第二話『終わりの始まり STAGE2』
黙々と――。
黙々と、シンと青年は日差しも入らぬ暗い森を進む。
森は人の手が入っていないようで、とても足場が良いとは言えない。そんな道を、
前を歩く青年は慣れた軽やかな足取りで進んでいる。
その後にシンも続く。青年の忠告通りに、息は抑えている。
自分たちがいるこの場所は『魔法の森』と呼ばれているらしい。なるほど、と森に
入ってシンは納得した。
薄暗くじめじめとした湿気と、所々をカラフルな色で飾るキノコ。確かにこんな森に
はぐつぐつと煮える釜を掻き混ぜてそうな魔女が一人くらいは住んでいそうだ。
そして湿気と共にまとわり付いてくるこの不快な“違和感”に、まるでこちらを観察
しているような視線が集まってくるような錯覚を覚える。こんな場所にずっといると
頭がおかしくなってしまいそうだ。
(どうなってるんだよ、本当に……)
こんなにも“違和感”に満ちた場所があるだろうか。いや無い。直感だがはっきりと
そう言える。例え環境汚染された森でもこんな“違和感”を感じさせる場所はないだ
ろう――と思う。自分はそんな所に行ったことはないのだけれど。
いや、むしろ――
(……そっか、逆なんだ)
この森はあまりに自然が豊かだ。きっと汚染された森ではこうはならないだろう。自然
が濃かったからこそ、この“違和感”も集まっているのか。
(て、意味分からないし……)
一体自分は何を考えているのか。シンは考えを振り払うように頭を振った。目の前の
青年に影響されてしまったのだろうか。もしかすると自分は彼の話を信じかけているの
かもしれない。
(……まさか。ある訳ないだろ。“幻想郷”だなんて……)
ニホンのどこかにある、幻想郷という世界。ニホンという国にあると言う時点で
そんな場所が存在しているはずがないのだ。自分が生まれるよりももっと昔に、
ニホンは解体されて無くなっているのだから。
(でも、それじゃあんなに感じていた“ズレ”がなんで――)
その時だった。
「とっ…」
シンの右足が木の根に躓いた。それだけなら問題は無かった。咄嗟に跳ねる様に左足
を前に出して態勢を保とうとしたが、だがそこは特に足場が悪かった。
べちゃり。そんな靴の底が泥に沈み込む感触が左足の裏に伝わると、そのまま勝手に
左足が後方へ移動する。げっ、とシンは内心で失敗を悟ったが後の祭り。
案の定、左足は勢い良く後方に投げ出され、シンは前のめりに水気のある地面に倒れ
てしまった。
「うわ…」
腹部からじんわりと染みてくる冷たい感触にシンは顔をしかめる。覚悟はしていたが
実に気持ち悪い。
悪態をつきながら顔を上げるとこちらへ振り返っていた青年と目が合った。
「…………」
「…………」
青年と見つめ合う形になって数瞬。すぐ立ち上がれば良かったのだと気が付いた時に
はすっかりタイミングを逃してしまっていた。
なんとなく気まずくなってきたシンに対し、青年はおもむろに口を開く。
「立たないのかい?」
「いや、立つけど……」
そんな青年の物言いに、シンは釈然としないものを感じながら憮然とした顔で立ち
上がる。
服は見事に泥水で黒く汚れていた。別に愛着があった訳ではないが、なんだかやるせ
ない気持ちにさせられた。
とりあえず服に付着した泥を手で叩いて落としてみるが、当然黒ずんだ汚れには効果
はない。叩いた手も真っ黒になり、やるせなさに拍車が掛かる。
(ああもうっ、一張羅なのに……)
元々服装にそれほどこだわりを持たないシンはそう服を持っていたわけでもない。
その他の服も他の私物と一緒に地上に降りるまでに全て処分してきた――あの娘から
貰った貝殻はもちろん別だが。
言わば今のシンは着のみ着のままの状態だった。
元々ここで泥で汚れる以前に砂ぼこりや砂利で汚れていたが、それでも唯一自分の
持ち物がこんな有様になってしまうと自分がとても惨めに思えた。
(今さらだけどさ……)
「何をしているんだい? 立ったのなら早く行こう」
「……………そーですねー!」
だからってアンタはちょっとは気にしてくれよ!
