……小鳥は一歩も動けなくなっていた。
はるかさんの軍勢が辺りを埋め尽くしているから、ではない。
散々逃げ回ってきた疲労がここで響いてきたから、でもない。
この目の前にいる黒装束に身を包んだ少女――天海春香から発せられる覇気にあてられたからだった。
「は、春香……ちゃん?」
「もう、酷いじゃないですかシン君」
口調はいつもと変わりはないが、その全身から放たれるオーラは異形。周りに深夜に餌を与えたわけでもない
のに暗黒化しているはるかさんの群れがさらに禍々しさを引き立てていた。
おまけに剥き身の刀を片手に下げているのだから、その恐ろしさたるやホッケーマスクの怪人とチェーンソー
を持った皮マスクの大男が同時に襲いかかってくるのに匹敵する。
……もっと簡単に言えば、生きた心地がまるでしない。
故に、若々しい少年の肉体を手に入れた音無小鳥が腰を抜かしてしまっているのも無理からぬ事態なのだ。
「あ、ああああのあのあの、なんでそんなに不機嫌、なのかなぁ?」
「それをシン君が聞くんですか? もう、ひどいなぁ」
あいかわらずの笑顔で、春香は刀とは逆の手に下げていた袋を上げた。
透明なビニール袋に入れられた焼き菓子――おそらくマフィンだろう。
おそらく、というのはその形がそう断言するのが難しいほどだったからだ。
まるで何かに押し潰されたようにペシャンコに……
(ま、まさか……!?)
そこでようやく小鳥は思い出す。
春香を落とそうとして突き飛ばされた時、何かビニールらしきものが自分と一緒に書類に埋もれてしまった
ことを。
「せっかく私が、じっくり時間をかけてプロデューサーさんのために作ったのに……こーんなことになっちゃっ
たんですよ?」
言いながら春香がゆっくりと歩み寄ってくる。無造作に下げられた刀の切っ先が地面を擦り、怖気がするほど
鮮やかな切り口を作り出している。
「あ、あ……」
なんということだろうか、まさか初手の失敗がこんな形で返ってくるとは。
立ち上がることもままならない小鳥の目の前に立ち、春香は刀を頭上に掲げる。
「――責任、取ってくださいね?」
そう言って、躊躇なく刀が振り下ろされる。
一瞬後の自らの運命を悟り、小鳥は堅く目を閉じた。
――が、
ガキンッ!!
肉を裂く音でも骨を砕く音でもない甲高い音に小鳥は反射的に目を開いた。
……鋭い光を放つ刃を受け止めたのは鈍く輝く金属の棒。
先端から中心あたりまで太く、そこから握り手にかけてなだらかな曲線を描き細くなっている。
シンプルなそのフォルムを見れば誰もが思い浮かべるだろう。
打つ、
叩く、
殴る、
この三種の用途で存分にその威力を発揮できる万能ツール。
その名を、金属バット。
よく見てみれば雑に貼られたテープの上に『阿龍大刀・摩亜屈』と書かれている。
そしてその鈍色の武器を構えるのは……
――大丈夫ですか? 小鳥さん。
いつも見慣れた自分の姿。だがその瞳の奥には、よく知る少年の姿があった。
「シン、君……?」
――早く逃げてください! ここは俺がなんとかしますから!
