フレーム議論についての初心者的疑問

フレームという概念これを少し学びました。

家には窓があり窓には鍵がある。
こういうフレームシステムは常識的です。
では非常識に、家には巨大な鍵があり、鍵には窓が付いている。

そんなものだっていつか登場するかもしれません。
何故なら想像できるものは存在できるものですから。

鍵に窓が付くというのはバッカスナウア記法的な文章の生成です。
バッカスナウア記法で記述できるもの。
これが存在できるもの全てを表現できるかは無学な私には不明です。

窓に人という属性は入りません。
人間は窓の材料や一部にはなりえません。

巨大な2重ガラス窓の隙間に人が住むことだって理論上は空想は可能です。
そして空想できるものは存在しえます。
2重ガラスが大きくなれば通路になるかもしれません。

人間を窓の一部の構成材料にすることは狂人的ですが、動物のホルマリン漬けを窓の構成材料にすることは同じく気味の悪い芸術家的であっても想像は可能です。
この時、窓の属性に動物の死骸が含まれることはできますが、常識的なフレームシステムでは採用されないでしょう。
しかし可能性としては有り、その窓の属性となるものの可能性は無限にあり得るのです。

とするならば、フレームシステムや意味ネットワークというのは常識という名の偏見を顕在化させているだけではないのか。
という疑問がフレーム理論勉強の初心者である私の脳裏に浮かぶわけであります。
もちろん、フレームとは実用品でもありますから、実用に耐えればよいという視点もあると思います。

私の疑問は単なる思考実験にすぎず非現実的です。
ですが、フレームシステムに関する初心者なりの疑問がこのように浮かんだ次第です。
最終更新:2016年09月09日 03:57