<東方邂逅録:上白沢慧音の章~人と歴史の守護者たち~ 前編>
――正午を知らせる鐘の音を聞いて、板書をしていた手がピタリと止まる。
白墨で埋め尽くしかねないほど書き記された黒板を見て、それでもやや不満げな顔をしつつその女性はため息
を漏らした。
「……午前の授業はここまでだ。続きは午後にしよう」
振り返り教室内を見渡しながら女性はそう告げる。退屈そうに頬杖をついていた子供、あまりの情報量に
目を回していた子供、意識の半分が夢の中に逃避してしまっていた子供、そのすべてが授業の終わりを告げる
声に一斉に立ち上がった。
『ありがとうございました!』
「うん、しっかり昼食をとって午後の授業に備えるんだぞ」
その言葉を最後まで聞く前に騒がしく教室を出ていく子供たちを見送って、女性――上白沢慧音は苦笑した。
「慧音殿、お疲れ様です」
子供らと入れ替わるように教室へ一人の女性が現れる。
和装にも洋装にも見える衣服を身に纏い、鮮やかな金髪と玉虫色の瞳を持つ女性。
人ならざる雰囲気を持つこの女性は、事実人ではなかった。
「デスティニー? どうしてここに?」
「午後の授業の準備をするのでしょう? 私も手伝います」
「それはとてもありがたいのだが……いいのか?」
「えぇ。主殿はあの様子ですし、しばらくは戻らないでしょうから」
すっと指差された先を見ると、シンと子供たちが球蹴りに興じていた。つい最近まで幻想郷で流行していた
『サッカー』に使われていた球を地面に着かせることなく器用に蹴り続けている。
「なるほど。そういえば貴女は子供が苦手だったか」
「苦手というわけではないのですが」
拗ねたように顔を背けるデスティニーを見て、慧音はふっと笑みを零した。
この幻想郷でおそらくは最も新しい神が以前子供たちに囲まれて終始戸惑っていたことを思い出す。
生まれ落ちて一月ほど経ったとはいえ、未だ初々しさが残っているようだ。
「それより、早く片付けて昼餉にしましょう」
「そうだな」
慧音は教材を整理し、デスティニーは黒板を消し始める。
「……しかし慧音殿、ここまで目一杯に書かれると子供たちも混乱してしまうのでは?」
「あぁ、私もそう思ってはいるんだが……どうにも要約が難しくてね。結局全部まとめて書いてしまうんだ」
気恥ずかしげに頬をかく慧音にデスティニーは呆れたように息を漏らす。
幻想郷でも数少ない歴史の編纂者、しかし彼女の授業はその堅苦しい性格故に非常に分かり辛かった。
「どうぞ」
「ありがとう」
片付けと準備を終わらせ、昼餉も済ませた二人は縁側に腰を掛けてお茶を飲みながら遊びに興じる子供たちと
シンを眺めていた。
「……正直、意外ですね」
デスティニーの呟きに慧音は「何がだ?」と問いかける。しばらく逡巡していた彼女だったが、意を決した
ように真剣な表情で答えを返す。
「主殿があそこまで子供たちと打ち解けていることが、です」
「彼は子供が嫌いだったのか?」
「そういうわけでは……しかし特別好きというわけでもなかったように思えたので。あくまで私が知っている
限りの話ですが」
なるほど、と慧音は納得する。
彼がこちらに来る前のことは知らないが、この人里へ来てすぐの彼のことを彼女は知らないのだった。
「彼も最初からあそこまで打ち解けていたわけでもなかったよ。むしろ逆に遠ざけていたくらいだ」
「遠ざけていた?」
「自分と関わるな、とでも言うようにね」
一口茶を含み、慧音は思い出す。
妹紅が連れてきた彼が来た日のことを。そして彼が今のように立ち直れた日のことを。
「……不思議には思っていました。私がこちらへと現れたとき、主殿の印象が大分変っていたことに。あまり
詮索するものではないと思い聞かずにいたのですが」
「確かに、彼はまず教えないだろうな」
「ですが、ここまで聞いてしまうともう遠慮ができませんね」
「聞きたい、と?」
「とても」
「彼の許可はいいのか?」
「聞いたところで「ノー」以外の答えは返ってこないでしょう」
「だからといって私が教えるというわけではないのだが」
「ならば、」
と言いつつデスティニーは人差し指を立て唇に押し当てる。
「二人だけの秘密、ということで」
――まったくもって、人間臭いにも程がある神だった。
堪え切れず吹き出してしまったが当のデスティニーの目は至って真剣だった。
「私の負けだな。他言無用だぞ」
「勿論」
そして慧音は、ゆっくりと語り始めた。
彼と彼女の歴史の交差した日を。
「――よし、今日の授業はここまでだ。宿題を配るからちゃんと明日までにやってくるようにな」
その言葉に子供たちが一斉に不満の声を上げたが、「やってくるようにな?」と慧音が笑いかけると静かに
なった。
「心配するな、そう量があるわけでも難しいわけでもない。ちゃんと今日中に終われる程度だ」
そう言いながら慧音は全員分の宿題を配る。彼女が主に教えるものが歴史ということもあり、問題の数はとも
