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<東方邂逅録~楽園の巫女の選択~ 後編>

<東方邂逅録~楽園の巫女の選択~ 後編>

「え……え?」

 ――未だに頭が現状に追いついていなかった。
 神社にいたと思ったら、いつの間にか別の場所にいた。
 まるで狐につままれたような感覚。いつの間にか夢でも見ているんじゃないかとすら思うほどに。

「っ、お前たちは!」

 現実に引き戻されたのは、隣にいた慧音の切迫した叫びを聞いてからだった。
 弾かれるように立ち上がった慧音を見て、しかしいくつもの金色の尻尾を持った女性は眉ひとつ動かさず告げる。

「落ち着きなさい半獣。こちらに敵意はありません」
「……これはお前の主の仕業だろう? そんな言葉を信用することなどできない」

 敵対心を隠そうともしない慧音に小柄な少女の目が鋭く光る。肉食獣のそれと同じ獰猛な輝きに本能的に危機
を察知し、シンは反射的に腰に下げたナイフに手をかける。

「橙、やめるんだ」

 今にも飛びかかりそうな少女を手で制し、長身の女性は諭すように告げる。

「藍様……でも」
「我々の目的は争うことではないよ。ここに連れてきた手段は強引ではあったがね」

 それに、と藍と呼ばれた女性は改めて慧音へと視線を移す。

「この場で私たち二人を相手取るほど、愚かな選択はしないだろうさ」

 一瞬向けられた視線の意味を理解して、シンはナイフからゆっくりと手を放した。
 いくら慧音が強いとはいえ、妖怪――おそらくは並大抵ではないであろう――二体と戦うのは圧倒的に不利で
あるのは人間であるシンの目から見ても明らかだった。しかも、弾幕も使えないただの人間であるシンは現状
助けどころか足手まといでしかない。ナイフで太刀打ちできるほど甘い相手でもないだろう。

(……人質みたいなもんか)

 唇を噛み締めながらシンはあくまで冷静に状況を判断し、少なくとも今のところは抵抗を諦めた。
 慧音も打つ手がないと分かったのか警戒こそ緩めることはなかったが再び座布団の上へ腰を下ろした。

「さて、自己紹介が遅れたな少年。私は八雲藍、この子は私の式の橙だ」

 金色の尻尾を優雅に揺らしながら藍は頭を下げる。それにやや不満げな顔を見せたものの橙と呼ばれた少女も
礼をしていた。

「――シン・アスカです。えっと、それでなんで俺たちはここに……っていうか、いったいどうやってここに?」
「突然のことで驚いただろうな。すまない、我が主に代わって謝ろう」
「主?」

そういえば慧音も「お前の主」と言っていたことを思い出し、視線を向ける。
 不機嫌な顔をしたままだったが、慧音はその意味を察したように質問を投げかけた。

「……八雲紫、という名前に覚えはあるか?」
「あぁ、たしか……慧音の授業で何度か聞いたような」

 たまにではあるが、シンは慧音の授業を手伝うついでに――こういう言い方をすると慧音は怒るが――その
様子を眺めることもある。数えるほどしかないその回数の中ですら何度も挙がった名前だったのでかろうじて
ではあったが覚えていた。

「たしか、幻想郷でも古参の妖怪って」
「そう、彼女は幻想郷を創った賢者の一人であると言われている。文献だけならば1000年以上も前からその
存在が確認されているほどだ」
「せん、って……」

 途方もない数字に言葉が詰まる。だが慧音は少し不機嫌になりながらさらに話を続ける。

「そして、彼女の特筆すべきものはその能力にある。この世のありとあらゆる『境界』を操ることができる……
それが彼女の持つ力だ」
「境界を操るって……つまり?」

 いまいちピンと来ない説明を引き継ぐように藍が口を開いた。

「この世のありとあらゆるものには境界が存在する。それも物理的なものに限った話ではない。理性と本能、
正気と狂気、怒りと悲しみ、そういった精神的なものにも境界は存在する。それらを操るということは、即ち
万物を操れるということに限りなく等しい」

