イエナ・プラン
イエナプランとは1889年生まれのドイツの哲学者である
ペーターゼンが1925年以後、ドイツのイエナ大学付属学校で実施した学校改革プランである教科中心主義の教育方法であるともされている。
「学校は生活共同体(ゲマインシャフト)の縮図でなければならない。」という考えから、学年別学級を廃止し、低学年・中学年・高学年の三段階に分けた。また、自らの関心に基づき自由な学習を行い、この集団各々に指導する側と指導される側の両方の立場を経験させることによって、社会の育成が目指された。また、合科教授、作業教育を実施。学校を共同体としてとらえ、父母と教師とが自主的に経営した。
また、この時代(1925年以後)のドイツの背景として、1933年にナチスが政権を握ったいうことは認識しておくべきである。
権力掌握後,政敵(ユダヤ人,社会主義者,共産主義者)を排除し,憎悪すべきヴァイマル時代の議会主義的民主主義を,それが抱えるリベラルな概念もろとも排斥するというネガティヴな観念以外に,内政的な綱領は存在しなかったのである。
また、権力掌握後に新たに作られた分野の一つに教育分野があった。「教育」はナチズムの中では流行語であった。かつての日本でもそうであったが、国を統治して、戦争に臨体制として教育が重要な役割を果たした。小さいころから、天皇のため、お国のため、そのための死なら本望であるといったことを教えてきた。このころのナチスも統治するために教育を改革しようとしていった。ナチスのすべての党幹部が我こそは教育問題に口出しするに相応しい人物であると考えていたし,例えヒトラーの言葉が引用されているのを想起させるに過ぎなかったにせよ,そうした発言がなされない集会は皆無であった。党の世界観の監視役を務めていたアルフレート・ローゼンベルクのような高級幹部も,教育に関する文章を発表した。しかし,「国民社会主義的」な理論として受け入れられるような,一般に認知された教育理論を公式化することに成功する者はいなかった。
ナチイデオロギーが含有していた民族主義的な意味合いからそうかけ離れていなかったという理由から,シュプラングラー,ノール,フリトナー,ペーターゼンといったヴァイマル期の指導的な教育学者たちをナチス教育者と呼ぶことは,ある程度妥当といえる。ナチイデオロギーの多様性と矛盾こそが,当時の関係者が自らの立場を精確に示すことを困難にしていた。「民族共同体」に賛同しながら,無神論や人種主義に反対を唱えることが不可能に近い時代だったのである。
ペーターゼンが「学校は生活共同体(ゲマインシャフト)の縮図でなければならない。」と言い、提唱したイエナプランだが、このような背景が大きく関係していると思われる。
(www2.ocn.ne.jp/~toda/Giesecke1.htmlより、一部引用)
参考URL
www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/8052/n201.html www.geocities.jp/ururo_0518/gendai.html
りえ
最終更新:2007年03月22日 14:01