saya さん、いくつかの書き込みご苦労さま。後輩諸君にいろいろと刺激を与えてください。
 ところでアイゼンクは、ケイミンとの間で、知能をめぐる論争の書物をつくっており、これがなかなか面白いのだけど、読みましたか。アイゼンクは遺伝論者、ケイミンは環境論者ということのようですが、丁寧に読むとたくさんのことを考えさせられます。
 ちなみにアイゼンクによるケイミン批判のごく一部を引用してみます。
 「はっきりと断言しておきたいが、私たちの社会において知能差を決定する要因について、遺伝の面が環境よりも二倍の重要性をもつという事実は、社会環境の改良に対して反証となる議論に用いられてはならない。社会改善の可能性、とりわけ困窮者たちのあいだでは、IQ水準をかなりあげる可能性のあることの証拠は明瞭であって、およそ理性的な議論でこれに判定する議論はどこにもない。知能テストの果たす役割とは、最も助けを必要としているグループや人々に狙いを定めて、改良のためにどの方策を採用すれば必要な効果が得られるかを調査することにある。このような知能テストの使用は、まったく善意から出るもので、これに対する倫理面からの異論など差しはさまれる余地はまったくない」(『知能は測れるか』p315)
 アイゼンクはエビデンスベイストの必要を説いたことでわかるように、「科学的」な研究をこの本で一貫して主張しています。しかし、この論はいろいろと議論の余地がありそうです。
 アイゼンクは遺伝論者らしく、知能差を決定する要因として、遺伝が環境の二倍だと言っています。
 しかし、すぐあとで、困窮者の場合、IQ水準を「かなりあげる可能性」があると書いています。もちろん、IQが社会改良的実践の結果として、「上がった」としたら、その部分は「環境による」ということになります。したがって、かなりあがる可能性があるとすれば、遺伝が環境の二倍という議論は無理が生じることになります。遺伝が環境の二倍の力をもっているなら、環境を改善することで知能があがるのは「ある程度」に過ぎないはずだからです。
 この文章はアイゼンクが「倫理の問題」という題をつけた部分にあります。知能テストは、援助必要者のために行なわれるのであって、倫理的な問題はないと断言しているのですが、当初のビネーに与えられた目的が、援助必要者のためであったとしても、その後「選別」の材料として用いられたことは事実だし、差別を合理化するために使用されたことも否定できません。
 もっとも別のところでアイゼンクが指摘しているように、当初イギリスで知能テストが選抜試験に使用されたのは、高い能力があるにもかかわらず、授業料を払えないために進学できない生徒を救うための、授業料免除の生徒を選ぶためでした。しかし、第二次大戦後、すべての生徒に知能テストを受けさせ、その結果によって、進学先を決めたために、知能テストのアイゼンクのいうような使用とは異なる「倫理問題」をもった使用になったのです。
 ただ、通常、心理学の分野では、「倫理」の問題は非常に小さな扱われ方をすると思われるのに、アイゼンクがかなり神経質にその問題を論じているのは、なかなか興味深いものがあります。

 みんなも、『知能は測れるのか』筑摩書房をぜひ読んでみましょう。
最終更新:2008年02月26日 22:35