 ……スケールが大きくなってきてさらに混乱してきた。
 その様子を感じ取ったのか、藍は人差し指を立てて言う。

「つまり、君たちが博麗神社からここまで来たのは紫様がその間の境界を操り距離をゼロにしたからなんだ」
「距離って……」
「博麗神社が幻想郷の東端、そしてここがその真逆側。こう言えば分かりやすいか?」

 ようやく一つ理解できた。そしてその意味することに戦慄した。
 距離という概念を超越した所業。しかも今までの話を総合すればそれは単に出来ることのひとつでしかない
らしい。これが序の口だとするなら他にはいったい何ができるというのか。
 そんなシンの思考を汲み取ったかのように、慧音は補足する。

「……距離だけならまだ良い方だ。彼女にとっては博麗大結界もあってないようなものなのだからな」
「え? でもその結界って妖怪には抜けられないって」
「結界という存在自体が外の世界と幻想郷を隔てる境界、ならばそれも彼女の能力の範疇にあるということだ」

 幻想郷においても規格外の存在。そんな妖怪が何故自分たちを隔離し、博麗の巫女と二人だけで自分の処遇に
ついて話し合うことになったのか。

「いろいろと聞きたそうな顔をしているが……すまない、私も詳しくは知らされていないんだ。話すことはできない」
「当事者を除け者にしての話し合いか。どう考えても納得できるものではないが」

 そう言う慧音に、藍は目を細めながら告げる。

「当事者? 何か勘違いしていないかな半獣。この話の当事者は、紫様と博麗の巫女だ」
「何だと?」
「シン、気を悪くしないで聞いてほしいが君はあくまでこの幻想郷に紛れ込んだ部外者以外の何者でもない。
君は外の世界へ無事に帰れればいい、ならばその詳細を決めるのは大結界を統べる者だ。それに何の異論がある?」

 尚何か言い返そうとした慧音だったが、その口から言葉が出てくることはなかった。
 言われてみればその通りだ。納得できないところもあるが、言い分自体は正論と言い切ってもいい。
 結論次第と言えなくもないが……確かに、無事に帰ることができるのならばそれでいいのだ。

「慧音、もういいよ」
「シン? だが……」
「文句がないわけじゃないけど、理由は分かったからさ」

 不承不承ながらとりあえず落ち着きを見せた慧音に、藍はフッと笑った。

「申し訳ない。その代わりと言ってはなんだが、他に聞きたいことがあれば何でも聞いてくれ。答えられる限り、のことは話そう」
「えっと、それじゃあ……その子は何の妖怪なんですか?」

 話の間ずっと何かを窺うように顔を見つめていた少女に視線を移してシンは尋ねる。
 その瞬間、藍の瞳が輝いた。

「よくぞ聞いてくれた!」
「え?」
「この子は化け猫なんだ。化け猫は知っているかな? まぁそれは後で話そう。先ほども話したがこの子は私の
式でね、あぁ式のこともまた後でな。とにかくとても覚えが良い子なんだ。自分で言うのもなんだが本当によく
出来た式だと思う。何よりもその可愛さは天井知らずというかな、寝てる時に指を口元に近づけると咥えたり
しかもそれがほどよい甘噛みだからこちらの心地も天を突き抜けるほどというものでしかも寝顔も最高に可愛
いとなればもはや驚天動地という愛しさのあまりこちらも未知の領域まで逝ってしまうというかあぁもう思い
出すだけで我慢ができなくなる本当に可愛いよ橙! 橙! ちぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇん!!」
「にゃああああああああああああああああらんしゃまぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!?」

 ものすごい勢いで頬ずりをし始めた。心なしか、というか明らかに目もイってしまっている。先ほどまでの
様子とのギャップにシンも慧音もポカンと口を開けたまま呆気にとられていた。