内心八つ当たり気味に――事実八つ当たりそのものだが、シンは青年に投げやりに
返事をした。
目の前を進む青年が変わり者だというのは話していて分かっているもりだが、どうにも
愛想が悪い。自分も人のことは言えないが、これで客商売ができているのだろうか。
(レイでも、大丈夫か? くらいは言うところなのに)
思い浮ぶのは無表情な親友の顔。
彼は普段から何を考えているか分からないやつだったが、それでも他人への気遣いは
あるやつだったし、それに普段は冷静なくせに激しやすい面もあり、なんだかんだで感情
豊かでもあった。
(………レイ)
親友の顔をきっかけに、思考が内へと沈む。
お前は、今の俺を見てどう思う? 議長と共に未来を作れって、そう言って未来を
託してくれたのに、結局負けて全部台無しにしてしまった俺を。
腑甲斐ないと怒るだろうか。それとも悲しむだろうか。
今まで何度も繰り返し投げ掛け続けた疑問。だが記憶の中にいる親友から答えは返っ
てこない。返るはずもない。
「…………?」
自己嫌悪に陥りかけたシンだったが、奇妙な感覚を覚えた事で意識が外に向いた。
今まで嫌というほど感じた“ズレ”とは違う、しかしよく似た感覚。だが辺りを見回し
てもおかしなところはなく、入った時よりも多少暗くなった程度の森林が真っ暗闇に
なって――
「て、暗すぎだろ!?」
後ろへと振り返り、前後を確認してみる。
シンたちが通ってきた後方は薄暗く足場の悪い森が広がっている。しかし薄暗いとは
言っても陽の光が射さないだけで足下が見えないという程ではない。しかし前方に目を
向けて見ればある程度離れた位置を境に一面真っ暗闇となっていた。というより真っ黒
だ。まるで光も通さない黒いカーテンを掛けたように、木々も全て黒い壁の中に飲み込
まれて黒一色に染まっている。
「おい、なんか変じゃないか!?」
いつの間にか立ち止まっていた青年に声を掛ける。青年は眼鏡の位置を人差し指で
くいっと上げるとぽつりと呟いた。
「まずいな……ルーミアだ」
「ルーミア……?」
「闇を操る妖怪だよ。闇を纏って飛ぶ姿は遠くから見れば真っ黒な球体に見えると聞いて
いたけど……今日はやけに気合いが入ってるな。こんなに大きく闇を広げているなんて」
「妖怪って……」
青年は頭上を見上げる。シンも視線を追ってみるが、そこにあるのは空を隠す森の木々
と、その視界に映る半分を塗り潰す黒しか見ることはできず、青年の言う妖怪の姿など
見えない。
妖怪。そう青年は言った。何度か青年が口にしているのを聞いてはいたが、シンは本気
になどしてはいなかった。この違和感に満ちた森を見ても未だ半信半疑だったのだ。
(でもこんな……まさか、本当に‘ここ’は……!?)
