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たねおん! 第一話

「ありがとうございましたー」
楽器屋には似つかわしくない、一冊の本を買っていった女の子を見送りながら、彼は溜め息を吐いた。
飾り気のない天井の照明に照らされた黒髪は、黒く輝く漆塗りのような美しさに、見えなくもない。
そこに赤いヘアピンが一つ、前髪にくっ付いているのは、彼なりのお洒落なのだろうか。
異性が嫉妬するくらい透き通った白い肌と、ルビーのように紅く煌いている瞳が、白い肌と相まって一種の芸術にも見える。
支給された制服――白い無地のシャツ――の上から紺色のエプロンという出で立ちは、楽器屋の店員というより、喫茶店のウェイターだ。
街角百人に聞きました、というアンケートをとれば「彼はウェイターだ」と答える人の方が多いだろうという予想は難しくない。
女の子――近所にある中学校の制服を着た――がこの楽器屋で買ったもの、それは『みるみる上達! 究極のギター練習帳』という、いわば教科書だ。
彼女が学校で使っているであろうそれと本質は変わらないもの。
これから始めるのだろうか、と想像したところで、無意味な事だと気づき、止めるようにカウンターに突っ伏した。
彼の名前はシン・アスカ。楽器店『10GIA』でアルバイトを始めて、今年で二年目になる。
平日の昼間に十五歳の少年が働いているという光景に、首を傾げる者も少なくないだろう。
どこにでもある『普通』な人生を送っていれば、大抵は学業に勤しんで将来を輝かしいものにしようと躍起になっている筈なのだから。
勿論、全ての人間がそうだとは当てはまらないが、彼――シンも、当てはまらない人間なのだろう。
とにかく、この時間帯は人が少ない。唯一の客も、役に立つかどうか分からない代物を買って出て行ってしまったので、店の中にいるのはシンただ一人である。
今年で勤続四年目の先輩も、シンを信頼しているのか面倒臭いのか、バックヤードに引っ込んでしまっていた。
この事に対して、シンに不満はなかった。

知った事ではないのだ。
先輩がサボろうと、真面目に床を拭き舌で舐められるようになるまで綺麗にしようと、シンの人生において、全くと言っていい程、どうでもいい事。
与えられた仕事をこなし、生きていく為のお金を貰う――それに支障がきたさなければ、彼は何も言わないでいた。

時計の針が午後八時――終業時間の三十分前――を差す頃に、店仕舞いの為に動き出す。
バックヤードに引きこもりの先輩も、七時半には店に顔を出していた。
店の外に出している、CDがぎっしりと詰め込まれた棚を店内の隅に置き、終業時間ピッタリにバイトを終われるように、気を引き締める。
シンがバイトの間、最も真剣になる事――それがこの終業間際の間だった。
 いつも通り特に問題もなくあっさりと八時三十分を迎え、店のシャッターを下ろした。
一段階照明を落とした店内で、きびきびと動く二人。
どうやら、早く帰りたいのは先輩とて例外ではないらしい。
まぁさっさと家に帰って録画していたバラエティ番組をお菓子片手に見るなり、夜の街に繰り出し酒と女に現を抜かすのも悪くないだろう。
人生は人それぞれだ。法が定めた事に触れない限り、好き勝手にやっていいし、どんなものに価値を見い出すかなんて皆違う。
ではシンはというと、楽器店から十分の、築二十年以上だと紹介されたアパートの前まで来ていた。
これが今のシンが住んでいる『家』だった。
 鍵を開けて、無言で帰宅したシンを出迎える者は、誰もいなかった。
洗面所と風呂場が付いた六畳間に、いるべき父も、母も、そして妹もいない。

