新しい国富論の必要性について②
3.仕事の減少とパラダイムシフト
先進国における産業の空洞化は、その国の雇用不足を招くのは当然である。しかし、昨今の雇用不足はそれだけが原因ではないような気がしている。コンピュータの登場により情報化社会が到来し、インターネットの普及により仕事の形態が大きく変化した。コンピュータを操作する仕事が増え、コンピュータを管理する業務が急速に増大してきた。昔ながらの仕事の形態は影をひそめ、仕事そのものの大きなパラダイムシフトが起きてきたと言えるであろう。そして今日、また大きなパラダイムシフトが起きようとしている。コンピュータソフトウェアの急速な発展によって、仕事の効率化がさらに一段と向上し、人間がコンピュータを管理するのではなく、人間を管理するコンピュータプログラムが出現し、作業効率を向上させている。イギリスにおけるアマゾンドットコムの仕事内容に対するある論評「貧しくなる資本主義 アマゾンの人間オートメーション」は、ある意味ショッキングな内容である。単純なロボットと化した人間をコンピュータが操作し、効率を上げていると言う。人間は考えなくていい、考えるのはコンピュータであるというわけである。今日の高度化したコンピュータシステムは、ある程度の高い知能を持つ人間よりも優れているということになる。そのうち、IQ200以下の人間はコンピュータの指示に従いなさいと言う時代が来るのかも知れない。
ロボット産業は日本は盛んである。特に産業用ロボットの開発は世界的であろう。人間を雇うよりロボットを購入した方がメリットがあるのならば、多くの企業はロボットを導入することになるであろう。ますます人々の雇用は減ることになり、雇用不足は深刻となっていくことになる。他の産業の中で、サービス業があるが、ここでもコンピュータ化の波は大きい。教育サービス分野においては、教育そのものがコンピュータ化されつつある現状がある。まだ、教育システムが不十分な働きしかしない状況なので、専門の教師が必要であり、人間の仕事が必要とされている。しかし、教育ロボットが登場し、教師はいらないということになれば、教育界は大騒ぎとなるであろう。
人間とそっくりのロボットが開発され話題となっていたが、接客用ロボットが開発されるのも時間の問題かもしれない。そうなると、喫茶店やガソリンスタンドで人間そっくりのロボットが活躍するようになるかもしれない。サービス業全般においても、どこかの未来において、人々の雇用がなくなっていくことになる。
そもそも、コンピュータの導入により仕事の効率化が行われてきた。仕事の効率が上がるということは、雇用する人間の人数は少なくて済むということになる。また、大量生産の工場が世界中にでき、あっという間に世界中の何十億という人々に大量の商品を届けることができるようになってきた。モノが溢れ、インターネットにより流行が世界中に共有されるようになり、売れる商品はあっという間に世界中に伝わり、大量生産して届けられるような状況になっていると言えるであろう。多くの人々の生活に必要な様々な製品は、コンピュータや産業用ロボットによって高効率化した工場で大量生産され、世界中に配送されることになる。その結果として、企業はますます高効率の利益追求企業になり、雇用はますます減少していくことになるであろう。このような大量生産の時代に、逆に少数の付加価値の高い商品を開発することは、少数の高額所得者やマニアを他と差別化することで満足させるモノになっていくであろう。また、差別化された高付加価値のサービスなども特権階級を満足させるモノになっていくのかもしれない。
今世界は、ますます競争社会へとなっているが、国の枠を超えた多国籍企業達が利益追求を繰り返し、発展しているように見える。企業に多額の税金を課そうとすると、するりと掻い潜って税金の安い他国へと逃げてしまう。貧富の格差解消の問題は、今や一国では解決できず、全世界の国が協力し合う形でしか解決できないのかもしれない。しかし、ただの一国でも「どうぞ、わが国では法人税は安いですよ。労働者の賃金も安いですよ。」という国が現れたら、多くの多国籍企業はそこに向かうであろう。
4.富の再分配による新たな雇用の創出
