月明かりだけが空を照らす夜、二人の人影が月光館学園の寮の屋上を見下ろしていた。
一人は成人男性の腰ほどの身長もない少女。
しかし、その頭には見紛うことのない二本の角が生えている。
もう一人はラウンジでシンと話していた、紫色のワンピースを着た長いブロンド髪の女性。
ただし、まとう雰囲気は人間のそれではなかった。
微笑みは消え、その目はただ一点、眼下にたたずむ一人の青年に向けられている。
?「それで、わざわざ“外の世界”に連れ出したんだ。余程の用件はなんだろうね『紫(ゆかり)』」
少女は手にしたひょうたんから酒をすすりながら紫という名の女性に話しかける。
紫「ええ、あなたにしかできないことよ、『萃香』」
女性は萃香という名の少女に向き直ることなくそう答えた。
大型シャドウが計画よりも早く動き出してしまった。
このままではどちらか片側だけが目覚めることになるだろう。
紫たちにとってそれだけは何があっても避けなければならなかった。
しかし、それを防ぐために連れてこられた頼みの綱といえば少々不機嫌だった。
萃香にとって、自分たちが捨てた外の世界などもはやどうでもよいのだ。
ここに来たのも自主的にというより旧友に頼まれて嫌々ながらといった方が正しい。
もっとも、頼まれごとの内容を事前に知っていれば、“楽園”で行われる宴会を
二、三回犠牲したとしても手を貸したりはしなかっただろう。
萃香「あんまり気が乗らないなぁ。もしも彼が逃げ出したり、目覚めなかったらどうするのさ。
下手をすると本当に死んじゃうよ」
紫「そんなことありえないわ。だって・・・」
萃香「だって?」
紫「彼は“私を”見込んだ男ですもの」
萃香「・・・ふ~ん、見込んだねぇ」
そんな紫の自信満々な態度が萃香には不思議でならない。
彼女の知る紫という人物は、どんな些細な出来事にも完璧な計略を持って臨むタイプだったはずだ。
自分はできるだけ裏方に回り、常に誰かを動かしながら間接的に事態を進行させる。
培った経験と能力を使い、隙なく、柔軟に己の描いた理想を実現する。
そんな用心深さを体現したような彼女がこんな危ない賭けに表立って乗り出すなど普通では考えられない。
紫に絶対の信頼をおかれ、彼女をこうも突き動かす『シン・アスカ』なる青年は果たしてどんな人物なのか、
萃香の中に自然と興味と同情の念が湧いてきた。
紫「始まるわね」
まずは見せてもらうとしよう。その青年が果たして“鬼”が信じるに値する存在なのかを。
題名未定 第二話「 神話 覚醒 」 中篇
空中に裂け目ができ、そこから一人の男が下へ放り出された。さっきまで寮のラウンジにいたはずのシン・アスカである。
シン「うわっ・・・痛ってぇ!」
急に足元の感覚がなくなったと思ったら、目の前が地面だったのだ。受け身など取れるはずがない。
もたついている間に、思いっきり背中から落下してしまった。
シン「ぐおお・・・・・・くそぉ、何なんだよ一体・・・」
頑丈にできているとは言っても、さすがにこれは効いたらしい。
七転八倒すらできずに呻きながら震えている。
しばらく悶絶した後、涙目になりながらようやく顔を上げたシンは、今自分がいる場所がさっきまでとまるで違うことに気がついた。
月明かりに照らされたコンクリート一色の見晴らしは、ホテルのように豪華で広いラウンジとは明らかにかけ離れている。
風の吹く強さや頭上に輝く月の大きさから考えてどこかの建物の屋上、それもかなりの高所だ。
シン「・・・どこなんだよここ。夢じゃない・・・よな」
少なくとも、背中の痛みは疑いようもないくらい本物だった。
これが幻でないなら、テレポートや瞬間移動、神隠し等の、テレビの中でしかおこらないはずの眉唾現象が
現実にシンの身におこってしまったことになる。
引っくり返った現実を受け止めきれずに呆然とするシン。
そこに、金属製のドアの向こう側から階段を駆け上がってくる足音が聞こえてきた。