闇の壁に目を凝らしてみる。青年は‘闇を纏って’いると言っていたが、闇の中身は
何も見えない。これでは飲み込まれていった木々が中でどうなっているのか分からない。
だが闇は狼狽えるシンに構わずどんどん草木を飲み込んで近づいてくる。
「なあどうするんだよ!?」
目の前で微動だにしない青年の肩を掴みこちらへ引き寄せようとするが、青年は動こう
としなかった。代わりに首だけをこちらに向けると慌てることもなく冷静に言ってくる。
「まだ見つかったわけじゃない、慌てなくていい。むしろこの森を無闇に走り回る方が
危険だよ。僕はここには慣れているけど、君はそうじゃないだろう。一先ずはこのまま
ルーミアが通り過ぎるのを待とう」
「いや、でもあの中……」
「大丈夫だ。あの闇の中ではルーミア自身も何も見えていないんじゃないかともっぱら
の噂だ」
「……は?」
なんだよその間抜けな話は。
思わず拍子抜けしてしまうシンに青年は続けた。
「それより君、もう普通に息してないか?」
「え……」
はたとシンが気付いたのと同時に、二人は闇の中に飲み込まれた。視界が黒一色に塗り
潰され、目の前にいたはずの青年の姿がまったく見えなくなる。
「おい…!」
思わず傍にいるはずの青年に声を掛ける。青年の声は一拍も遅れずに返ってきた。
「しっ! 静かにッ……!」
暗闇で見えないが人差し指を口に付けているのだろうか。そんな青年の姿が思い浮かび
ながら、シンは口を閉じる。まるで夜に目をつぶったように何も見えない。だが木々や
草の擦れる音は微かに耳に入る。どうやら音は普通に聞こえるようだ。当たり前と言えば
当たり前だが。
(……ルーミア、て言ったけ)
闇を操る妖怪だと、青年は言った。妖怪と聞いて思い浮べるのは吸血鬼や狼男のように
映画で観たような怪物だろうか。確かにこれほど深い闇の中であんなのに襲われれば一溜
まりもないだろう。
シンはしゃがみこみながら、いつでもその場から跳び退けられるように待機する。いざ
となれば応戦できるように感覚を研ぎ澄ませながら、冷静に状況を分析する。視界には
何も見えない。これでは急所を一撃で仕留めるのは不可能だ。それ以前にそもそも相手
がどんな姿をして、どんな身体の構造をしているのかも分からない。しかも武器になる
ような物も持っていない。無手による白兵戦の訓練は受けてはいるが、それはあくまで
対人用。姿かたちも知らない妖怪相手にどこまで通用するだろうか。
そこまで考えて、シンは苦笑した。結局のところ、どれだけ遺伝子を操作して肉体を
強化しようが、自分たちは素手では野犬すら倒せないのだ。
自分たちを進化した人間だと語る人はいたが、どうせなそれくらいは強くなってから
言えばいいのに。そう思うとシンは苦笑せずにはいられなかった。
(……いいさ。やるっていうならやってやる)
元よりシンは助かるつもりはない。だがすぐ近くにいるであろう青年だけは何として
でも逃がさなければならない。どうせ捨てる命なのだ。誰かを守って死ねるのならそちら
の方が良いに決まっている。むしろ願ってもない死に場所だ。
覚悟を固め、シンはただ事態を見守る。だが、その時――
――シン。
(……え?)
何の前触れもなく聞こえた声に、シンの集中が途切れた。自分の悪いクセだと自覚し
ている。戦っている最中に相手が声を投げ掛けてくるとつい耳を傾けてしまう。それが
戦場では命取りだと分かっていながら、実際それで何度も危機に陥ったというのに。
だが今の声は、今の声だけは、シンにとって無視する事などできない声だった。
(まさか、そんなわけ無い!)