「どうだ!? 君もそう思うだろう!?」
「え? えっと、その……俺はどっちかと言えば犬派かなぁ、なんて、はは」

 唐突に振られたのでシンは考えたことをそのまま言葉にして出した。
 出して、しまった。

「犬……?」

 興奮の境地にあった藍がピタリと動きを止める。どうしたのかと思っているとスッと立ち上がり、九つの尻尾
の中から一冊の本を取り出した。
 ――表題、『橙日記其の壱』。開かれたその中身は、つまるところ日記付きのアルバムだった。
 嫌な予感に全身から冷や汗が噴き出してくる。慧音も同じように顔に汗をびっしりと浮かばせていた。
 だが今さら後悔しても時すでに遅く……
 地獄が、始まった。

「……で? 何しに来たのよあんた」
「いくらなんでもその態度はどうかと思うわ霊夢」

 卓袱台に頬杖をつきながら半目で対面の相手を睨む巫女と、その様子に苦笑を漏らす大妖怪。
 並べられた三人分の湯呑、その余った物を境に互いの空気に凄まじいまでの温度差が生じていた。

「せっかく来てくれた参拝客を神隠しされたらこうもなるわよ」
「外来人じゃなくてそこが重要なあたり本当に末期ねこの神社」
「うっさい」

 これ以上は不毛だと察して背筋を伸ばす。フッと笑う紫に少なからず苛立ちを感じつつも霊夢は博麗の巫女と
して問うべきことを口にする。

「どういうこと? 人里とこの神社の間では人間を襲うことは御法度のはず。あの人間を攫った理由は何?」
「だってこのままだと霊夢はあの人間を外の世界に出すでしょう?」
「当たり前じゃない」
「それをさせないためによ」

 そう言いのけて茶を啜る紫に霊夢は眉を顰める。

「何でよ。今までは外来人を帰しても文句ひとつ言わなかったのに」
「ただの外来人なら問題はないわ。でもあの人間は違う」
「何が?」
「だって彼、外の世界の住人ですらないもの」
「……はぁ?」

 言っていることの意味が分からない。少なくとも彼が幻想郷の住人でないことは明らかである。ならば必然、
外の世界の人間であることになる。

「あんた……まさか自分の仕業ってことを誤魔化すためにそんなことを言ってるんじゃないでしょうね?」
「失礼ね。今回の件については私は無関係よ」

 しれっとした顔で言う紫の表情からは、それが嘘かどうかを判別できるほどのものは窺えない。
 何もかもが胡散臭いこの大妖怪から何かを感じ取るのすら難しいのだが、それでもその言葉はおそらくは嘘で
はないと霊夢の勘が告げていた。

「まぁ、あんたがそんな嘘をつくわけがないか」
「理解してくれて嬉しいわ霊夢」

 ニコニコと笑う紫を無視して「で? さっきのはどういう意味?」と先を促す。

「言葉のままの意味よ。彼は幻想郷の人間でも外の世界の人間でもない。別の世界から来た人間なのよ」
「……まだ意味が分からないんだけど」
「そうね、霊夢には難しい話かもしれないわ」
「ひょっとして馬鹿にしてる?」
「顔が怖いわ霊夢」

 ジト目で睨むと「そういう意味じゃないから」と手を振り紫は簡潔に説明を始める。
 外の世界よりもさらに進んだ技術を持った世界。そして幻想郷とも外の世界とも違う歴史を歩んできた世界。
 彼――シン・アスカがやってきたのはそんな世界だということを。

「……というか、なんであんたそんなことを知ってるわけ?」
「ちょっと彼の話を小耳に挟んだのよ」

 要するに盗み聞きである。大方あのハクタクに話しているところをスキマから覗いていたのだろう。
 まぁ、それはともかく。

「あんたならあいつのいた世界に戻すこともできるんじゃないの?」
「できない、とまでは言わないけど……霊夢、あなた木の葉一枚差し出されて「これを元の木に戻したいから
どの木から落ちたか探してくれ」って言われたらどうする?」
「放置する」
「でしょう?」