住居不法侵入、という罪状がシンの頭をよぎる。とはいえ、ここには隠れられる場所などない。
どうしようかと迷っているに、ドアを押し開けて誰かが屋上へ上がってきた。
?「誰!?」
殺気立った声を発したのは、シンと同い年くらいで茶色の髪を肩まで伸ばした勝ち気そうな女の子だった。
怖いくらいにこちらを睨みつけている理由は何となく察しが付く。
見知らぬ男が自分の住んでいるビルの屋上に勝手に上がりこんでいるのだから警戒するのも無理はない。
信じられなかったのは、その子が手に持った弓がシンに向けられていることだ。
シン「な、なんだよ! 俺は怪しいものじゃ・・・」
?「動かないで! 変な真似したら本当に撃つわよ」
いきなり武器を向けられたうえ、高圧的な態度で脅してきたのは百歩譲っても受け入れがたいが、
ここは諦めて両手を上にあげるしかない。
どうしてこんなことになるんだと、シンは自問する。
自分は新生活を送るためにこの寮に来たはずだ。
それが変な女性に絡まれ、おかしな現象に遭遇した揚句、こうして見知らぬ女の子に矢を向けられている。
あまりに理不尽な現実に、シンはそんなに前世で悪いことをしたのかと神様に直談判したくなった。
シン(ああくそ、おかしなことがありすぎて頭がごちゃごちゃになってる。
とにかく、落ち着いて打開策を考えないと)
レイにも、別れ際に「シン、お前は熱くなる前に一度冷静になることを学んだ方がいい」と言われたはずだ。
シンは深呼吸をすると、これまであったことの一つ一つを改めて考え直してみることにした。
どうやったかはわからないが、シンをラウンジからここへ移したのはあの胡散臭そうな女性で間違いなさそうだ。
変な空間に飲み込まれるとき彼女は微笑んでいた。
人が目の前で消えたのに笑っていられるのは、その人を消した奴だけだ。
目の前の女子が持っている武器も気になる。
護身用ならいまどきスタンガンでも買えばいい。だが、弓矢なんていくらなんでも過剰武装だ。
人を傷つけるような目的があるにしても、わざわざ弓矢を使う必要はない。
もしかすると、これもこの寮を揺らしていた“シャドウ”に関係があるのだろうか。
シン(・・・? どうしたんだ)
よく見ると女の子はシンを睨みつけながらも、ちらちらと視線を散らして周りを警戒していた。
精彩を欠いているというか、まるで何かに脅えているようだ。
その時、その子の後ろからもう一人女の子が屋上への階段を駆け上がってきた。
?「はぁはぁ、ここまでくれば大丈夫だよね。・・・その人は?」
同じ茶色の髪色で、特徴的なポニーテールと奇抜なヘアピンが目を引く。
だが、それよりもシンが一番気になったのは(あくまで手に持っていた長刀を除けば)その子がきていた制服だった。
シン(あれって、確か月光館学園の女の子用の制服じゃなかったか?)
制服をネットで購入しようとしたときに、男性用の隣にクリックボタンがあり
間違えて発注しそうになったのを覚えていたのだ。
だとすれば、ここはさっきまでシンがいた寮の屋上である可能性が高い。
(月光館学園の屋上はもっと広い)
少なくとも見覚えのない遠い土地に強制移動させられたというわけではないようだ。
?「近づいたらだめよ。まだ敵か味方かもわかんないんだから」
そういうと女の子は矢をシンに向けたまま、後ろ手に扉の鍵を閉めた。
シン「待ってくれ、俺は敵じゃない! 今日この街にに越してきたシン・アスカだ。
その制服、あんた達は月光館学園の制服なんだろ。一体ここで何が起こってるんだ」
シンが自分の名前と月光館学園の制服の話をすると二人の表情が少し和らいだ。
?「シン・アスカ、じゃあ、あなたが理事長が話してた転入生?」
幸い、寮に越してくる転入生がいることはあらかじめ説明されていたようだ。
?「でも、だったらどうして屋上にいるの?」
シン「それは、まぁ、おれにもよくわかんないんだけど」