二年前、シンは別の街に住んでいた。
大きくはないが小さいともいえない、何とも微妙な一戸建てに、家族と何不自由なく暮らしていた。
自室で目を覚まし、欠伸を噛み殺してリビングに行けば、新聞とテレビを見比べている父と、こちらに背を向け朝食の支度をしている母がいた。
その時妹の姿がない時は、まだ寝ているんだろう。
そういう時は、決まって自分が起こしに行くのだ。
シンの家族は少し特殊で、彼の祖母が外国人だった。
日本人の祖父と結婚したので、シンの母、シン、そして妹のマユはハーフだった。
その所為か、シンは日本人離れした肌と瞳を持っている。マユの方は純粋な日本人である父親の血が色濃かったのか、シンと二人並んだら、初対面の人に兄妹だと分かる人は、あまりいなかった。
彼女は「お兄ちゃんの方が綺麗でずるい」とよくぼやいていたが、そんな兄を、同時に誇らしく感じていた、兄想いの子だった。
毎日通う学校が楽しくて、目に映る全てのものに色があった。
家族や級友と喧嘩した時もあったが、その度に仲直りをし、絆を深めていった。

 だというのに――全てを奪っていった。

ある事故の所為で。それは、二年前に起きた交通事故。
当時テレビのニュース番組や新聞紙で大々的に取り上げられていた。
その日、シンは珍しく高熱を出し、家で寝込んでいた。本来なら母親が傍について看病しているのだが、生憎マユが通う小学校の卒業式だった。
娘の晴れ舞台を自分の目と写真、ビデオカメラに収めたいが、熱を出し苦しんでいる息子を放ってはおけないと葛藤している両親を、シンは行ってくるように促した。
確かに傍にいてほしいと思ってはいたが、人生において一度きりのイベントを、自分の所為で台無しになってしまう方が、彼には耐えられなかった。
自分が経験した、あの緊張感と高揚感、それを妹にも感じてほしい――心の底から、彼は願った。
何度もこちらに振り返り、泣きそうな顔を浮かべる三人を、シンは早く行けと言わんばかりに、しっしと手で追い払うように見送った。
これでいい――大きく息を吐き、再びベッドに横になるシンの表情は晴れやかだった。
幸い熱も下がり始めている。まだ頭がぼうっとするが、食事も排泄も一人で出来る。
後は三人が帰ってくるまで寝ていよう――そう思って、シンは眠りについた。

電気の点いていない、暗いリビングに鳴り響く電話の呼び出し音。
起きぬけで朦朧とする頭を抱えて受話器を手に取れば、聞き慣れた親戚の、切羽詰った声。
初めは何を言っているのか、理解出来なかった。
きっと熱が上がり始めたんだろう、夜になるとそうなるから――そう思っていた。
だが受話器から聞こえてくる内容は、一向に変わらなかった。
熱があると説明すると、親戚は急いでテレビを点けろと怒鳴る。
テーブルの上に置かれたリモコンを手に取り『いつでもいいぜ』とスタンバイしていた健気なテレビの電源を入れる。
いくつかの番組を回していると、ちょうどニュースをやっていた。その内容は――
『今日午後二時十八分頃、交差点で大型トラックと車三台が絡む事故あり、車に乗っていた数名が死亡した、との事です』
 そして晒された死亡者名簿の中に、シンが見知った名前が三つ、そこにあった。


瞬間、シンの世界から『色』が無くなった。


あれから二年が経ち、シンは住んでいた家を売り払い、あの街から逃げるように、今のアパートに越してきた。
親戚や祖父母が共に住まないか、と申し出てくれたが、彼等の厄介になる事を、シンは拒んだ。
お金は家を売って得たものや、両親が残した資財があったので、一人でも何とか暮らしていけた。
大きな傷跡は、未だにシンの心を蝕んでいる。
そんな彼の逃避先が、音楽だった。正確に言えば、10GIAでアルバイトをする事だ。
新しい生活用品を買う為に、見知らぬ街を彷徨っていた帰りの道で、あの店の前を横切る。
その時視界に映った『アルバイト募集』の張り紙。
シンは惹かれるように、後日履歴書を持って店のドアを潜った。
店員として働くようになって、音楽も覚えた。
まぁ二年経っても素人に毛が生えた程度の腕前だが、シンにとって、腕前なんてどうでもよく、この理不尽な現実から目を背けられるのなら、構いはしなかった。
 気でも狂ったのか、路上で自分が作曲したものをギターで弾いた事もあった。
当然、素人が作曲したものなんて誰も見向きもせず、足早にシンの前を通り過ぎていくだけだった。
それでも彼は演奏を止めず、自分の世界に埋没するかのように弾き続けた。
過去に馳せていた意識を強引に現実へと引き戻し、夕飯の支度を始める。
キャベツと人参だけの野菜炒めと、炊き上がってから一時間経ったご飯が、今日の夕食だった。
共働きだった両親の代わりに家事をこなしていた所為か、シンはスーパーやコンビニで売られている、肉ばかりのカロリーが高い弁当を買う気は起きなかった。
二年も経てば一人の食事も慣れたのか、黙々と箸を動かし腹を満たせば、次は浴槽にお湯を入れる番だ。
これは簡単、コックを捻れば蛇口からお湯がドボドボと浴槽に溜まっていく。
お風呂の準備を終えたシンは、ハンガーに掛けてあった赤のジャケットを羽織る。
そして窓際に立てかけていたもの――ギターケース――を手に取り、暗闇が支配する夜の空間へ出かけていった。