 『出来る』ということと『実現する』ということには大きな隔たりがある。紫の例え話にしても決して不可能
ではないだろうが、その実現にかかる労力と時間がどれほどのものになるかなど想像もできない。別の世界の
ことともなれば尚更のことである。

「でも、少なくとも幻想郷よりは外の世界にいる方が少しはマシじゃないの?」
「彼自身がそれに納得するかはともかく、それも反対ね」
「なんで?」
「不確定要素が多すぎるわ。別の世界からやってきた人間を外の世界に出す、なんてことは前例がないもの。
その影響で結界がどうなるかも分からないし、妙なものが紛れ込んでくるかもしれないわね」
「面倒な話ね……」

 結局は置いておくしかないのか、と考えた霊夢に目を細めた紫がそっと呟くように告げる。

「――と、それはこちら側の話」
「は?」
「私は幻想郷に住む妖怪としての意見を言ったまでよ。幻想郷に住む人間である貴女の意見に反対はしたけど
それを強制する気はないわ」

 しばらく茫然とする霊夢だったが、やがて目を細めて真っ直ぐに紫を見つめながら質問を投げかける。

「……あいつを外に出すのもここに残すのも私次第、というわけ?」
「事情はともかく、彼はこの神社に来た人間だもの。なら博麗の巫女である貴女に最終的な判断を委ねるわ」
「誘拐までしておいてなんて勝手な……」
「話すべきことを話しておいてから決めるべきことだもの。それで、どうするの?」

 問われ、しばし霊夢は黙り込む。
 外来人の身の安全か、幻想郷の安定か。
 つまるところはこの二択である。
 博麗の巫女としてどちらを取るか、それをわざわざ確認するために普段なら静観していたであろうこの妖怪は
やってきたということか。なんともお節介な話だと霊夢は呆れを隠さず溜息をついた。
 ――互いに沈黙を保ったまま時間が過ぎていく。
 やがて手の内の湯呑から熱をほとんど感じ取れなくなったところで、

「……しばらくこのまま、様子を見るわ」

 巫女は少年の残留を決断した。

「……で、これはいったい何なの藍?」
「も、申し訳ありません紫様! でも危害は加えていませんから! 犬派に猫、というか橙の魅力を切々と語っ
ていただけですから!」
「と、言われてもねぇ」

 屋敷へと戻った紫は目の前の光景を眺めながら眉を顰める。
 ――虚ろな目のまま身体を不安定に揺らす二人の男女。何やらぶつぶつと呟いているがよく聞いてみると
「ちぇぇぇぇん……ちぇぇぇぇぇん……」と繰り返しているらしい。精神崩壊の一歩手前なのは明らかだった。橙が頬を
ツンツンと突いても瞬き一つすらしないのは傍から見ていても危険な状態であるのが分かる。
 そして二人の目の前には、『橙日記』の其の壱から弐拾四までが広げられていた。誰のせいかは考えるまでも
ない。

「まったく……手間をかけさせないで頂戴」

 ポン、と紫が手を叩くと二人の人間は同時にハッと我に返った。

「あ、あれ?」
「こんにちは、異世界の外来人さん。一応はじめましてと言うべきかしら」

 何が起こったのかも分からないというようにシンは視線を左右へと降り、ようやく目の前の紫を見た。

「八雲紫!?」
「貴女は久しぶりね。元気にしてたかしら?」

 うろたえる慧音と愉快そうに目を細めて笑う紫を交互に見て、シンはおずおずと声をかける。

「あんたが、八雲紫……さん?」
「別に呼び捨てにしても構わないわ。それと、さっきはごめんなさいね。式の無礼もあったことだし、お詫びと
して夕餉くらいは振舞ってあげたいのだけど」
「えっと……」
「そんな気遣いはいい。それよりも話とやらはどうなった?」

