――数百年前・月面
単刀直入に言えば、彼は死にかけていた。
満身創痍の身体は鉛のように重く、傷口から溢れ出る大量の血が全身を真っ赤に染める。眼は霞み、手足の感覚すらない。
だが、彼は止まらない。朦朧とする意識を気力で繋ぎとめ、限界などとうに超えた身体を無理矢理動かして狂ったように戦い続けた。
敵のどてっ腹に銃剣を突き刺し、柄の根元にあるトリガーを引く。瞬間、零距離で放たれたビーム光弾が敵を撃ち抜いた。一発、二発。
断末魔の絶叫が耳をつんざき、漂う肉の焦げる匂いに吐き気が込み上げる。
辺りはまるで地獄のような有様だった。
荒涼とした大地には見渡す限りに血の海が広がり、散乱する肉片の山は最早敵の死骸か味方の亡骸かも分からない。
動きを止めた彼の隙を衝き、周りの妖怪達が一斉に襲いかかった。四方から殺到する弾幕から、彼は串刺しにした敵の死骸を盾にして身を守る。
同時に銃剣のエネルギーをチャージ。弾幕に撃ち抜かれ、盾としての機能すら失った肉塊を放り捨て、彼はトリガーを引き絞った。
瞬間、銃剣から放たれた大火力のレーザー光線が、周囲の敵を消し炭に変えた。足元に転がる肉塊に銃剣を突き立て、彼は獣のように咆哮を上げる。
その時、爆炎の中から金色の影が突如彼に襲いかかった。九本の尻尾を生やした狐の妖怪である。
瞬く間に距離を詰め、九尾の妖狐が彼に肉薄。鋭い爪の生えた右手が彼の腹を貫いた。おびただしい量の血が口から吐き出され、銃剣が手から滑り落ちる。
殺ったか? 右手に感じる確かな手応えに、妖狐は勝利を確信した。だが次の瞬間、まるで太陽のように激烈な光が妖狐の網膜を焼いた。
銃剣を手放した彼の右掌に、霊力の光が集束している。拙い! 妖狐は咄嗟に彼から離れようとした。が、引き抜こうとした妖狐の右腕を、彼の左手ががしりと掴まえる。
「吹っ飛べ……!」
血の気の失せた顔をにやりと歪め、彼は右手を妖狐に叩きつけた。瞬間、光が――爆ぜる。
眩い光が妖狐の視界を真っ白に染め上げる。だがそんな中で、自身を見据える彼の真紅の双眸だけは、彼女の眼に焼きついて離れなかった。
結果として、地上の妖怪・八雲紫による月面征服計画は、たった一人のイレギュラーによって失敗に終わった。
月侵略のために用意した妖怪軍団を壊滅させ、自らの計画を台無しにした謎の月人を、紫は畏怖と屈辱を込めて“月の獣”と名づけ、いつの日かの復讐を誓った。
そして、数百年後――。
東方儚月抄異伝~ツキノケモノ~
第一話「楽園の女狐」
「――レミリアさん。月面旅行に興味はありませんか?」
紅魔館を訪れるや、八雲紫の式――九尾の狐の八雲藍は、開口一番にそう切り出した。突然の藍の言葉に、吸血鬼・レミリア=スカーレットの眉がぴくりと動く。
「話を聞いてあげないでもないわよ?」
傍に控えるメイド――名前を十六夜咲夜という――に紅茶の用意を命じ、レミリアは藍に話の続きを促す。
ちょろいな。レミリアが食いついたことに内心ほくそ笑みながら、藍はゆっくりと語り始めた。
月の都には、毎日遊びながら無限のエネルギーを得られるような技術がある。それは幻想郷の外の世界や、中途半端に外の世界を真似た天狗や河童の技術とはまるで違う。
藍の主人・八雲紫は停滞してしまった幻想郷の妖怪の生活向上のため、月の技術を盗み出して妖怪の技術に活かしたいのだという。
「実は紫様も数百年前に一度、その技術を奪おうかと思って月に行ったのですが、その時は「不慮の事故」で手に入れることはできなかったのです」
不慮の事故、ねぇ? 藍の科白をレミリアは鼻で笑った。
「聞いたことがあるわ。月の民にコテンパンにされて逃げ帰ってきたんですってね? ――何で今更そんな計画を持ちかけてきたの?」
レミリアの問いに、藍は人のよさそうな微笑を浮かべる。あ、これは誤魔化してくるな。レミリアが直感的にそう判断する中、藍は口を開いた。
「簡単な話です、あの頃に比べて妖怪の数が増えたからですよ。皆が協力してくれれば、今度は負けることはないでしょう。そう――」
不意に藍の顔から笑みが消えた。まるで仮面のような無表情で、しかし眼だけは激情に燃えている。今まで見たこともない藍の顔だった。
「――今ならあの忌々しい“月の獣”を狩れる。今度こそ、必ず……!」
ぽつりと紡がれた藍の呟きは、きっと誰にも聞かせるつもりのないただの独り言。だがレミリアの耳には、はっきりと届いていた。
「……どんな計画か、詳しく聞かせてくれないかしら?」