さすがにおかしな女性にワープさせられましたとは言えない。頭がおかしいと思われる。
本当はこの現状がすでに常軌を逸しているのだが、その発想に至るまでの余裕は今のシンにはなかった。
その時点で気づけば、あるいは何らかの手を打てたのだろうか。
階段の上か下か、その違いの為だけにあの女性がシンをこの場所へ移すはずがない。
少し考えれば、そんなことはすぐに気づけたはずなのに。
弓を構えていた女の子もようやくシンが敵でないと悟ったのか慌てて武器を下すと、
先ほどまではうってかわって申し訳なさそうに謝ってきた。
岳羽「ごめんなさい。影時間にこんなところをうろうろしてたからてっきり敵(シャドウ)かと思って。私は『岳羽(たけば)ゆかり』」
公子「私は『主人 公子(あまと きみこ)』。あなたと同じで最近この学校に移ってきたの。
同じ転入生同士仲良くしようね」
シン「あ、ああ、よろしく」
思わぬ形で自己紹介を済ませる羽目になってしまったが、それよりも気になる単語をシンは会話の中で聞きつけた。
シン「ところでいま言ったシャドウってなんなんだ?」
確かシンを“神隠しした”あの女性も同じようなことを言っていた気がする。
二人が同じ言葉を発したことで、シンの中で芽生えかけていたこの寮を襲っているのが
その『シャドウ』というではないかという予想が確信に変わった。
岳羽「説明は後でするわ。 とにかくいまはどうにかしてあいつをやり過ごさないと
先輩たちと合流することだって・・・きゃっ!」
再び、地面が揺れる。しかも、今度は揺れの間隔がだんだん短くなってきた。
シン(この揺れって、もしかして足音なのか。それもかなり巨大な生き物の・・・)
岳羽「・・・嘘。こんなに早く」
ぺしゃりぺしゃりと音がした。そこにいた誰もが、一度も聞いたことのない音が。
ゆっくりと、音のした方に顔を向ける。屋上の手すりの外へ。誰もいるはずのない場所へ。
まず見えたのは毛穴も爪もない人外のなにかの腕だった。スライムで作った腕を真っ黒に塗ればちょうどあんな感じになるだろう。
それが手すりにぺったりと張り付いている。正確には、いくつもいくつも現れては張り付いていく。
次に見えたのは青い仮面だった。
目をかたどった丸が二つ、口をかたどった上を向いた三角、おまけで付けられたような鼻が一つ描かれている。
それを、張り付いているのと同じ手が満月に掲げていた。
最後に表れたのは、それら黒い手に握られた無数の“剣”。
いまどき博物館でもお目にかかれないような、人が人を殺すために造られた代物。
それを異形の者が持っているという不気味さと気持ち悪さは恐らく直接遭った者にしかわからないだろう。
いくつもの黒い手が集まった化け物、自然界には絶対に発生しえない生物がそこにいた。
いや、生き物かどうかすら怪しい。それと動物の共通点など、動いているという点しかないのだから。
シン「壁面を・・・昇って来たのか・・・」
考えたくはないが、この化け物にはあの巨体を支えて壁を登れるだけの腕力があるらしい。
だとすれば、ホテルの中に逃げたとしても逃げ切れるかどうかはわからない。
戦うなどもっと無謀だ。一瞬であの剣に串刺しにされる。
どうするか決めるよりも早く、化け物は剣を高く掲げながらシンたちの方へ突っ込んできた。
岳羽「あれが人類の敵、ここを襲ってきた化け物『シャドウ』よ!」
言うが速いが岳羽は弓を投げ捨てると、太ももに付けたバイザーから銃(らしき物?)
を抜き出し、あろうことか自分の額に銃口を押し付けた。
シン「お、おい。向ける相手が違うだろ」
岳羽「黙ってて。あたしにだって、できるんだから・・・・」
焦るシンを追い詰めるかのように、シャドウの周りで地面から次々と竜巻のようなものが発生してコンクリートの手すりや地面をがりがりと削っていった。
現れたのは一瞬だけだが、その威力が生半可でないことは明らかだ。
シン(神隠しの次は魔法かよ。冗談じゃないぞ!)