「でも、それじゃああなたが!」
――俺のことはいいんです。小鳥さんを守れたなら、それだけで俺は……
「シン君……あぁっ! 私はいったいどうすればいいの!?」
「妄想垂れ流してないで逃げるなら早く逃げろって言ってんですよ! 聞こえてますか小鳥さん!?」
ピヨ? と惚ける小鳥から目を離し、シンは眼前に迫る春香に集中する。
とてもではないが同年代の少女とは思えないほどの膂力、もしものためと持ってきた金属バットだったが、
それを使ってすら互角だった。身体が違うこともあるだろうが、それ以上に春香が何かしらのパワーアップを
しているとしか思えない。おそらくはこの刀が原因なのだろうが……それが何なのかを気にする余裕すら今の
シンにはなかった。
「くっ……!?」
ジリジリと刃が押し込まれる。頑丈さでは引けを取らないはずの金属バットに、徐々に刀が食い込んでいって
いる。
それをなんとか支えるシンの姿を見て、春香は「はて?」と首を傾げた。
「小鳥さん? どうしてシン君を庇うんですか?」
「いや庇うだろこの状況なら! というかな、落ち着いて聞いてほしいんだが俺は小鳥さんじゃ……うおっ!?」
説得を試みようとするも、少しでも集中を切らせば一気に押し込まれかねない。
一体何があったのかシンには見当もつかなかったが、どうやら小鳥が春香をここまで怒らせてしまうような
ことをしてしまったのは確かなようだった。
「小鳥さん! だから早く逃げてくださいって!」
「そうしたいのは山々なんだけど……あれ」
そう言って小鳥が示す先には、唯一の出入り口にひしめき合う春香さんの群れがあった。あれでは扉を開く
こともままならない。
「なんで俺が入った後にこんなことに!?」
「さぁ……」
「あぁもう! だったら俺の携帯出してください!」
「え? 携帯?」
「早く! アンテナ立ってたら電話でもメールでもいいですから……ッ!?」
叫んでいる内に春香がバットごと強引に押し込んでくる。元より上から振り下ろされる刀を受け止めるという
不利な体勢だったこともあり、一度均衡が崩されると立て直すのは難しい。踏ん張っているのが精一杯の抵抗
だった。
「うーん、まぁ別にいっか」
「よくないだろ!? というかなんかいつも以上に黒くなってないか!?」
いったい自分の知らない間に何があったのかと追及したくなったが、そんな余裕などない。説得の声が届くか
どうかも分からない今、とにかくこの状況を切り抜ける以外に選択肢などなかった。
「こん……のぉ!」
「ッ!?」
刀がバットに食い込んでいたことが幸いした。グリップをわずかにだが捻ると刀にかかっていた力のベクトル
がズレ、春香が前につんのめるように体勢を崩した。その一瞬の隙を突いてタックルを仕掛け、ゼロ距離だった
間合いを一気に広げた。
――これで少しはマシになったか……?
もっとも状況は極悪から最悪になっただけとも言える。いまだはるかさんの群れは唯一の出入り口を塞いでお
り、逃げることも他の誰かが助けに来る見込みも皆無に等しい。なんとか弾き出した春香にはダメージを受けた
様子もなく、対してこちらはこれまで走り続けていたことに加えて先の一撃で多少無理したこともありすでに息
が上がっている。小鳥さんは……考えるまでもない。いくら自分の身体に入っているとはいえ中身は2×歳の
事務員だ。刀を持った相手に立ち向かえるわけがない。
「今失礼なこと考えたわねシン君!?」
「考えましたよ! そんなことはどうでもいいから携帯はどうなんですか!?」
「開き直られた!? えっと、たぶん大丈夫……かな?」
「それじゃあ早くあの人に電話を……」
言い終える前に前方から発せられた覇気に全身を打ちのめされる。さながら横殴りの大雨のような衝撃とその
冷たさにシンは自身が凍りつくような錯覚すら感じる冷や汗を全身から噴き出していた。
――刀を持ったリボンの少女。その圧倒的な威圧感に負けぬようグリップを握り直す。
「驚いたなぁ。小鳥さんがこんなに動けるなんて私ちっとも知りませんでした」
そりゃ中身が別人だからな、と声には出さずに返して正眼にバットを構える。
攻める必要はない。今はとにかく防御に徹するのが最善の策だ。
先ほどの動きを見る限り、春香自身の技術は一般人を基準にするなら脅威的ではあるが見切れないほど高度な
ものというわけでもない。落ち着いて対処すれば少なくとも致命傷に至ることはないだろう。
素手ならともかく、シンにも金属バットという武器がある。凌ぐだけならば何も問題はない。
そのはず、なのだ。
――だってのに、なんでこんなに嫌な予感がするんだよ……
瞬き一つですら取り返しのつかないことになるかもしれないという、予感。
目の前の春香が焦るでも怒るでもなく、いつもと同じように笑顔を浮かべているのがさらに不安を加速させる。
手に持つ刀を向けるでもなく、ただぶら下げているだけ。
その構えとも呼べない構えにシンは一歩も動けずにいた。
……互いに沈黙。時間稼ぎが目的のシンにとっては都合が良いのだが、だからこそこの何が起こるか分からな
い状況に常に神経を張り巡らさなくてはいけない。
動かないはずがない。だがあまりにも静かすぎる。
先が読めずにいるシンの研ぎ澄まされた集中力が、ついに動き出した春香の手に反応した。
「――もう、仕方ないですね」
「……え?」
一挙一動に目を見張っていたシンはその行動の意味が理解出来ずに知らず疑問の声を上げる。
春香は、やれやれとでもいいたげな素振りで刀を鞘の中へと収めたのだ。
予想に反した動きと、極度の緊張状態にあった反動からシンはほんのわずかだが身体から力を抜いた。
――刹那、
――ッ!!?