辺りを見回すがやはり暗闇で何も見えない。それでもシンは必死に声の主を探す。有り
得るはずが無い。そう否定しながら、探さずにはいられなかった。
――シン。
「っ!!」
いた。
暗闇の中でいながら、はっきりと姿を見ることができた。
かつては自分も着ていた赤い軍服に身を包んだ、長い金髪の美男子。普段から何を
考えているか分からない無表情で、それでもやはり感情を押し殺したような目をした、
彼。
レイ・ザ・バレルが、そこにいた。
「レ…イ……?」
信じられない思いで、シンは親友を凝視する。あまりの事にシンの頭の中は先程まで
の覚悟も吹き飛び、真っ白になっていた。
「な、なんで……」
「なんだ、どうしたんだ?」
すぐ傍にいるはずの青年がシンの動揺を感じ取り声を掛けてきたが、もはやシンの耳
には届かない。シンの意識は完全にレイへと向いていた。
ふらつきながらもレイへ手を伸ばすシン。だがレイはその手を取らず、むしろ背を向け
て去っていく。
「ま、待って!」
遠退いていく親友の背中に居ても立っても居られず、シンはレイの後を追って駆け出
した。視界は変わらず不可視の暗黒。周囲の地形など分かるはずもない。
それでもシンは木の枝や葉に身体を擦られながら一心にレイを目指して走った。
走る。
ただ走る。
息も絶え絶えに荒げながら、それでもシンは走り続ける。
奇跡的に木と衝突する事もなく暗闇から抜けてはいたが、そのことにシンはまだ気付
いていない。ただ視界に見え隠れするレイの姿を追って、周囲の木々や枝を煩わしそう
に手で退けながら駆け抜けていた。
しかしどういうわけか、どれだけ走っても遠退いていくレイに追い付くことができない。
「待って……レイ、待てくれ!」
何度も息を切らしながら彼の名前を叫んだが、レイは一度も振り返らなかった。まるで
自分の声など聞こえてなどいないというように。
頭の中の冷静な部分が、シンに語りかける。レイは死んだ。こんなところにいるはず
がないと。でも、それならあれは誰だ。あの声は確かにレイだった。あの姿は間違いなく
レイだったのだ。
――もしかすると、俺はもう死んでいるのかもしれない。
ふと、そんな考えがシンの脳裏を過った。
本当は海に飛び降りたときに自分はもう死んでいて――
ここは本当は死後の世界なのではないか――?
そう考えれば、自分があの無縁仏の墓地で倒れていたのも納得できるような気がした。
だがもしそうだとすると、自分はこれからどうなるのだろうか。まさかこのままずっと
レイに気付いてもらえずに走り続けるのか。
それは、嫌だ。そんな孤独に耐えられない。
ムシがいいのは分かっている。地獄に墜ちてもいいと言ったのも嘘じゃない。
でも、大切な仲間にずっと気づかれないなんて、そんなの怖い。
そう思うと耐えきれなくなったシンは必死に友の名を叫ぶ。
「レイ……レイッ!! お願いだから、待ッ――!」
しかし声に出せたのはそこまでだった。突然、シンは踏みしめる足場を失った。急斜面
に出たのだと気づいたときには既に遅く、シンの身体は重力に従い斜面を滑り落ちた。
坂道をごろごろと転がりながら落ちる先に、川やぶつかるような岩の類もなかったの
は幸運だった。そしてようやく転がり終わり、シンは空を見上げる形で倒れていた。
荒く息をし、追うように胸も上下する。身体中は擦り傷だらけだが捻挫も骨折もして
いないらしい。相変わらず自分の悪運の強さには呆れてしまう。しかし、どれだけ走り
続けていたのか、四肢は重しを巻き付けたかのように重くて動かせなかった。
暗黒の空間からはとっくの昔に抜けていたらしいことにようやく気がついたシンの
視界に、青一色の空が映る。ただ呆然と空を見つめる。
「………そうだ、レイは?」
落ちる際に置き去りにしていた思考がようやく追いついてきたのか、気づいたシンは
頭だけを起こして周囲を見渡す。だがもはや親友の姿はどこにも見えない。
あるのは自分が潜り抜けたあの気味が悪い森と、転がり落ちた急斜面。そしてその
反対方向に広がる草原だけだった。
(まぼろし……幻、覚?)
