新しい国富論の必要性について
1.現代社会を取り巻く状況の変化
現代はモノに溢れ、豊かな社会となっているかのようである。しかし、雇用の面で見ると、産業の空洞化による雇用不足が深刻化し、働きたくても働けない、特に若者の雇用が少ないという状況にある。大手企業における工場の海外移転は従来に増して増加傾向にあり、中国やベトナムへの進出に歯止めがかからない。近年は中小企業の海外移転も増えているという。一国での国富論を展開しただけでは、多国籍企業や海外展開を重視する中小企業や大企業をどう考えるのかたいへん難しい。一国だけの国富論はすでに理論的に破綻していると考えざるを得ないのではないかと思われる。では、どのように国富論を展開すべきなのであろうか。発展途上国への企業群の工場誘致は、その国のGNPを飛躍的に押し上げ、新たな雇用を生み出し、新たな顧客を生み出している。先進国は産業の空洞化が激しいものの、安定した経済を維持しようとして、様々な試みがなされ、失敗と成功を繰り返しながら、なんとか凌いでいると見ることができよう。世界は、昔最善であったものが今は陳腐化し、昔は考えもしなかったことが今では重要となったりしながら、流動的に絶えず変化し続けている。この激動の世界経済の中で、我々はたくましく、強く生き抜いていかなければならない。しかし、国民に強くたくましくなりなさいと言うことはできてもそれを強いることはできない。国民ひとりひとりは皆現実の中で生きるために働き、豊かになろうと皆頑張っている。これ以上何を言うことができるであろうか。国民1人ひとりにもっと頑張れと鼓舞したところで、それは誰でも言えることであり、今の日本に必要なのはそんなことではない。世界がどの方向へ向かっているのか世界情勢をしっかりと見極め、皆がその知識を共有することが何より大切である。
よく話題になるのが、アダム・スミスの「諸国民の富」で言及される「見えざる手」の話である。(神の)見えざる手により、個々に見ると自由な経済活動を個人個人が行っていても、経済は最善の方向に動いていくというものである。そして、このことが新自由主義という経済思想を生み、小さな政府を推進し、公共工事など必要ないという大胆な発想につながっている。しかし、一方では貧富の格差を生み、金融市場主義に陥り、巨大マネーが世界を動かすというとてつもなくいびつな社会が出現してしまった。もちろん、多くの企業にとっては、特に多国籍企業化した大企業にとっては、自由な経済活動を存分に行なうことができ、また、小さな政府で税金も少なくて済むので、まさに願ったり叶ったりの理論ではあった。
しかし、2008年ごろに起こったリーマンショックは暴走した金融市場主義が破綻したのである。個々人の自由な経済活動は必ずしも経済を最善の方向へ導かないことが明らかになったと考えることもできよう。アメリカ政府は事態の収拾を図るため、莫大な資金投入を今も行っている。
現代は資本主義社会全盛の時代である。大きな政府で社会保障を充実させるか、小さな政府で自由経済を優先させるべきか、世界は一進一退をくりかえしている。巨大企業が利益追求のため、人件費の安い発展途上国に工場を建設するのは、自由経済の中では当然と言える。利益追求をしない企業などないからである。そして、その結果として、発展途上国は急激に経済発展し、その国民の生活水準も急激に様変わりし、先進国の水準に近付いている。自由な経済活動の結果として、世界中の国々の経済が先進国と肩を並べようと急激に発展している。まさに、神の見えざる手により、世界中の人々が平等になろうとしているように見える。
この平等化の流れは、均一化と言うこともできよう。まるで、エントロピーの増大法則のように富が分散し、世界的均一化現象が起きていると考えることもできる。しかし、一方では貧富の格差も大きくなり、富の集中も起きている。前者は地球全体を覆う規模の空間では富の分散が起きつつも、後者では、小さな地域の中つまり小さな空間では逆に富の集中が起きていると言えよう。自由経済は競争社会であるから、個々人で勝ち負けがあるのは当然で、貧富の格差が生じるのは必然である。
大胆な規制緩和は自由競争に拍車をかけ、ある面、経済の活性化が起きると言えなくもないが、過当競争により倒産する会社もまた続出することにもなる。社会の発展に寄与する規制緩和ならばよいが、必要な規制もあるであろう。新自由主義者と見られる人々を中心に規制緩和を大合唱しているようであるが、ひとつひとつ丹念に精査するべきであろう。何事も「過ぎたるは、なお及ばざるが如し」である。新自由主義の考えがすべて間違いとは思わないが、行き過ぎた理論や考えは、考えが不足していることよりもなお始末が悪いかもしれない。