 どう返すべきかと悩むシンに代わり、冷静さを取り戻した慧音が割って入る。
 妖怪の住まう場所は自然と障気が溜まりやすい。ただの人間であるシンが長くここに居ると影響を受けかねな
いという判断からの行為だった。

「つれないわねぇ。まぁいいわ、詳しいことは霊夢から聞いて頂戴。今から帰してあげるから」

 さっと紫が手を振ると、に切れ目のようなものが浮かび広がる。中には、ここにやってくるときに見た目が
そこかしこに浮かんでいた。さぁどうぞ、と言うように紫は空間の方へ導くように手を差し出す。
正直自分から進むのは気が引けるシンだったが、だからといってそんな理由で慧音に先に行かせるというのも
選べずおっかなびっくりな足取りで隙間へと足を踏み入れる。

「あぁ、そういえば忘れていたわ」

 慧音も隙間の中に入ったところで思い出したかのように紫が言う。

「――ようこそ、シン・アスカ。私たちは貴方を歓迎するわ」

 その笑顔に言葉とは別の何かを感じたシンだったが、それが分かる前に隙間が閉じられた。

「とりあえず、あんたしばらく人里にいなさい」

 神社に戻ったシンは開口一番にそう言われ、「さぁ帰った帰った」と言わんばかりに手を振られた。

「ちょ、ちょっと待て! 理由くらい教えてくれてもいいだろ?」
「シンの言うとおりだ。向こうでもろくな説明をされなかったのだ。詳しいことは霊夢から聞け、と」
「あいつ……本当に全部こっちに投げっぱなしか」

 いらついた口調で言いつつもめんどくさそうに口を開く。

「今のところ、あんたの帰し方をどうしたらいいか分からないのよ。私にも初めてのことだからこれ以上のこと
は言えないわ。とりあえず方法はこっちで当たっておくからその間は極力人間の里から出ないようにしなさい。
でないと死ぬわよ」

 最後の何気なく放たれた一言にシンは自分の身が置かれている状況を再認識した。藍から言われた『部外者』
という言葉を思い出す。

「そう、だな……」

 自分の常識が通用しない危険な場所。頼れる者も少ない。そんな状況もあり、シンは例えようのない孤独感
と疎外感を覚えていた。

「シン? 大丈夫か?」
「あぁ……」

 心配する慧音に返す言葉も虚ろだった。すぐにでも元の世界に戻れるのならいいが、いつになるのかも分から
ないときた。不安にならないわけがない。

「あ、それと一週間に一度はここに来なさい」
「……え?」
「ここにいる間はできる限りのことはするわよ。あんたに憑いた障気を祓ったりね。まぁ、その代わりにお賽銭
ははずんでもらうから」

 屈託のない笑顔。図々しいその要求に突っ込む気力もなかったが、その前の言葉に沈んでいた心がわずかなが
ら救われたように感じた。

「紫たちがあんたに何を言ったかは知らないけど、幻想郷はすべてを受け入れる場所よ。残酷なほどにね」
「すべてを、受け入れる……」
「だからあんたもそんなに心配することなんてないわよ。生きてればなんとかなったり、なんとかしてくれるの
と出逢えるはずよ。現に、あんたのために動いてくれているのだっているわけだしね」