正体も原理もわからない現実に立て続けに出くわして、シンの頭はもうオーバーヒート寸前だ。
人間相手の喧嘩ならどれだけ強い相手でも戦いようがあるが、化け物退治の経験など彼にはない。
あんな破壊力をまともに受けたら、人間などあっという間にバラバラにされてしまう。
シン「・・・待てよ」
魔法であっという間にバラバラにできる・・・なら、何故奴は自分たちをすぐに殺さないのだろう。
シン(もしかして、殺さないんじゃなく殺せないのか。あの魔法が自分を基準にした一定距離を射程距離にしているとしたら)
奴の攻撃は近距離にしか届かないことになる。だとすれば、相手のなりがでかい分逃げ切れるかもしれない。
追い詰められてようやく決心が固まったのか、岳羽が引き金を引こうと指に力を込める。
だが、奴が魔法を自分の周りに出現させる方が早かった。
シン(なんでだ。この距離で放っても当たらないはずなのに)
出現した竜巻で一瞬だけシャドウの姿が隠れる。
シン「(まさか)危ない!」
岳羽「きゃあっ!」
敵の狙いに気付いたシンは思いっきり岳羽を突き飛ばした。
それとほぼ同時に魔法にまぎれて飛んできた剣がさっきまで岳羽が立っていた場所へ突き刺さる。
まさに間一髪だ。
しかし、そうしている間にも化け物との距離はだんだん縮まってきていた。
煙幕で身を隠しての遠距離からの奇襲。
それは同時に、今背を向ければ、下に続く階段を下りる前にさっきのように剣が飛んでくることを意味している。
間近に迫った敵を前に、前門どころか後門まで完全に塞がれてしまったわけだ。
これはとても偶然では片づけられない。間違いなく、この化け物には知性があった。
シン(くそ、このままじゃ・・・)
何とか逃げ道を探すシンの目に、弾き飛ばされた銃が映った。
淡い水色がかった銀色の銃。
それをポニーテールの女の子、公子がゆっくりと拾い上げる。
どうしてかはわからない。
わからないが、何故かシンは彼女から目を離せなくなった。
“神隠しの主犯であるあの女性”を見た時とは違った思いが心の奥から湧きあがってくる。
どこか覚えがある感覚に全身が粟立っていく。
思いだせないほど昔、彼はその感情に耐えきれず何かをおこなった。
しかし、何を?
彼女はゆっくりと
銃をこめかみに宛がい
大きく息を吸って
トリガーを
引いた
公子「 ペ・・・ル・・・ソ・・・ナ・・・」
ガラスが割れるような音がして、反対側のこめかみから透明な結晶のようなものがはじき出される。
公子から現れたばらばらの結晶は、彼女の周りを渦巻きながら頭の上で自らを形作り始めた。
それは、はっきりとした姿を見せながらその場にいるものすべてに語りかけていく。
『我は汝・・・汝は我・・・我は汝の心の海より出でし者、幽玄の奏者オルフェウスなり・・・』
自らをオルフェウスと名乗った何かは獣にも似た叫び声を産声代わりにあげた。
見ているものの耳に、心に深く刻まれる声。
だが、突如その声を遮る様に公子が悲鳴を上げ始めた。
公子「うああああああああああぁぁっ!!」
シン「お、おい」
岳羽「駄目、待って!」
完成されたはずのオルフェウスの姿が変わっていく。いや、変わっていくのではなく、内側から食い破られていく。
口や目から赤い光が漏れだし、首から生えた腕が、卵の殻を破るかのように自分の身を引きちぎった。
現れた“それ”をシンは知っている気がした。
“それ”があげた叫び声をシンは聞いたことがある気がした。
背中に背負った棺桶状の8枚の翼、骸骨のような顔、人間のような体、そして、手に持ったひと振りの剣。
遭ったことがあった。どこでかはわからない。いつかも覚えてない。だが、シンは“それ”に遭ったことがあった。
オルフェウスの中から現れた“それ”は一声叫ぶと、シャドウに真っ向から挑みかかっていった。
瞬きする間に距離が詰められ、押さえ込まれるシャドウ。
シンたちを追い詰めた絶対的な強さはなりをひそめ、あれほど恐ろしかった化け物が凄惨な殺戮ショーの標的になりさがる。
青い仮面は両断され、剣は砕かれ、あれだけあった腕はあっけなくもぎ取られ、見るも無残に食い散らかされていく。
気がつけば、理解が追いつく前に、“それ”はシャドウをばらばらに引き裂いていた。
まだ痙攣している腕を握りつぶすと、満足したのか“それ”は勝利の咆哮をあげる。
