新しい国富論の必要性について③

5.数年後の未来と数十年後の未来

 ほとんどの人々は漠然と生活が豊かになればよいと考えていることであろう。我々の生活を豊かにするためにはどうしたらよいか、そのために 政治家や政府に頑張ってもらいたいと多くの国民は考えているであろう。たいへん当たり前の話であるが、こんなことは、世界中のどの国でも考えていることであり、ほんとうに当たり前の話である。「我々は国民の生活を豊かにします。是非我々に清き一票を」という選挙演説は何百年も前から多くの人が言ってきたことであり、これ自身何の意味もない。我々が求めているのは方法論であり、空虚にしか聞こえない「豊かにします」という意思表示ではない。いったいどのようにして我々の生活を豊かにしてくれるのか、その方法論が今問われている。
 恐らく、日本の将来あるべき姿を多くの人たちが想像していることと思うが、その将来像は同じではないであろう。まったく正反対の将来像を想像しながら政治活動を行っている人たちもいるであろう。つまり、統一されていない将来像に向かって、あるところでは右に、あるところでは左へと、皆、「国民の生活を豊かにする」ためにしていると言いながら、結果的に「国民の生活を貧しくする」ために動いてしまっているのではないであろうか。今回、アベノミクスで、日本経済のある一面の将来像が一つになり、ブレない政策が行われている。これこそ、「国民の生活を豊かにする」ために政策を行い、結果的に「国民の生活を豊かにする」ために動いていると言える。多くの国民が日本の将来像を共有し、そのためにブレない政策を行っていくことがいかに大切か、今回のアベノミクスは語っているように思われる。
 日本の将来像は、近未来か、遠い将来か、様々な将来像があり、国策も数年で完了するものから数十年かかるものまである。一概に日本の将来像を語ることはできない。あまり遠い将来像は予測困難であり、単なる夢でしかないとなるかもしれないが、様々な夢があっていいと思う。夢のような遠い将来の世界観を語りあい、どういう世界が望ましいのか、多くの人々の共通認識を共有するのが良いであろう。おそらくぼんやりであるが「こういう世界だったらいいなあ。」程度のものでかまわない。数年先、数十年先、数百年先の日本の理想的将来像を語り合い、知識を共有することが大切である。
 数年先の未来は、過去から現在までの過程の将来への外挿の形で、数学的、機械的に、予測することができる。あまり人々の恣意的な考えは入り込めない部分が多く、かなり確実な未来予測を立てることができるであろう。この未来予測と多くの国民が求めている将来像が異なっていたら、政府や政治家は新しい政策や方法論を国民に提示し、政策変更を行っていくことになるであろう。しかし、国民や政府さらに政治家の思い描いている将来像がまったく異なり、多くの人々に共有されていない場合、政治は乱れ、多くの国民が求めていない結果へと社会は動いていくことになる。政治家や学者およびマスコミなどが協力し合い、日本の理想的将来像の国民的コンセンサスが得られるよう、開かれた場で十分議論していくことが必要である。新しい国富論は大多数の国民が理想的将来像を知識として共有することから始まり、展開されるであろう。

6.我々の近未来社会における理想的将来像の合理的選択

 我々は、様々な理想社会を夢見ることができる。ある者は、科学技術を捨て農耕社会への回帰を求める。またある者は、科学技術の発展を願い、ロボットを奴隷のように使い、神のごとく振る舞える社会を求める。はたまたある者は、スリルとサスペンスに満ちた冒険を求め、遠い世界(宇宙)へと心を躍らせる。それぞれ理想とする社会は異なっていよう。しかし、我々人類が辿ってきた歴史からほぼ必然と思われる将来像がある。それは科学技術の発展である。これを止めることはできない。人間は知恵を求め、神のように振る舞える力を求めてきた。ロボットを奴隷のように使える社会が到来するかどうかはわからないが、確実にその方向へ世界は進んでいる。もしロボットに高度に発達した知能を持たせた場合、ロボットの反乱が起きるかもしれない。人類はロボットに滅ぼされてしまうかもしれない。そのようなことを警鐘する小説や映画がずいぶん昔から作られているが、近年それが現実味を帯びてきたように感じている。高度な知能を持つ人工知能の開発はまだ先のようではあるが、着実に近づいている。
 あまりにも現実からかけ離れた理想的将来像を国民的合意に選択することは、世界の趨勢から遅れることになり、国益を損なうことになる。正確な世界の将来予測を立て、世界の趨勢に遅れることなく、国益に叶う将来ビジョンを考えることが必要であろう。そうすると、近未来の将来像はかなり限定されることになる。一部、科学文明を捨て農耕社会への回帰を求める集団があるとしても、それを理想的将来像とすることはできないであろう。
 コンピュータCPUの集積度はムーアの法則で指数関数的増大を現在も続けている。ほとんど恣意的な部分がない形で、多少の誤差はあるが、5、6年後のコンピュータの性能を予測できる。数十年後のコンピュータの性能となると、誤差が大きく、予測とは言えなくなるであろうが、現在のレベルをはるかに超えたコンピュータが出現していることは確かである。科学技術の発展はある程度予測可能なのであり、望むと望まないに関わらず、世界はその方向へ向かっている。エネルギー問題もかなり予測可能である。石油や石炭の埋蔵量や採掘の難易度の上昇率から、流通価格の上昇率がある程度計算できるであろうし、水力発電や風力発電および太陽光発電などの将来予測をある程度立てることができる。そして、今後どの領域に重点を置いたらよいかを判断することができる。様々な企業の思惑を乗せた将来予測を立てるのは誤った結果を導く可能性が高い。純粋に科学的に将来予測を立てなければならない。多くの大学や研究機関が企業からの資金援助を受けていることが多いので、科学的に正しい将来予測を立てるのは難しいかもしれない。できればどの企業からも資金援助されない、中立の立場で純粋に科学的に調査・解析できる機関で将来予測を立てることが望ましい。

新しい国富論の必要性について④

最終更新:2013年06月18日 10:58