レミリアの言葉に、藍はハッと我に返ったように顔を上げた。「失礼しました」と恥ずかしそうに謝罪し、藍は計画の概要を話し始める。
計画を実行するのは今年の冬、満月の夜。紫の能力で湖に映った幻の満月と本物の満月の境界を弄り、月の都と幻想郷を繋げる。
レミリアの役目は、紫が結界を見張っている間に月の都に忍び込み、めぼしい物を盗み出してくることだという。
「何それ。私に空き巣をやれって言ってんの?」
不満そうに口を尖らすレミリアに、藍は「あはは」と苦笑いを浮かべる。返す言葉もなかった。
その時、レミリアが何か思いついたように「あ」と声を上げた。
「ちょっと訊きたいんだけどさぁ――」
藍の眼を覗き込むように身を乗り出し、レミリアはにやりと意地の悪い笑みを浮かべる。
「――忍び込むのは構わないんだけど、別にそのまま乗っ取っちゃってもいいわよね?」
藍は思わず息を呑んだ。レミリアの真紅の双眸が藍の眼を射抜く。
レミリアの言葉、それは紫への露骨な挑戦だ。かつて紫が失敗した月の侵略、それを自分ならば成功させると言っているのである。
数秒の沈黙の後、藍はにっこりと笑った。レミリアにとっては肩透かしの反応である。
「ええ。ご自由に」
「……言質は取ったわよ?」
念を押すレミリアに笑顔で頷き、藍はソファから腰を上げた。
「さてさて、では私はお暇させて頂きますね。これでも忙しい身分なので。――ああ、そうそう」
まるで何かを思い出したように、藍がレミリアを振り返る。
ぞっとするような笑顔だった。細められた双眸はギラギラと輝き、溢れ出る殺気を隠そうともしていない。
「――月を征服するのは構いませんが、紅い眼の月人には手を出さないで貰えますか? アレは私の獲物なので」
「あら? 私を脅すなんていい度胸してるじゃない」
「いえいえ。これはただのお願いですよ。私の個人的な、ね」
人を食ったような笑顔でぺこりと一礼し、藍は咲夜に連れられて退室した。応接室に残ったのはレミリアと――もう一人。
「……今の話を聞いた? パチェ」
声を落として囁きかけるレミリアに、彼女の腹心である魔法使い・パチュリー=ノーレッジが無言で頷く。
「月の獣、紅い眼の月人……。どうやらあの女狐は随分とそいつにご執心みたいね」
「……どうするつもり? レミィ」
淡々とした声で尋ねるパチュリーに、「決まってるじゃない」とレミリアは笑う。
「月の都に攻め込んだら、真っ先にその“月の獣”とやらを探し出してボッコボコにしてやるわ!」
天井を指差して高らかに宣言するレミリアに、パチュリーはこっそり溜息を吐いた。
現代の裏側に存在する楽園、幻想郷。結界で隔てられたこの世界には、妖精や妖怪、神などによる様々な勢力が存在する。
まず紅魔館。白玉楼の亡霊姫・西行寺幽々子が治める冥界。天狗や河童が支配する妖怪の山。他にも天界、地底、彼岸など、数え始めたらキリがないだろう。
勿論、結界を守護する幻想郷の要、絶対中立の博麗の巫女も忘れてはいけない。
幻想郷を文字通り飛び回り、藍が各勢力との交渉を終える頃には、夜もすっかり更けていた。
「お帰りなさい、藍しゃま! ご飯にしますか? それともお風呂にしますか?」
交渉の結果を主人である紫に報告し、重い身体を引きずって邸に帰宅した藍を、猫又の少女が出迎えた。藍の式・橙である。
「ただいま、橙。そうだな……疲れたし、今日はまず風呂にするよ」
暫しの黙考の後に答える藍に、橙は「あいっ」と満面の笑顔で頷く。橙の頭をくしゃりと撫で、藍は風呂場へ足を進めた。
脱衣所で服を全て脱ぎ去り、白い裸身が露わになる。豊かに実った胸の谷間、絹のように細やかな肌には、痛々しい大きな傷跡があった。
数百年前、月面での戦いで負った古傷である。
(布陣は済んだ……)
たっぷりと湯の張った浴槽に身を沈め、藍は黙考する。
紅魔館は協力を確約してくれた。白玉楼も恐らくこちら側につく。博麗の巫女は紫が直々に鍛えている。竹林の月人達も動き出した。言わば盤上に駒が出揃った状態である。
ならば後は、駒を動かすだけだ。藍は胸の傷痕を指先で撫でた。始まるのだ。数百年前の戦いの続き――第二次月面戦争が。
(待っていろ。獣め……)
思い出すのは真紅の双眸。数百年前、深手を負いながらも毅然と睨み返してきた強い瞳。藍はあの眼を、欲しいと思った。
(貴様を屈服させ、私の前に跪かせてやる……!)
雪辱に燃える藍の顔は、どこか恋する乙女にも似ていた。
――続劇
最終更新:2011年02月15日 16:17