鑑賞に耐える見事なものである。
また、「赤い鳥」には多くの作家、画家だけでなく、多くの作詞家、作曲家、も賛同し、文学・美術・音楽などの広い芸術の分野で先駆的役割を果たし、日本の教育の歴史にも大きな影響を及ぼした。「赤い鳥」から生まれた多くの童謡・童話は国民に親しまれ、その影響は現代にまで及んでいる。そして、「赤い鳥」が現在でも、多くの人々に愛されているのは、「児童は独立した人格を持つ」という考えを基本とし、その一篇一文に、詩情が溢れ、よろこび悲しみがあり、愛があったから、その価値が高く評価されているのではないか。とされている。
この様な運動は誌名から「赤い鳥運動」と呼ばれるようになった。また、『金の船』(1919年、代表者:斎藤佐次郎)、『童話』(1920年、代表者:千葉省三)といった類似の児童雑誌が創刊された。
主な掲載作品
童話
「蜘蛛の糸」「杜子春」(芥川龍之介)
「一房の葡萄」(有島武郎)
「お馬」「ぽっぽのお手帳」(鈴木三重吉)
「ごん狐」(新美南吉)
童謡
「からたちの花」(北原白秋)
参考URL
ja.wikipedia.org/wiki/赤い鳥
akaitori.jpn.org
りえ
最終更新:2007年03月25日 00:25