シンがケース片手にやって来たのは、誰もいない、静寂に包まれた夜の公園。
時折り吹く冷たい風が、シンの前髪とブランコをほんの少し揺らしている。
端のベンチにケースを置き、金具をスライドさせれば、中から真紅のアコースティック・ギターが躍り出た。
ストラップを左肩から斜めに、たすきを掛けるようにして握る。
親指をネックの上から出して、それを握り込むようにして押さえる。
そのまま公園の中央までゆっくりと足を動かし、深呼吸と共に立ち止まる。
指の先端を軽く弦に当てながら振り下ろすと、静穏な空間に同調するかのような、哀愁漂う音が、ギターの口から飛び出した。
そのまま指を拙いながらも動かし、一つの音楽を形成していく。
それはシンの心象風景を表しているかのような、聞く者の胸を締めつける、切ない音色だった。

翌日、シンは何時も通りの午前七時半に、まだ張りと弾力がある布団から身を起こした。
テレビを点けつつ朝食の支度をし、一人のご飯を迎える。
身だしなみを整え、店が開店準備を始める二十分前まで、コーヒー片手にニュースを見るのがシンの朝の日課だった。

午前十時十五分――シンは窓の鍵を掛け、戸締りが完璧だと確認すると、足早に10GIAを目指して行く。
こうして、シンの現実逃避の一日が、今日も幕を開けた。


特に目新しい事も、頭を抱えたくなるような問題も起きず、時計の針は午後三時まで進んでいた。
相変わらずこの時間帯は客がいない、と頬に手を当てすれ違う人々の姿をつまらなそうに眺めていると、
「わーすごいなぁ」
「あんまりはしゃぐなよー、みっともないぞー」
何が楽しいのか『きゃいきゃい』と騒いでいる女の子四人組が店内に入ってきた。
感嘆の声を上げているのは栗毛のショートカットの女の子で、前髪に黄色いヘアピンを、シンと違い二個とめているのが特徴的だ。
その女の子――名前が分からないので、仮に『栗』と名づける――をたしなめているのは栗と同じショートの子。
見分けがつかなそうだが、この子はカチューシャをしていた。
お陰で、照明の光りがまっさらなおでこに反射している。この子は『デコイ』だろうか。
その後ろに、四人の中では一番の長身な、黒髪――シンのよりは薄い――ストレートの女の子と、その女の子程ではない長さを持つクリーム色の髪に、遠目からでもよく分かる、太過ぎる眉をもった女の子。
この二人は『黒兵衛』『ごんぶと』と名づけよう。

あの身なりからでは断定出来ないが、高校生なのだろうか。せめて制服でも着ていればいいのだが、彼女達は皆私服だ。
そんなシンにとってどうでもいい事を、カウンターからぼんやりと眺めていると、
「ん……?」
栗と目が合う。
お互いは、しばらく見つめ合ったままのこう着状態になった。
素直にお喋り出来ないという状況になってしまったのだろうか? 別に今、外は雨も降っておらず、この瞬間も、過去の思い出なんかではないのに。
しばらくすると、栗がシンのいるカウンターに近づいてくる。
「いらっしゃいませ」
シンが感情なんてこれっぽっちもない、マニュアル通りの応対をすると、
「ギターを買いにきました!」
栗はニコニコと――本当に何が楽しいのか聞きたいくらい――シンに向かって、はっきりと己の要望を口に出した。

 たねおん! 第一話『邂逅!』

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最終更新:2010年05月15日 16:16
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