五感は何も反応しなかった。その時魂が底冷えするほどの悪寒という形でシンに危機を伝えたのは、今まで
数多くの戦場でシンの命を救ってきた第六感だった。
バットを左に立てるように構え、身体を後ろへ仰け反らせる。一歩引く余裕もなかった。
しゃぁぁぁぁぁぁぁぁ……ん。
心奪われるような美しい音色。だがかろうじて視界の端に捕えられた銀線の鋭さに、シンは反射的にグリップ
を握る手に全力を込めた。
キン! という音と共に中心あたりで両断されたバットの先が宙を舞い、鼻先を掠めていった切っ先の冷たさ
に鳥肌が立った。
技術がないなどとんだ見誤りだった。
刀を抜くと同時に相手を切り捨てる高等技術。剣術とも異なるが、あるいはそれ以上に刀を使う技としては
最高峰とされたもの。嘘か真か、達人が使えば数メートル先のものですら断つことができると言われたという。
――居合い。
「ま、摩亜屈ーーーーーーーーー!?」
身代わりとなって果てたバットの名を叫びながらシンは背中から床に落ちる。
まともに受け身も取れずに打ちつけられた衝撃に眉間を歪めたが、直後に映った眼前の光景にその痛みすらも
消え失せた。
いつの間にか鞘の中に収められていた刀をゆっくりと抜きながら、春香がすぐそこまでにじり寄って来ていた。
後ろに下がろうとして、すぐに壁に阻まれる。右か左か、そう迷う間に一足一撃の間合いまで近付かれていた。
……春香の表情は見えない。薄暗い倉庫のただ一つしかない電灯が逆光となり、顔に暗い影を落としている。
やがて、ゆらりと流れるような動きで刀が天井へと掲げられた。ここまで来れば技も必要ない、ただ無造作に
振り下ろすだけでシン・アスカの命は音無小鳥の身体ごと消えてなくなるだろう。
「クッ……!」
鈍く光る刃をシンは睨む。最後まで諦めてたまるかと、恐怖心を押し殺して抵抗の意を眼力で示した。
そして、
――とってもとってもとってもとってもとってもとっても大スキよ♪
――ダーリン I like you ダーリン いい いい♪
「…………?」
それまで隠れていた春香の顔が突然鳴り始めた着うたに反応して露わになる。
キョトンとした様子で刀を下ろし、左手でポケットの中から携帯を取り出した。
「……もしもし?」
静寂。こんなに静かな倉庫の中だというのに、まったく相手の声が聞こえない。
固唾を飲んでシンは成り行きを見守る。次の瞬間、春香の表情がパァッと輝いた。
「プロデューサーさん♪」
「よし! 白くなった!」
刀を持ったまま照れを交えつつはしゃぎ始めた春香の姿を見てシンはガッツポーズを取った。
上手く伝わったのかとハラハラしていたのだが、どうやら小鳥はシンの言いかけたことを察してプロデュー
サーに春香へ電話するように伝えたのだろう。もし携帯が通じなかったら、ということは考えないようにした。
周囲に蠢いていたはるかさんの群れも春香が元に戻ったからなのか一匹に戻っていた。薄暗い倉庫は居心地が
いいのか、何やらとても幸せそうだ。
と、そこで気付いた。
「小鳥さん!?」
いない。座り込んでいた場所には誰もおらず、入口のドアが半開きになっていた。
・
・
・
「そこにいたかぁ!」
「げぇっ、シン君!?」
事務所の前、こそこそと隠れながら逃げようとしていた小鳥を発見したシンは問答無用にタックルを仕掛けた。
ゴロゴロともつれ合いながらも二度と逃がさないよう両肩をしっかりと掴む。当然小鳥はそれを引き剥がそう
とするのだが、何故かそれほど抵抗を感じなかった。
「いい加減俺の身体を返してください!」
「い、イヤよ! まだ私は何もしてないのよ!?」
「これだけ引っかき回しておいて言うことがそれかぁ!?」
身勝手な言い分にさらに怒りの幅を振り切ったシンは自分の体をマウントし、両手でその頭を掴む。
これから何が起こるのか分かっていないのか、小鳥は呆然としたようにシンを見上げていた。