 霊夢の視線の先にいる慧音が頷く。
 今日一日、ずっと自身の身を案じてくれた存在が確かにここにいたのだ。

「何かあったらまたいつでも来なさい。お茶くらいなら出してあげるから」

 去り際に告げられた巫女の言葉に、シンは深く頭を下げて神社を後にした。

「……しばらくこのまま、様子を見るわ」
「そう、よかったわ」

 満足気に笑う紫の態度に違和感を覚え、眉根を寄せる。

「何よ?」
「別に? 霊夢が私の意見を受け入れてくれて嬉しいだけよ」

 そして笑いながら、妖怪はうっすらと目を細く開く。

「――彼が、幻想郷に穢される可能性を承知の上でね」

 その言葉に、ようやくこの妖怪がわざわざここまで動いたのかを察した。
 それに気付いたのかさらに愉快そうな声で紫は語る。

「貴女も気付いたでしょう? 彼はそこらの人間とは違う質の業を抱えてここに来た。多くの命を奪い、身近な
者を失った者特有の業をね。彼、いったいどうなるのかしらね? 末は鬼かしら? 案外あの吸血鬼のお嬢様が
気に入って同族にでもするかもしれないわね」

 こちらの反応を窺うように次々と言葉を放ってくる。からかうような口調は明らかにこちらを苛立たせようと
する響きがあった。
 要するに、この妖怪はこれがしたかったのだろう。半分は言葉の通りの期待を込めているようだが。
 ――だが、そのことに関しては何も言うことはない。
 いくら八雲紫が比較的人間に好意的な珍しい者であるとはいえ、根は人を食う妖怪であることに変わりはない。
 妖怪は人間を襲い、そして存在を脅かす。
 そうすることで妖怪という種は自らの存在を維持し続けてきた。それはこの幻想郷が出来る前からの話だ。
 だから何も言わない。ただ、自分への当てつけのような言い分にだけ呆れた声で返す。

「それを言うためにわざわざ来たわけ?」
「理由なんてそれで十分じゃない。私が人間に興味を持つことなんて面白いか否かよ」

 勝手な言い草もいつものことだ。それは気にしない。
 だが、

「そう都合よく思い通りになるかしらね」
「あら? 何か思うところでもあるの」
「そんなのあるわけないじゃない。ただ、なんとなく別に大したことは起こらないんじゃないかって思っただけよ」

 その言葉に、目の前の紫だけでなく自分が驚いた。
 本当に何気なく出た言葉。しかし何故かとてもしっくりくるものがあった。

「――いつもの勘?」

 探るような紫の言葉と視線を肩をすくめてやり過ごす。自分の発したことでも分からないことは分からない。

「……まぁいいわ。二人を連れてくるわね。あとはよろしく」

 そして紫は忽然と姿を消す。
 後に残されたのは自分と中身の空になった湯呑が二つ。
 そして、

「……どっちに対する暗示かしらね」

 卓袱台の中央に置かれた、茶柱の立った湯呑だけだった。

 ――そんなこんなの出来事から数えて、早二ヶ月ほどの月日が経った。
 結論から言えば、彼を帰す方法などさっぱり見つからない。一応神社の資料などを調べてはみたのだがそう
都合よく見つかるわけもなく三日で諦めた。
 紅魔館の大図書館にならそういったものがあるかもしれないが、さすがに魔法のことは専門外だ。
 知り合いの魔法使いもそういったものは知らないらしい。まぁ期待などしていなかったが。
 対してシン自身の身の周りも大きく変わったことはひとつだけ、あの九十九神の存在だけだった。
 異変らしい異変もその件を除けば起こっておらず、細々とした騒動にこそ巻き込まれてはいたようだが見ての
通り五体満足で日々を過ごしている。紫の期待も大外れといったところだ。

「な、なんだよ?」
「別に。平穏すぎるのも退屈かもねって思っただけ」

 一応警戒はしていたというのにあまりの肩すかしっぷりに軽くどうでもよくなったというのが本音だった。
 彼がこの地に長く住まうにしろ元の世界にある日突然帰ることになるにしろ、異変のようなことが起きなけれ
ばそれでいい。