シン「え・・・?」
次に見たとき、“それ”はさっきまでの異形ではなくなっていた。
いや、異形は異形なのだが食い破られる前の姿オルフェウスに戻っていた。
そして、そのオルフェウスも消え去り、場に静寂だけが残った。
岳羽「終わった・・・の?」
シン「そうみたい、だな」
戦いの怒号は風鳴りに変わり、自分たちの息遣い以外は虫の音も聞こえない。
圧迫感が消えたことからしても、戦いが終わったのは確からしい。
あまりにもあっけなさ過ぎてまるで実感がわかなかったが。
そして、終わらせた張本人はというと。
公子「あっ・・・」
シン「あぶねっ。おい、大丈夫か!」
足元から崩れ落ちた公子をシンがぎりぎりで支える。
どうやら完全に意識を失っているようだ。
シン(この子の中に、さっきの化け物がいたのか)
実際に目撃してもまだ信じられなかったが、とにかく今は公子を休ませることにした。
ただの気絶にしては顔色が悪い。あんなことがあった後なのだから、病院に連れて行って
精密検査をしてもらった方がいいかもしれない。
そんなことを考えていた時だった。
ぱちぱちぱち
どこからか聞こえてきた拍手に、シンたちはぎょっとして辺りを見回す。
紫「まずまずのオープニングでしたわ。こんなにはらはらさせられたのは本当に久しぶり」
声のしたほうを振り向くと、そこにはシンをからかっていた女性が・・・宙に浮いていた。
シン「っ! あんたは!?」
比喩的表現ではなく、本当に宙に浮いている。
一般人なら驚くだろうが、さっきまで正体不明の化け物に殺されそうになっていたシンにとって、
そんなものは今更どうでもいいことだった。
シンを神隠しした時点で、まともな人間でないのはわかっていたことだ。
問題は、敵か味方かである。
紫「でも、それだけでは不完全。目覚める『死』と『生』は対でなくてはならない。
どちらか片方では、かえって歪みを大きくしてしまう」
シン(意味の分かんないことをべらべらと。って、こんなことしてる場合じゃない)
シンは無視して行こうと岳羽に促すが、反応が返ってこない。
不思議に思って二人の方を振り返ると、岳羽と公子は凍りついたように動かなくなっていた。
シン「お、おい。どうしたんだよ」
紫「静と動の境界を少し弄らせてもらったわ。数分にも満たない幻想だけど、
あなたを案内するには十分な時間」
シン「案内・・・俺を?」
紫「さて、覚醒を遂げたとはいえ彼女はまだ不安定。蟻の一噛みでも簡単に仕留められるでしょう」
紫が右手を上げると削れたコンクリートの地面に大きな陣が描かれる。
そして、信じがたいことにばらばらになったはずのシャドウの破片がそこにぞくぞくと萃(あつ)まっていくではないか。
シン「そんな・・・一体どうやって!?」
集合し、融合し、シャドウは消滅する前の姿を取り戻していく。
紫「命に対する執着をこのシャドウに埋め込んだわ。もうこの剣は誰かを道連れにするまで止まらない」
悪夢を見ているような気分だった。
力を持った彼女が倒れた今、力を持たないシンたちにはもはや対抗する術はない。
紫「もうすぐ結界が解ける、そうなれば・・・。そうね、一番のターゲットはその子かしら」
紫が指さしたのは、意識を失ったままの公子だった。
シン「やめろ! あんた自分が何やってるかわかってるのか」
紫「止める方法は一つ。あなたの命を盾にするしかない」
シン「そんなことしたら・・・」
紫「確実に死ぬでしょうね。さあ、どうするの。その子を見捨てて助かるか、それとも・・・」
シン「なんで、なんでこんなこと・・・あんたは一体何なんだっ!」
紫「私の名は『八雲 紫(やくも ゆかり)』。現実と幻想の狭間に潜むモノ、そしてあなたに心惹かれた妖怪よ」
そのまま、女性は現れた時と同じようにすっと消えてしまった。
残されたのは思考が凍りついたままのシンと、再構成された化け物だけだ。
『 死 』
言葉を聞いたことはよくあった。憎んだ相手に言ったこともあった。
だが、取り返しのつかない距離まで“それ”に近づいたことはなかった。
誰も動かない。声が出ない。考えが追いつかない。みんな止まったままだ。
息が詰まる。あの女はどこに行った。この化け物はなんだ。
誰か動けないのか。考えが追いつかない。喉が渇いた。考えが追いつかない。
俺はどうすればいい?