かく文量のせいでそれなりの厚みがあった。
「ではみんな、気をつけて帰るんだぞ」
子供たちと共に玄関へと赴き、そこでみんなを見送る。寺子屋の一日最後のお勤めだった。
最後の一人を見送り中へ戻ろうとしたところで、見覚えのある少女がやってきたことにはたと気付く。
「妹紅?」
「や、悪いね突然」
片手を挙げて挨拶をする藤原妹紅の姿を見て、慧音は訝しげに眉を顰める。
彼女はついこの間人里へ来たばかりである。迷いの竹林からほとんど出ることのないはずの彼女がこうも短い
間隔でやってくるということは、何かあったのではないかと心配になった。
「何かあったのか?」
「私じゃなくてあっちにね」
背後を指す親指の先を追うと、見慣れない格好をした少年の姿があった。珍しい物でも見たかのように里を
見渡している。
「……迷い人か」
「しかも外来人よ」
それを聞いて慧音は納得した。妹紅が迷い人を人里まで案内するのは珍しい。大抵の場合は竹林を抜ければ
里まで迷う人間はほとんどいない。子供の場合はそれに限った話ではないのでここまで連れて来ることもある
のだが。
だが、外の人間であれば話は別だ。
昨今の幻想郷はある程度齢を重ねた妖怪にもなると人里の人間を襲うことはほとんどなくなった。数少ない
例を挙げても食らうまでには至らない場合が多い。今日までの幻想郷を作り上げていると言っても過言では
ない大結界、それが端に発生した騒動以降に定められた人間と妖怪の間に定められたルールにより簡単に妖怪が
人間を襲うことができなくなったことが主な原因である。人里の安全がある程度保障されている理由でもある。
しかし、外来人にこのルールは適応されない。
人と妖怪のバランスを維持するために制定されたものであるが故にあぶれてしまった人間はむしろ排除され
るべき存在なのだ。
よって外来人を保護した場合はすぐにでも博霊の巫女の力を借りなければならないのだが……何分、気分屋な
面が強いのでどう出るかは分かったものではない。
だからこそ妹紅はまずここへ、わざわざ付き添って来たのだろう。
「……分かった。後のことは任せろ」
「話が早くて助かるよ。それじゃ、後のことはよろしく」
そう言って妹紅は竹林への道を戻り始める。
別段彼女にとっては珍しいことではないのだが……その顔色がやや沈んでいたように見えた。
「ちらかっていてすまないな。適当に空いてる場所に座ってくれ」
「あ、はい……」
昨夜は編纂作業に没頭していて片付けを忘れてしまっていたこともあり、床にはところどころに書物が積まれ
ている。それなりの広さがあるはずの部屋だというのに、二人も入れば窮屈に感じるほどだった。
「さて……自己紹介が遅れたな。私は上白沢慧音。この寺子屋で歴史を教えている」
「寺子屋?」
「学び舎のことだ」
あぁ、と納得したように少年は頷く。
「俺はシン。シン・アスカ」
「ふむ、ではシンと呼んでも構わないか?」
そう言うと、戸惑った顔を見せたもののシンは首を縦に振った。
「ではシン、まず服を脱いでくれ」
「はぁ……って服!?」
「万が一ということもあるからな。怪我がないか確かめたい」
「あ、あぁ。そういうことか」
理解はしたものの抵抗があるのか躊躇していたシンだったが、やがて観念して上半身をはだけさせた。
「……見たところ、大丈夫のようだな。あの竹林で迷ったというのに大したものだ」
迷いの竹林は幻想郷全体で見れば危険度はそれほど高くはないのだが、それでも普通の人間にとってはそこに
いるだけで命の危険がある場所であることに変わりはない。まして外来人ともなれば十中八九助からないだろう。
妹紅に早い段階で保護されたとはいえ、五体満足どころか傷もまったくと言っていいほどないのは不幸中の
幸いと言えた。
「しかしずいぶんと汚れてしまっているな。すぐに風呂を準備しよう」
「えっと、いろいろすいません……」
「気にするな。私が好きでやっていることだ。少し時間がかかるからここで待っていてくれ」
シンは頷くとつなぎのような服を着直した。ずっとこの服装でいさせるわけにもいかないだろうし、古着も
探さなければならないなと考えながら慧音は部屋を出る。
扉を閉めるとき、ぼんやりとどこか遠くを見つめているシンの表情が気にかかった。
湯浴みを終えたシンに里の古着屋で買った服を着させて――和服に慣れてないようだったので少し手伝った
――、再び私室で向かい合う。
「さて、君の今後についてだがしばらくはここにいるといい。幸い部屋にも空きがある」
「いや、そこまで世話になるわけには……」
「だが行く宛てもないのだろう?」
それを言われると何も言い返せないようでシンは黙り込む。
気持ちは分からないでもなかったが、慧音としても目が届く範囲にいた方が助かるということも含めてのこと
だった。
