富についての考察
現代の金融システムはとても複雑で、私も含めた一般人にとって、とても難しいものとなっているように思える。先物取引やデリバティブと言った金融取引が盛んに行われ、大儲けをしている人たちがたくさんいる半面、大損をしている人たちもたくさんいる。ソロスが仕手戦を仕掛け、アジアの小国の経済が破綻したという話があったが、一個人が莫大なマネーを背景に世界経済に大きな影響を与えた。まさに、巨大化した金融システムが世界経済を動かしているという実感である。お金には魔力がかかっているというのは、私の感想であるが、あながち嘘ではないであろう。多くの人はお金に幻想を抱き、お金のために他人を騙したり、殺人まで犯すということさえある。遺産相続の時は、遺産があるばかりに醜い骨肉の争いが起きたりするのも、お金の魔力に取りつかれた人々の織りなす人間模様を表している。一獲千金を夢見たり、破産によって自殺したりと、お金は人間そのものを変えてしまう強烈な力を持っている。しかし、このような魔力を持つお金の概念で日本経済や世界経済を論じることは、お金の魔力によって曇らされた目で見てしまうことにならないであろうか。実体経済を正しく認識するにはもっと基本的な正しい目で判断できるモデルを作って議論することが必要であるように思えてならない。そこで、単純化したモデルを考えながら、経済の問題を考えてみようと思う。
1.住民100人の島
農業を営んでいる者50人、漁業を営んでいる者50人の小さな島があるとする。島には山や川があり、森には様々な動物たちが生息し、人間たちと共存している。他の産業は一切なく、外の世界とは隔絶した世界であるとしよう。衣服は植物の繊維から作った単純な物を着用し、農業が暇なときに農業従事者が作ってみんなに分け与える。森の木を切り倒して木材をほんの少し加工し、みんなで協力し合って原始的な家を建て、そこに住むという設定にしよう。かなり原始的生活であるが、衣服や家屋の建設にかかる苦労はほとんどない単純化したモデルとする。みんな裸で家もないという設定でもよいが、最小限の文明らきしきものがあるという設定とすることにしよう。農業従事者は米と野菜を栽培し、山には様々な果実(リンゴ、なし、ミカンなど)の木があり、枯れないよう大切にしている。漁業従事者は島の周りの豊富な魚を捕獲している。そして、豊富な食料をみんなで分け合い生活しているとしよう。50人の農業従事者たちは全体で120人分の米と120人分の野菜を生産し、50人の漁業従事者たちは全体で120人分の魚を捕獲し、みんなに分配しあいながら生活している。20人分は余るが、余った食料は森に住む動物たちのエサになったり、貯蔵できるものは貯蔵し、災害時の蓄えとする。果実は食べたい人が自分で摘むが、一人で食べてしまうことはしない島のおきてがあって、大切にされているということにしよう。人により、米が好きな人もいれば魚が好きな人もいるので、互いに話し合いながら、うまく分配されていることにする。一人当たりの米の平均消費量は全体の消費量を100で割った値となるが、それを一人分とし、全体の消費量は100人分というふうに数える。野菜や魚についても同様に考えることとする。果実や衣服、家屋はほとんど手のかからないものと考え、無視できるものと単純化して考えることにする。そうすると、この島で毎年生産される富は、
1年間で生産される富 = 米120人分+野菜120人分+魚120人分
と記述できよう。実際には、一人分の米の量や野菜の量は個人毎の食習慣によってそれぞれ異なっており、米が不作の年は魚を多く食したり、漁業が不振の年は米や野菜の消費が増えたりと、一定ではないであろう。それゆえ、明確に米一人分は何㎏というふうに具体的に決めることは難しいが、平均的に食べる米の量、野菜の量、魚の量というものが、多少の変動はあるもののそれほど大きな変動はないものと考えよう。