「5・・・4・・・3・・・」
カウントダウンの声が聞こえる。耳をふさいでも声が消えない。
あんな化け物の盾になって死ぬなんて絶対に嫌だ。誰だってやりたくない。やりたいはずがない。
俺はただの高校生で、軍人でも警察官でもないんだ。死ぬようなところとは違うところで生きてきたんだ。
さっきまで、転入して友達ができるかとかどんな部活に入ろうかとかそんなことで悩んでたのに
どうしてこんなことになってるんだ。
誰かの盾になって死ねなんて言われるほど、俺が何かしたっていうのか。
「2・・・1・・・」
死ぬのがわかってるのに飛び込むなんてできるわけがない。まだしたいこともしてないことも山ほどあるんのに。
死ねない、死んでたまるか。
今日会ったばかりの顔も知らなかった女の子のために命を張る理由なんてないだろ。
動かなければいい。じっとしてればいい。そうすれば、そうすれば全て終わるんだ。
知らないふりをすれば、見ないふりをすれば、わからないふりをすれば。
胃の辺りが掻き混ぜられたみたいになって気持ち悪い。お腹が重くてへたり込みそうだ。
心臓の音が妙に大きく聞こえてくる。息が荒いのが自分でもわかる。喉が渇いて吐きそうになる。
体が勝手に震える。足に力が入らない。腕が言うことを聞いてくれない。
それももうすぐ終わる。目をそむければ、これ以上に苦しい思いをしなくてすむ。
背を向けて逃げる。それだけでいいんだ。
「0」
奴が動き始める。剣を高くかざし、宣言通り公子めがけて。
俺は、確かにそのとき逃げようとした。突っ込んでくる化け物を恐れて後ずさりをした。
そして後ろを振り向こうとしたとき、偶然倒れている公子の口が動いたのが見えた。
(たす・・・けて・・・)
実際にそういったかどうかはわからない。
いや、気絶している人間が助けを求めるなんてできるわけがない。
たぶん、見間違いか何かだったんだと思う。
だけど、気がつくと俺の脚は止まっていた。
逃げようなんて気持ちはなくなっていた。
おかしなことにあれほど怖がっていた化け物もどうでもよくなった。
ただ、この女の子が殺されるのがどうしようもなく許せなくて。
無意識のうちに、体が勝手に彼女たちをかばっていた。
何かがぶつかったような感覚がして、全身が燃えるように熱くなる。
刺されたんだと気づくのに少し時間がかかった。
シン「にげ・・・ろ・・・」
これは間違いなく致命傷だと、素人の俺にも理解できた。
不思議なことに、自分の体なのにほとんど感覚が返ってこなかった。
もしかすると、神経ごと切れていたのかもしれない。
痛みにのた打ちまわりながら死なずにすんだのは不幸中の幸いだ。
シン「・・・ごぼっ」
息苦しさに耐えかねて咳をすると、別のものが喉の奥からあふれ出て来た。
月の明かりに照らされたのは真っ赤な血。それも自分でも驚くくらいの量が地面を濡らす。
こんな量の血は生まれてから初めて見た。そして、たぶんこれで見納めだ。
「い、イヤアアアアアアアアアアアアアアアッ」
誰かの悲鳴が聞こえた気がする。
まぁ、人の死ぬ様なんて嫌なものを見せられたら悲鳴ぐらい上げて当然だな。
ああ、ちくしょう。体に力が入らない。おまけに目までかすんできた。
俺はこんなことで死ななきゃならないのか。
力がないのが悔しかった。化け物のことが憎かった。死んでいくことが悲しかった。
まだ、約束を守ってないのに。もう一度あの学校に戻るって、マユとデートするって、約束してたのに。
この化け物のせいで、この化け物を倒せなかっただけで全てお終いかよ。
こいつさえいなければ。こいつを倒せる力さえあれば・・・。
消えていく意識とかすんでいく気持ちの中で、次第に誰かの“声”が大きくなっていた。
聞いたことのあるのに、一度だって耳にしたことのない。
そう、“俺”の名を呼ぶ“俺”の声が・・・。
最終更新:2010年08月08日 16:37