あのレイは、森が視せた幻だったのだろうか。そういえば、あの青年がそんな事を
言っていた気がする。
起こしていた頭から力が抜け、支えを失い地面に落ちる。とさっ、と後頭部に軽い
衝撃と鈍い痛みが伝わってきた。
(そうだよな……あいつがいるわけないもんな……)
「……ふ、ははは……はははははっ!」
咳き込みながら、やけくそ気味に笑い声を上げる。
意味などない。ただ笑わずにはいられなかった。擦り傷だらけの身体。泥まみれの服。
そして死に損ないの自分。そんな自分があまりに無様で、情けなくて、涙が溢れてくる。
だがシンは涙を拭うこともせずに、ただただ涙を流したまま声を上げて笑い続けていた。
木で造られた家屋が立ち並ぶ、古い町並み。そこにはシンが知るコンクリートでできた
ビルは一切見かけられなかった。
大きな通りを歩く人々の殆どは東洋の民族が着ていそうな着物姿ばかりで、シンは
いよいよ認めるしかなくなった。
(本当にここは“幻想郷”なんだな……)
通り過ぎた人々が泥まみれ擦り傷だらけの自分へ奇異な視線を投げ掛けてくるが、
シンは無視した。ここに来るまでの間たまに何事かと心配して声を掛けてくれる者もい
たが、妖精にやられたのかという訳の分からない問いを適当に肯定すると一言二言慰め
の言葉を口にして離れていった。
結局、あれからあの青年を探したが見つからなかった。レイの幻影を追い闇雲に走った
せいで、もはや青年とはぐれてしまった位置も分からず、結局“森”の空気に当てられる
前に外に出るのが限界だった。
(あの人、大丈夫だったかな……)
あの“森”には馴れてはいるようではあったし、闇に包まれた時も自分よりは冷静
だった。だがとても戦い慣れしているようには見えなかったのも事実だ。果たして、
あの青年は妖怪に襲われずに無事に“森”を抜けることはできたのだろうか。青年自身
は大丈夫だと言ってはいたが、果たして彼は妖怪に襲われることも想定していたのか。
(くそッ……)
つくづく自分が情けない。あの“森”に惑わされないくらいの強さがあればこんな事
にはならなかったのに。無茶だと分かってはいるが、それでもどうしても考えてしまう。
せめて、あの青年が家に帰ったのか確認だけでもできれば――
(あ、しまった……そういえばあの人の名前知らない……)
シンは自分の迂闊さを呪った。そう長く一緒にいるつもりも無かったため敢えて名前
を聞かなかったが、まさかこんなことになるとは思ってもいなかった。
(なんか、嫌な感じだ……)
似たようなことが、昔にもあった。
かつて自分が住んでいた国が戦場となり、その飛び火によって家族を失った、あの日。
民間人の避難を行っていた軍の船に、家族を失い悲嘆に暮れていた自分を気に掛けて
くれた士官がいた。自分は彼の勧めで宇宙に渡り、そして軍人になった。軍に入ったの
は、彼の影響も少なからずあったと思う。その後は何度か連絡を取り合っていたが自然
と音信も途切れ、以来ずっと疎遠になっていた。それでも今でもあの人には恩を感じて
いるし、尊敬すべき人間としてシンの胸に残っている。
だけどその人も、今はもういない。慰霊碑の前で『彼ら』――人のカタチをした虚無
が現れ、終わりを見せつけられ後、それでも信じられなかったシンが思い出したのは
あの人だった。シンは共にいた彼女と一旦別れ、縋るようにあの人に会いに向かった。
せめてあの人に会えば、まだ自分はなんとか立つ事ができていたのかもしれない。
だが、自分が知ったのはあの人の戦死の知らせだった。それだけじゃない、あの人が
死/んだのは、あの人/が乗ってい/た艦を/沈めたの/は、/俺////……―――
視界に、思考に、まるでチャンネルが合わない古いテレビのような砂嵐が走った。
何かをひっくり返し、中の物が散乱したような音と、悲鳴が耳に入った気がした。
だがシンはそのことに構うことはできなかった。自分でも気づかないほど考えこんで
いたせいだろうか、息も求める暇もなく“発作”に襲われたシンの目の前は、砂嵐のまま
真っ白に染まっていき――
繰り返される、幻像。
炎に包まれていく、あの人の姿。
僕は恐くて、それでも目を逸らすこともできないまま、あの人が炎の中に消える様を
見ている。
その姿に気づけない俺は、恐くて、悲しくて、許せないまま、炎を燃やし続ける。
信じたかった。信じさせてほしかった。あの国が、父さんたちは好きだったのに。良い
国だって言ってたのに、なのに助けてくれなかった。あの国は俺たちを守ってはくれな
かった。
――教えてくれ……
僕は炎へと絞り出すような声を投げ掛ける。
――アンタは……貴方はあの国に何を見出していたんですか? 何を信じて俺に殺され
たんですか!?