さて、野菜や魚は生鮮食品なので、20人分毎年多めに生産しているものの、ほとんど貯蔵できずに森の動物に分け与えている。森の動物はそれゆえ、家畜やペットと同等な存在といえる。それゆえ、森の動物たちは人間たちのペット的存在と考え、人間たちが養う愛玩動物的存在であり、かつ、守るべき自然界の一部でもあると考えることにする。米は保存可能で、5年は貯蔵できるが、それ以上古くなった米は不味くなるので動物たちに分け与えるものとしよう。それでも余った古古米は、のりやアルコール発酵による酒類の製造などに使われるものとする。食べ物だけで考えているので、ほとんどは消費されてしまい、年々増大する富というものは考えられないが、酒類やのりなどは増大する富として考えてもよいかもしれない。しかし、余った酒があれば、そのすべてを飲み尽くす者もいるであろうし、古くなったのりは捨ててしまうであろうと考えると、蓄積される富というものは存在しない。そういうことを考えると、
1年間で生産される富 = 米100人分+貯蔵米20人分+野菜120人分+魚120人分
1年間で消費される富 = 米100人分+古古米(動物のエサ)5人分+野菜120人分+魚120人分+酒(米10人分相当)+のり類(米5人分相当)
と生産される富と消費される富がぴったり一致することになる。
このような社会が豊かな社会と言えるかどうかは、あまりにも原始的な社会なのでなんとも言えないが、人口が増えない限り、また、天変地異やイナゴの大群などによる飢饉が発生しない限りにおいて、とても平和で安定した社会であると言えよう。ところで、備蓄されている富もあるので、それを考えてみよう。
備蓄されている富 = 備蓄米(20人分×5年分)(米100人分相当)+酒(米20人分相当)+のり類(米5人分相当)
と設定できる。かなりいい加減な設定であるが、島のどこかに貯蔵所が作ってあって、そこに貯蔵できるスペースいっぱいに貯蔵してきたとしよう。米が豊作の年はたくさん貯蔵し、不作の年は備蓄米を消費するとすると、年毎に増減はあるものの、平均してある一定量に収まるものと考えることができる。酒をたくさん作ってしまった年は、貯蔵所に保存できなかった分をどこかの大酒飲みが処分すると考えよう。また、のり類も古くなったものはどんどん捨て、常にある一定量の貯蔵を保つようにしていると考えると、備蓄されている富は常に上記の式のようなある一定量を保っておけることになる。1年間で生産される富と1年間で消費される富が同じなら、どうやって備蓄されている富を創生することができるのか、という疑問を持つ人もいるかもしれない。1年間に少しずつ備蓄量を増やしてゆき、貯蔵所のスペースが満杯になった時点で多すぎた分は何らかの形で処分されてきたと考えれば、納得がいくであろうか。または、遠い昔のどこかでは1年間で生産される富が1年間で消費される富よりも多く、その間、備蓄されている富が増大したが、貯蔵所が満杯となった時点で1年間で生産される富と1年間で消費される富が同じになるよう人間たちの知恵で調整してきたと考えてもよい。島中、貯蔵所だらけになっても、管理がたいへんになるだけで、いいことは全くない。必要最小限の量を常に確保しておけばよい。
さて、この社会では生産物を平等に分配しているが、働き者もいれば怠け者もいる。怠け者はグータラしているだけの者もいれば遊びに興じている者もいよう。働き者からすれば、毎日遊び呆けてまったくけしからん、お前たちの生活は我々働き者が支えているのに、感謝の気持ちさえない、と不平等感を持っていることだろう。島の長老が長き古き伝統を守り、島民たちを支配していても、おいしい魚をありがとう、お礼においしいお米と野菜をあげよう、と物々交換の習慣がいずことなく湧きあがり、怠け者には不味い魚と不味いお米と不味い野菜が分配されることになることは容易に想像できる。そのうち目障りな厳しい島の長老がいなくなってしまえば、物々交換の時代が到来し、怠け者は食事さえ満足にできなくなる社会となることは必然かもしれない。
しかし、物々交換社会は物事を複雑化してしまうので、今はまだ考えないことにする。どの時点で物々交換社会を取り入れ、どの時点で貨幣社会へ移行していくのか、どこかでそれを行わなければならないが、今のところ、模索中である。とりあえず、島の長老は、島民全員を自分の家族と考え、平等分配を強力に推進し、代々の島の長老にその考えを伝えていくものとしよう。