「――あら、これはこれはお揃いで」
「え? ってうわぁ!?」

 振り返ったシンが飛び退いた。ため息ひとつ漏らして声の主に告げる。

「たまには横着せずに階段使って来なさいよね」
「必要がないもの」

 あっさりとそう言いのけて女性――八雲紫がシンが座っていた空間に収まる。

「貴方も座りなさいよ。一人で突っ立っているのも変でしょう?」
「その原因がそう言うか」
「大袈裟ねぇ、私はいつも通りにここに来ただけなのに」

 何にしろ心臓に悪いからやめろと言いながらやや紫から距離を置いてシンは再び対面に座る。

「どう? 身体の調子は?」

 先ほど自分がした質問と同じものを紫は言う。対する答えもほぼ同じだった。

「残念だったわね、期待はずれだったみたいよ」
「……えぇ、そうね」

 何か含みを持った言い方だったが、それを考える前にシンが身を乗り出してきた。

「ちょっと待て、何だよ期待って」
「貴方が何人の女の子と関係を持つかって話」

 紫の唐突な発言にシンは茶を噴き出した。危うく自分までまったく同じことをしてしまいそうだった。

「竹林の不死者に人里の半人半獣に……貴女も含めていいのかしら霊夢?」
「知らないわよそんなこと!」
「というか何だその人を節操なしみたいに!?」
「あら? あの吸血鬼のところへ行っているのも逢引のためと聞いたのだけど」
「誰から!?」
「あぁ、よく考えたら最初に言ったのは私だったわ」
「あんたって人はぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」

 頭を抱えて叫ぶシンを横目に、再び縁側から見える幻想郷を見下ろす。
 こうして彼がやってくるのもすっかり習慣のひとつのようになっていた。
 今ではただ共にお茶をするだけの日がほとんどだが、こういう決まって誰かと過ごすことなど今まであった
だろうかと考える。
 我ながら自分らしくないかもしれない。だが確かに、はっきりと感じることがある。

「……ま、こういうのも嫌いじゃないわね」

 二人に聞こえることなくそう呟いて、紫に翻弄されるシンを眺めていた。

「――おかえりなさいませ、紫様」
「ただいま藍」

 唐突な出現に眉ひとつ動かすことなく、八雲藍はすでに用意していた徳利から盃に酒を注ぐ。

「今日はどちらへ?」
「霊夢のところよ。少し用があったのだけど、ちょうど都合よく彼もいたわ」
「……例の少年ですか?」
「えぇ」

 盃が空になった直後にまた新たな酒が注がれる。こういった嗜好品や食料は藍が人里へ出向き買ってくる。
紫のように年季を重ねた妖怪は滅多に人を襲わない。まったく人を食らわないというわけではないが、普段は
こうして人間の口にするものを嗜むことも少なくない。

「藍は彼と会ったとき、どう思ったのかしら?」
「そうですね……ありていに言ってしまえば他の者と変わらないただの人間です。特筆するべき能力などは持た
ず、我々にとって害をなす存在には成りえないほどにか弱い存在です」

 ですが、と間を置いて藍は率直に告げる。

「それだけに、奇妙だと」
「そうね、私もそう思うわ」
「彼はあまりにも幻想郷に馴染み過ぎています。それも力を持たぬ人間のまま……あの九十九神のせいでしょうか?」
「無関係とまでは言わないけど、影響は低いでしょうね。彼女もあのとき力の大半を失ったもの」
「ではいったいなぜ?」
「さぁ、それはまだ分からないけど……」

 盃を置き、月を眺めながら声にかすかな喜悦を乗せて言う。

「――存外、楽しめそうね」

 正直に言えば、霊夢に言ったようにあっさりと人成らざる者へとなるだろうと考えていた。だがそんな兆候は
まるでなく、それどころかほぼ変化らしい変化は見られない。せいぜいあの九十九神が憑いた程度だ。

「少し行ってくるわ」
「今からですか? どちらへ?」

 空間に隙間が現れ、左右に広がる。その中に足を踏み入れながら背後の藍に言葉を返す。

「――頼りになる旧い友人のところよ」

 藍が深々とお辞儀をするのを見届けて隙間を閉じる。

 そして目の前に、美しい桜の木が現れた。

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最終更新:2011年01月22日 08:58
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