2.新たな市場を求めて
1で述べたように、多国籍企業群がより安い労働市場を求めて発展途上国へ工場を移転することにより、そこの経済発展が著しく成長し、関連産業が発展しながらその国の国民の生活が潤うようになり、裕福な人々も生まれ、様々な商品を世界中から購入できるような新しい市場が生まれることになる。企業はこの新興市場に目を付け、様々な商品を売ることで儲けようとまた商品販売展開を大々的に行うようになる。このことをどう考えようか。何もないところに、企業が工場を作り、その周辺の人々の暮らしを裕福にしながら、その人々が新たな市場となって企業の商品を買う。突然、富が何もないところに発生したようである。しかし、そんな馬鹿な話はない。今まで先進国に世界中の富が集中していたのが、発展途上国に富が移動しただけと考えれば納得いくかもしれない。そもそも富とは何かを厳密に定義していないので、気分的に言葉を使っているが、先進国の富が発展途上国へと流れる回路ができてしまったと考えてもよさそうである。つまり、先進国から発展途上国への富の再分配が起きていると考えられる。そして、それによって、世界経済は新たな方向へ向かって発展していると考えられる。(昔イギリスが植民地支配していたインドにおいては、富がイギリスへと流れる回路があったが、今はそのようなことができないように世界的民主化が進んでいる。)
世界的に国レベルの格差がなくなる方向に、自由主義経済における「見えざる手」により、富の再分配が起きていると言えるが、個人の貧富の格差は増大する一方である。アメリカのビル・ゲーツに代表されるような億万長者が少数ではあるが世界中にかなり存在している。はっきり言って一生かかって贅沢三昧してもなくなることがないほどの途方もない富の所有者達である。どの道使いきれないお金なら、みんなで使ってあげようと思うが、貧しい人たちに寄付をするなどの慈善事業に積極的にならなければならない人たちである。しかし、それでも膨大な富が一個人に集中し、本人にもどうにもならない。アメリカFRB(アメリカ連邦準備制度理事会)はリーマンショック以降莫大なドルの資金投入を行っている。それにより、ドルの流通量は膨大になり、ドルの為替レートは低下の一途であった。これにより何が起きているのか、ドルベースの莫大な資産はドルの下落とともにその価値が下落したことになる。つまり、集中した富が再分配され、アメリカ国民に富が分配されたと見ることができる。ある意味、新自由主義的考えで自由主義経済が動いているとしても、中央銀行の金融政策で富の再配分を起こすことができる。そして、それによって、貧しかった人々に富が配分されることにより、これまで市場とは言えなかった貧しい人々の集団が裕福になることで新たな市場が発生することになる。神の見えざる手により発展途上国に富が再分配されたことと同様に、中央銀行の人為的金融政策で富がまた貧しい人々に再分配される。この両者のバランスにより、外需と内需を喚起できることになるであろう。はて、日本における日銀の役割はどうであろうか?少し気がかりなことは、日銀の金融政策で富の再配分がなされるとしても、国際的には日本国内の億万長者の人数が少なすぎることである。富裕層がどれほどいるのかであるが、世界長者番付の中に日本人の名前がなかなかでてこないことは、分配できる富の量が少ない可能性が高い。多くの日本人富裕層が海外に移転しドルベースで資産運用を行っていることや、日本の一流企業と称される多国籍企業が海外に資産を移して、円以外の通貨で資産運用している現実がある。彼らの場合、円が高騰しようと暴落しようと何の影響のないよう防衛策を講じている。やはり、円ベースの資産を増やすよう何らかの対策が必要と思われる。
企業の社長、特に大企業の社長は、社会における企業を目指さなければならない責任があると私は思う。発展途上国に拠点を移すことは、新たな市場を作るという自負とともに、外需を拡大するために貢献するという責任も伴う。日本の商品を買ってもらうには、人間として正しいことを常に心がける努力をしていく必要もあるであろう。日本企業のイメージアップを図りながら、友人国日本のイメージ作りも率先してやっていってほしいと思う。また、内需に目を向ければ、産業の空洞化による雇用不足と平均賃金の低下は、内需の冷え込みを伴うことになる。貧乏な人々を救うための手立てをしっかりと考えてほしい。多くの人が裕福になれば、それだけ内需が拡大することになり、新たな市場開拓となるであろう。