禅について少しだけ本を読んだ

少しだけ禅の本を読んで感じたことを私なりに書くと。

まず、禅とは古代の人がより集めた思考体系なので現代人の感性や感覚と会わないところがたくさんあることを理解すべき。
現代人から見て異常、頭がおかしい、見当はずれに思えても当時の人たちが必死で作り上げた体系なのでそれをそのまま尊重することが大事。

禅とは、インド的仏教が中国に入った時、思弁的抽象的だったインド哲学の流れをくむインド仏教にたいし、怪力乱神を語らず、実務主義だった中国人が、仏教のインド的側面を否定した結果でてきた仏教の一分野。
ために悟り、仏、仏法はその重要性がインド仏教の時と比べ大きく低下している。


禅の目的は知識を捨てること。
知識とはゆがんだメガネのような存在だと禅では考えられている。
そのため眼鏡を捨て、自分の眼(まなこ)で見よと語る。


知識と自己の間にある乖離、そこから生み出される齟齬が人の面白さを生み出すが、また知識に操られたり、知識と私の隙間から様々な問題や誤った認識や思考も生み出す。
知識を一度捨て齟齬がない所からやりなおすことを禅は目的とする。

情報化社会は知識が人を支配している面もある事を考えると
禅は現代においてこそ再興すべき思想なのは確かだと思う。


仏とは仏法とは実在の究極とは空とは何かと弟子が問う。
弟子の心の中に仏や仏法や空や究極の実在が育っていたならこの答えは弟子自身の中にある。
でないなら教えても無駄だ。
禅はどうもそう考えるらしい。




仏は私という宇宙に偶々存在してないだけという意味で非存在であり。
蚤は現実に存在しているかつ私という宇宙に概念として存在しているという意味で尊さがある。
そして両者は尊いということでは同じである。

何故尊いのか。

蚤という概念や血を吸われた体験等は私の一部であり私自身だ。
仏というものが私の中に現れたとしてそれは私の一部であり私自身である。
その私ということにおいて両者に差はない。
私と私の概念や記憶が一体化したところに禅の第一歩がある。
そして私にはこの道はとても険しそうに見える。

顕在化してないというだけで仏も悟りも法も宇宙創世期から存在している
大きな岩の中にダビデ像が顕在化する余地があるという意味で存在している
私という人間には、仏も悟りも法も顕在化していないし私という宇宙でしか顕在化しないし、私という宇宙に仏が存在しない限り意味がない
そして仏も蚤も同格。

禅にとって大事なことは、周囲の人と仲良くしたり、おいしいご飯を食べたり、ゴミをちゃんと分別することだ。
禅の実践は私には難しいものだ。

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最終更新:2017年05月05日 16:16