「それと、私も授業があるからいつにと決まっているわけではないが折を見て博麗神社へ案内しよう」
「博麗、神社?」
「あぁ。博麗の巫女ならば結界を一時的に緩めて君を外の世界に帰すことができるからな」
外の世界と幻想郷を隔てる博麗大結界、代々その結界を管理する博麗の巫女はシンのように迷い込んだ人間、
所謂『神隠し』に遭った人間を外へと導くことができる。故に外来人は早急に博麗神社へと向かわせなければ
ならないのだが、幻想郷の東端に位置し道中は妖怪に襲われる可能性がある獣道を通らねばならない。
故に、相応に腕の立つ案内人が必要となるのだ。
「……そんなに危険な場所なのか」
「あの辺りは強い妖怪がよく集まるからな。まったく、妖怪退治の専門家が妖怪を引き付けるのだからおかしな話だよ」
「案内してくれるって言ったけど、えっと……上白沢、さんは平気なんですか?」
「私なら問題ない。それと、私もシンと呼ばせてもらっているんだ。慧音と呼んでくれて構わないよ」
さて、と慧音は立ち上がる。まだ伝えなければいけないことはあるが、今はこれくらいでいいだろうと判断した。
「昨日今日で大分疲れも溜まっているだろう。今日はゆっくりと休むことだ。部屋の準備はできているから
夕飯ができるまでくつろいでいるといい」
「それはありがたいですけど……どうしてそこまで」
「気にすることはない。さっきも言ったが、私が好きでやっていることだ」
「好きで……」
「あぁ、私は人間が好きだからな」
その言葉を聞いて、シンは複雑な顔をした。
……その日はそれ以降特別なことは起こらず、夕食を残さず平らげたシンは部屋に戻るとすぐに寝入って
しまった。やはりというか、相当疲労が蓄積されていたらしいのでそのまま朝まで寝かせることにした。
――これが一日目。
改めてこの日を振り返り慧音は反省せざるを得なかった。
もしこの日の時点で彼の身の上を少しでも聞いていたのなら、次の日の出来事は回避できたかもしれなかったのだから。
「もし幻想郷に興味があるなら、私の授業を見てみないか?」
翌朝、朝食後に空いたわずかな時間に慧音はそう告げた。
「慧音の授業を?」
「あぁ。と言っても私には歴史しか教えられるものはないんだが」
少し考え込むシンだったが、「まぁ、邪魔にならないなら」と頷いた。
「でも何でいきなりそんなことを?」
「他意はない。もしよければと思っただけだ」
「……なんか嬉しそうですね」
「生徒が増えるからな」
そう言いながら、屈託なく慧音は笑った。
「……なんというか、難しかった」
「今日の授業は軽い復習だからそれほどのものではないはずなんだが」
「いやこう、教え方がって言えばいいのか……うーん」
午前の授業を終えて授業の感想を聞いた慧音だったが、首を捻るシンに不満そうに眉をひそめた。
「あと、あの宿題忘れた子にやったあれって」
「今日までにやってくるようにと言ったのにやってこなかったからな」
当然と言うように頷く慧音にシンは若干怯えたように相槌を打つに止まった。慧音にとってはいつものこと
だが、初めてあの頭突きを見れば引いてしまうのも無理もない話である。
しかし、その点を除けばシンは昨日よりも幾分か明るくなったように慧音は感じていた。
授業についてよく分からなかったという点を詳しく教えている内にだんだんと口調が砕けたものになって
いったこともその表れのように思える。敬語を使うよりも対等な口調で接した方がいいのだろう。
そういった点が分かっただけでも、慧音はシンに授業を見てもらって良かったと考えた。
「けーねせんせー!」
「ん? あぁ、何かな?」
名前を呼ばれ慧音が振り向くと、手に花を持った少女が駆け寄ってきた。
「キレイなお花が咲いてたから、けーね先生にもひとつあげる!」
「ありがとう。大事にするよ」
差し出された一輪の赤い花を受け取る。たしか彼岸花という名前の花だったと思い出した。
「お兄ちゃんにも、はい!」
「え……?」
同じく花を差し出されたシンは戸惑った顔で少女と花を見つめる。一応授業の前に軽く紹介はしたのだが、
まさか自分にも渡されるとは思っていなかったようだ。
「シン」
「あ、あぁ。ありが……」
促されて手を伸ばしたシンだったが、その動きが止まる。
「シン……?」
怪訝に思いシンを覗き見て、慧音は驚きに目を見張った。
真っ青になった顔にびっしりと汗を浮かべている。よく見れば身体が小刻みに震えてもいた。
「お、おい?」
「来るな……」
「え?」
「来るなっ!」
そう叫ぶとシンは弾けたように立ち上がり、寺子屋の中に逃げるように駈け込んでしまった。
「……けーね先生?」
「あ、あぁ。大丈夫だ、君のせいじゃない」
かろうじてそれだけ言えた慧音だったが、尋常ではないシンの反応にそれ以上は何もできず立ち尽くすしかなかった……
最終更新:2011年01月22日 08:18