多国籍企業の問題はさて置くとして、多くの人が納得するような富の再分配を考えてみよう。日本の中央銀行による通貨の大量供給は、長期国債の市場からの間接購入の形で行われている。国債は政府が発行するものであり、政府は国債を売って得たお金を財源として、様々な政策を行う。公共工事などが主であるようではあるが、子育て支援、高齢者の医療補助や介護、様々な学問分野の研究資金、生活保護の充実、教育助成などやるべきことはたくさんある。国民全体の社会保障やベンチャービジネスに対する資金援助と失敗した時のセイフティーネットなども充実させるべきであろう。一度失敗したらあとは地獄では果敢に新しいことに挑戦できない。政府は儲ける必要はないのである。様々な国民一人ひとりの可能性を後押しし、何度でもやり直しができるよう支援してあげるのが好ましい。
大量の通貨を供給することは、通貨の価値を下落させることにつながる。政府の公共工事などを通して貧困層や一般庶民にお金が回り、富裕層の円ベースの資産価値が減っていくことなり、富の再配分が起きることになる。富裕層の資産価値が高ければ、通貨の国際的評価はなかなか落ちない。しかし、富裕層の資産価値が低ければ、インフレが起き、日本という国の経済は沈滞するかもしれない。今、アメリカやヨーロッパでは金融緩和を継続的に行い、大量の通貨を供給し続けている。そのため、円を供給してもなかなか通貨の国際的価値が下がらない状況である。世界中の国々が通貨を同じ割合で供給し続ければ、為替レートはほとんど変わらないことになる。何が変わるかというと、富裕層から低所得者層への富の再分配が世界的規模で常に行われることになる。
しかし、貧富の格差はある程度必要であろう。そうしなければ、誰も仕事をしなくなる。仕事をしなくても生きていけるからである。仕事に成功して高額所得者となったもののみが得られる余得がなければ、頑張る気概が持てない。ここが難しいところであろう。あまりに充実した生活保障を行えば、日本は国際競争に負けてしまうことになる。アジア諸国間の熾烈な経済戦争を勝ち抜き生きていかなければならない。政府は微妙なさじ加減を駆使して、国民にやる気を持たせながら、貧困をなくし、社会保障を充実させていかなければならない。
仕事そのものがなくなってきている現在、運良くいい仕事が得られた人達は、言わば勝ち組と称せられる。しかし、多くの人は負け組と称せられ、厳しい社会生活を強いられる。「年収100万円だけど、多くの友人を持ち、私は幸せな生活を過ごしている。」という話があるが、負け組と称せられる人々の数が圧倒的に増えたため、同じ状況の仲間が互いに寄り添って楽しく生きていこうとしているように見える。また、逆に金権主義に対するアンチテーゼでもある。「お金がすべてではない。幸せはお金では買えない。お金がなくとも幸せになれる。」ということを社会にアピールし、今や多数になった負け組に存在意義を与えようとしているようにも見える。しかし、年収100万円はやはり、厳しい。とてもまともな生活ができるとは思えない。
人間の存在意義とはどういうものであろうか。自分は社会に必要とされていると思うか、社会に必要とされていないと思うのか。日本における自殺者の数は多い。幾度の困難に挫折し、自ら命を絶ってしまう。社会から必要とされていると思うことが大切なのであろうか?何か存在意義を与えなければ生きていけないのであろうか?この問題は宗教や思想とも関わってくるので、ここで深く追求するつもりはないが、仕事不足による生活苦の問題が大きな原因のように思える。
ならば、社会に必要とされる仕事を作ればよいのではなかろうか。多くの人は友を欲し、楽しく語り合う空間を欲している。また、共に困難に立ち向かう仲間を欲している。すべての人に何らかの役割分担が回ってくるようなコミュニティー、運命共同体を作り、そこに新しい雇用を創出するのである。しかし、一部の地域のためだけのモノではない何かであり、ある意味社会のために役立つ何かである。そして、多くの人が必要と納得できるものでなければならない。この新しい雇用は一般の企業とは異なり、利益追求が目的ではない。社会に役立つ何かである。今のところまだぼんやりしていて形をなしていないが、富の再分配を行うための名目として、多くの国民が参加できる雇用であり、多くの国民が賛同できる仕事でなければならない。再分配される側の富裕層も賛同できることが大切である。自分は社会から必要とされているという思いを実感させ、そこそこの給料を貰いながら、社会に参加する形の雇用、人と人を区別しない、貧しい者、裕福な者が一緒になって共同作業を行えるような何か、である。