「こん、のぉぉぉぉぉぉ!!」
出来る限り後ろに仰け反り、勢いよく頭を小鳥の額へと叩きつける。
ガツン! という天地が引っくり返るような衝撃の後、頭の痛みに涙を浮かべながら目を開けると、いつの間
にかシンは『見上げて』いた。
「戻った、のか……?」
横で気絶している小鳥に怪我がないかを確かめながら、シンは自分の身体を改める。イチかバチかという勢い
に任せての行動だったが、どうやら異常はないらしい。ご丁寧なまでに朝にあった頭痛すらもそのままだった。
「こんな状態であんなに騒ぎまくってたのか、この人は」
呆れながらもシンは事態が解決したことに安堵の息を漏らす。原因などはまったく分からないが、最悪の状況
も予想していただけに今はただ考えることもなく安心しきっていた。
と、そこへ、
「やっと見つけたわよ! アンタ、私のお茶を無駄にしてタダで済むと思ってるんでしょうね!?」
「へ?」
「ふふふ……小鳥さん? さっきは良いアドバイスをありがとうございました。是非お礼したいんですけどいいですよね」
「へ?」
「お―→っと! シン兄(c)見っけ―→!」
「テキゼントーボーはジューザイなんだよ―→? ま、いいや。そんじゃまた遊ぼ!」
「へ?」
気付けば、周りには四人の鬼。
逃げる体力も既になく、弁解しようにも熱を持った頭ではうまく言葉も紡げない。
……シンは天を仰いだ。
照りつける太陽、真っ青な空。叫べるなら叫びたかったが、どうやらそれも無理らしい。
だからシンは、心の中で叫んだ。
誰か、
――誰か、助けてください……!!
……その後に起こった出来事を、シンは記憶の箱に入れてガッチリと鍵を閉め、心の東京湾に沈(チン)した。
・
・
・
「うぅ、とんでもない目に遭ったわ」
「……そりゃこっちのセリフですよ」
二人きりの事務所。デスクに項垂れてだーと涙を流す小鳥にシンは半目になりながらツッコんだ。
ほぼ丸一日をかけた騒動は後に積もりに積もった残業という形になって返ってきた。もっとも最悪の場合765
プロの今後の仕事がなくなっていたかもしれないということを考えれば、よくこの程度で済んだものである。
「はぁ……滅多にできない経験はしたけど、結局目的はひとつも達成できなかったわねぇ」
「よくもまぁ俺の前でそんなセリフ吐けますね。まぁもういいですけど」
軽くこめかみを引くつかせながらもシンは次々に書類を捌いていく。あれだけのことがあった翌日だというの
にいつも通りの手際の良さだった。
その様子を見て、ふと小鳥はずっと気になっていたことを聞くことにした。
「ねぇシン君、どうして私を手伝ってくれるの?」
不思議と言えば不思議なことだった。当然のことだが、小鳥自身はシンに対して負い目を感じている。仕事に
差し支えるとはいえ、こうして夜遅くまで一緒に残っているのは助かるとはいえ何か企んでいるのではないかと
思ってしまうのも無理もないことだ。
だがそう聞かれるや否や、シンは照れ臭そうに頬を掻いていた。
「別に、大した理由なんかないですよ」
「そうなの? 本当に?」
「本当ですって。ただ……」
そう言いかけて、シンはしまったというような顔になって視線を逸らした。そのあからさまに何かを隠してい
る様子が気になりじっと見つめる小鳥に耐えられなくなったのか、やがて観念したようにポツリと語り出す。
「ただ……小鳥さんがみんなに迷惑かけるから」
「? それってどういう……」
「だから! 小鳥さんが俺以外に迷惑かけるのがいけないんですよ!」
予想だにしなかった言葉にどういう態度を取っていいのか分からず小鳥は戸惑う。だが落ち着いてその意味を
考えて、どう考えてもひとつしかない答えに顔が熱くなってきた。
「し、シン君?」
「小鳥さん……」
いつしか二人の影が重なり……
・
・
・
「…………(にへら)」
――ピピッ! バチチチチチッ!!