最初の小さな声が、段々と悲痛な叫びへと変わっていく。
僕は教えてほしかった。一体どうすれば良かったのか。僕は何を間違えたのか、誰か
に教えてほしかった。だけど――
――誰も教えてくれないんだ! 何で俺が間違ってるのか、何でダメだったのか。みんな
理由を言ってくれないんだ!
議長の下で戦った時、確かに迷いはあった。本当にこのやり方は正しいのかどうか。
しかし議長は約束してくれた。戦争の無い未来を作ると。だから俺は戦えた。例え誰か
に軽蔑されようとも、憎まれようとも、戦い続ける覚悟ができた。
だが『彼ら』は何も示さなかった。平和への道も、力の意味も。ただ『彼』だけが、
別のものを自分に見せ付けた。ヒトの終わり、終わらない終わりを。
――ダメなのか……そんなに、ダメなのかよ!? 自由と引き替えに生命を守ろうとし
たことは、そんなに罪なのかッ!?
人を生かすのが自由なら、人を殺すのも自由。戦争をするのも、生命を操作するのも、
金儲けの為に戦争を起こすことすら、自由。そんなものを、人はなぜ求めるのか、シン
には理解できなかった。
実際には、それはあまりに極端な考えだ。普通に暮らす常人には到底受け入れられる
はずもない極論。しかし事実、シンが見てきた世界はそれほどまでに両極端で、狭い
世界だった。
――教えてください、俺の罪を……貴方が言ってくれれば、信じられるんだ! 貴方を
殺してしまった俺は、どうやって償えばいい!?
終戦後の生活はシンにとって苦痛だった。戦わなければ生きることを拒否する身体。
戦っても夜には殺してきた人達の悪夢にうなされては目覚めることの繰り返し。それでも
シンが逃げ出さなかったのは償いのためだった。平和のためにと犠牲を強要した人々へ
の、せめてもの償い。それは世界を平和にすることが自分の責任だと、シンはそう思っ
たのだ。
だが世界が平和になっても、死んだ人間が帰ってくるわけではない。守れなかった
あの娘も、自分に未来を託した親友も、そして恩を仇で返してしまったあの人も。
吹き飛んだ花は、もう咲くことはないのだから。
――だから……貴方が俺に死んで償えと言うのなら、俺はそれでもかまわない。だか
ら、だから……ッ!
そう言い掛け、シンははっとする。炎の中からあの人がこちらを見ていることに気づき、
何も言えなくなる。
あの人は厳しい顔でこちらを見つめていた。怒りを抑えているのと同時に哀しみに
耐えているような、そんな表情をして。
あの人がそんな顔をする理由は、シンは始めから分かっている。当然だ、あの人は
自分にそんな事を望んだりはしないだろうから。
シンが何も言えなくなると、あの人の姿は炎の中へと消えていった。一人だけ取り
残されたシンはただ途方に暮れる。
――俺は……どうすればいい……
「まず、息を吐け。ゆっくりとだ」
耳に入ったその声に、シンの脳裏に浮かんだのは先ほどまで考えていたあの人の顔
だった。
最終更新:2010年03月31日 01:14