非リア充は努力そのものに価値があると考え、他人の努力を馬鹿にできない。
リア充はその努力はそもそも努力する価値があるのかというところからアプローチする。
自分の努力であれ他人の努力であれ人生によい結果をもたらす努力を称賛し実行しそうでない努力には関心を持たない。
この非リア充の利他性とリア充の利己性の差がリア充と非リアをわけるのではないかと仮説を立ててみる。
別のアプローチもあるだろう。
唯々利己的な人間は日本社会では受け入れられない。
リア充も利他的になるべき時となるべきでない時に何らかの基準があるはずだ。
それはなんだろうか?
その前に少し考えてみたい。
リア充は他人の努力を馬鹿にできるが非リア充は他人を馬鹿にできない。
他人を馬鹿したり上から目線で笑いものにするという行為は、数学的に言えば他人への評価関数であり、人生にとって良いを+評価、悪いをマイナス評価とすれば笑いものにすることは、評価関数はプラスとマイナス両方をもった適切な評価関数である。
非リア充は、他人の悪口を言うと、悪口を言われた本人がそれを聞いたらどれだけ傷つくかと想像してしまい、悪口を言ったことで大きな精神的ダメージを受けてしまう。
だから非リア充はマイナス評価のない不完全な評価関数となってしまうのである。
そのため歪になってしまう。
他人を馬鹿にできることは褒められたことではないが、個人一人のレベルで考えるとそれは個人が適切な価値観を獲得するための大切な一部なのである。
努力については、40歳以上と以下で分岐点がある。
40歳以上は社会や世間が何を努力すればいいかを用意してくれたのでがむしゃらに努力すればよい世代だった。
だから40歳以上では努力は無条件に良いものである。
40歳以下では社会がそれを用意できない社会になったので、何を努力すべきかを自己模索しなくてはいけなくなった。
そのため何を努力すべきかをきちんと考えられる人はリア充となり、考えられずとにかく努力すればいいんだという人は非リア充になりやすい。
最終更新:2016年11月29日 20:45