「あいたたたたたたたたたたたたたたた!?」
突然自分の席でのた打ち回る小鳥にびくっと身体を震わせて、シンはおそるおそる律子の方を見た。いつもの
ように仕事をしているはずなのに、それがやけに楽しそうなのは何故だろうか。
「あの、律子さん? 本当に大丈夫なんですかあれ」
「ん~? ぜ~んぜん問題ないわよ? ただちょっと妄想するとスイッチが入って電流が流れるようになって
るだけだから」
朗らかにそう告げて仕事に戻る。たった一晩でこんなものを作り出せるその執念はいったい何が原因なのか。
おそらくは昨日の件なのだろうが、シンには皆目見当がつかなかった。
「うぅ……律子さぁん。お願いだからこれ取って」
「ダメですよー。昨日のことの罰として一週間はそれ付けて仕事するってことに決まったじゃないですか。まだ
一日目……どころか三時間も経ってないのに弱音なんて吐いちゃいけませんよー」
その愉快そうな顔にゾッとするものを感じつつ、いったいこの人は一日に何度妄想してるんだと小鳥を見る。ちなみに今ので5回目の電流である。
「あうううう……シン君~。助けて~」
しかし涙を流しながら助けを求めてくるその姿にさすがに同情を感じずにはいられず、シンは遠慮がちに律子
に声をかける。
「あの、ちょっとやりすぎな感じもするし許してあげてもいいんじゃ……」
「なぁに、シン君?」
「……イエ、ナンデモナイデス」
心の底から怒った女性は怖い。笑顔の時は尚更に。
そのことを魂で感じた瞬間だった。
「うわーん! もうイヤー! かえるー! もうおうちにかえるー!」
唯一の助けすらも得られないと悟った小鳥は幼児退行したように泣き叫びながら椅子から立ち上がった。
「なっ!? 待ってください小鳥さん! それじゃ何の解決にもならないじゃないですか!」
「妄想できないなんて地獄でしかないわ! いつもだったらあんなこととかこんなこととか考えながら日々の
苦労や実家から送られてくるお見合い写真のことも考えないようにしてきたのにぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!?」
途中から軽く妄想が入ったせいか最後のあたりは電流で甲高い叫び声になっていた。
「り、律子さん! このままじゃヤバいですって! これ外してください」
「え~っと、来月から小鳥さんの人件費は考えなくていいから新しい見通しを立てないといけないわね~」
「ちょっ!?」
「かーえーるーのー! おかーさーん! もうお見合い写真から逃げないからおうちにかえらせてー!」
……結局、ほぼ仕事などできる状態ではない小鳥の分までシンが引き受けた。
さすがに溜飲が下がった後で反省したのか、あわや再起不能となりかけた音無小鳥の姿を見かねた律子は
三日目にして装置を外すことにした。
もっとも本当に危なかったようで、そのときには「あうあうあー」と呻きながら軽く白目を剥いていたのだが。
ちなみに翌日には復活していた。なんともタフなじょせ……少女(自称)である。
だが、とシンはふと考える。
あの現象はいったい何だったというのか? 自分の身に何が起こったのか?
……何が、起ころうとしているのか?
そんな不安もあったが、しかしそのことについては考えるのはやめてしまった。
なぜならば、
「えっと、明日は仕事が終わった後に伊織とやよいにお詫びを兼ねたお茶会で……次の日に真と雪歩のお茶を
飲みに行って夜はあずささんと食事に……休日返上かよ。それでその次の日は亜美真美に連れ回されるのか」
渇いた笑みが零れた。小鳥さんと自分の件を隠すためとはいえ、その行動のすべてがこうして返ってくるとは。
それも仕事は通常進行である。
だがシンは知らない。その日の内に、事情を知る二人――千早と律子からも誘いのメールが届くことに……
そしてそんな日々を過ごしていく内にこの異常な出来事は日常に埋没していった。
この日のことを彼が思い出すのは、また別の異常に巻き込まれてからの話になるだが……その日は未だ、息を
潜めて彼が通る時を待ち構えていた。