――紅魔館地下・大図書館
きたるべき月侵略に向けてパチュリーを中心にして秘密裏に建造が続けられるロケットは、間もなく完成しようとしていた。
ロケットを構成する三段の筒は住吉三神とも呼ばれる三柱の航海の神、上筒男命・中筒男命・底筒男命をそれぞれ意味している。
そして博麗の巫女・霊夢が住吉三神の力を借りることによって、ロケットは宇宙への渡航を可能にするのだ。
そのためロケットの表面には神社を象った意匠が多数散りばめられ、更にはパチュリーオリジナルの魔術的な装飾まで追加されている。
和様折衷と言えば聞こえはいいが、実際のロケットを知る者から見れば、その外見は奇怪極まりないものだった。
訳あって月の都から脱走し、今は竹林の診療所「永遠亭」で働く兎・鈴仙もまた、その一人だった。
「っはははは! 何これぇ?」
大図書館の中央に鎮座するロケットを見上げ、鈴仙は腹を抱えて爆笑した。
偵察のためにわざわざ紅魔館に忍び込んでみたが、これはひどい。こんなロケットで月に辿り着く筈がない。
だが彼女が師匠と慕う女性――「月の頭脳」の異名を持つ賢者・八意永琳の見解は違った。
「……ほぼ完璧ね」
真面目な顔で呟く永琳に、鈴仙の表情が固まる。
「誰の入れ知恵か知らないけど、住吉三神のご加護があるのなら間違いなく月に辿り着けるでしょうね。……余程のことがない限り」
淡々と紡がれる永琳の科白に、鈴仙は絶句する。
「……今の内に壊しておきます?」
「そうね。直しておきましょう」
真剣な表情で囁く鈴仙に、永琳はそう言って、懐から一枚の布切れを取り出す。布切れは風もないのに宙を舞い、ロケットの先端に貼りついた。
「月の羽衣の切れ端……。あの布が月まで導いてくれるわ。これでこのロケットは、余程のことがあっても月に辿り着けます」
「え!? 行かせちゃっていいんですか?」
まるで月に辿り着くことを望むかのような永琳の行動と言動に、鈴仙は困惑を隠せなかった。
「……まさか、師匠はあの吸血鬼達が月を侵略することを望んでいるんですか?」
千年前、永琳は罪人の姫を匿い月から出奔した。そのため月の都では、永琳は卑劣な裏切り者扱いされているのだ。
謂れのない誹謗や中傷に、永琳が月の都を恨んでいても何も不思議ではない。そんな鈴仙の不安を、永琳は文字通り笑い飛ばした。
「私は月の都を守りたいだけよ、鈴仙。月の都を侵略しようとしている本当の犯人を見つけ出したいだけ」
紅魔館勢力による月侵略の噂は、既に幻想郷全土で話題になっている。だが永琳は、吸血鬼の背後に黒幕がいると睨んでいる。
レミリアを裏から操り、本当に月を攻めたがっている黒幕。もっとも、それが誰かは今更考えるまでもないのだが……。
東方儚月抄異伝~ツキノケモノ~
第二話「表の顔、裏の顔」
月における月の都は、地上での幻想郷と同じ関係にある。
結界によって月は表と裏に分けられ、裏側の月、つまり結界の内側は穢れのない海と豊かな都の美しい星だが、表側は生命のない荒涼とした星だ。
月の都の労働力は、その大半を兎に依存している。例えば餅搗き。薬草の入った餅を搗き、それを丸めて捧げ物とすることで穢れを祓うのだ。
そして月の都を防衛する兵士としての仕事もまた、兎の大事な役目である。
月の使者のリーダー、綿月姉妹配下の兎達は、きたるべき地上との戦争のために日々過酷な訓練を続けている――筈なのだが。
「ふわぁあああ……」
気の抜けた声が練兵場に響き渡る。芝生に寝転がり、大きくあくびする兎が一匹。
否、彼女だけではない。ある者は雑談に興じ、またある者は桃をかじり、真剣に訓練する者など一人も――否、一匹もいない。
「……随分と退屈そうだなぁ? オイ」
不意に頭上から降ってきた低い声に、兎達の表情が凍りついた。ギギギッ、とぎこちない動作で顔を上げると、上空に見慣れた人影が一つ。
人間だ。兎達と同じ紺色のブレザーの上に、まるで血のように赤い詰襟の上着を羽織った青年である。空中に浮き、真紅の双眸で地上の兎達を見下ろしている。
「ど、どうもぉ……。アスカ様」
誤魔化し笑いを浮かべて手を振る兎達に、アスカと呼ばれた青年――シン・アスカは小さく鼻を鳴らし、芝生の上に降り立った。
「そんなに暇なら、俺と模擬戦につき合ってくれないか? 何、軽いもんだろう? 依姫の地獄みたいな訓練メニューをこなして、まだそんなに元気が有り余ってるんだからな」
口元をにやりと吊り上げるシンに、兎達の顔から血の気が引いた。怠けていたのが完全にバレている。足音を聞かれないように空から近づき、ずっと監視していたのだろう。
「あ、あんた最初にいきなさいよ」
「嫌よ! あんたこそお先にどうぞ」
不毛な押しつけ合いを始める兎達に、シンは溜息。愛用の銃剣を腰の鞘から引き抜き、狼狽える兎達を見渡しながら再度口を開く。
「……面倒だ。お前ら全員まとめてかかってこい」
兎狩りが始まった。
「――シン、あんたまたうちの兎をいじめたんですってね? 玉兎のリーダーから苦情がきたわよ」
逃げる兎達を一匹残らず叩きのめし、帰邸したシンを待っていたのは、そんな叱責の声だった。
門柱に一人の女性が腕を組んで寄りかかり、憮然とした顔でシンを睨んでいる。月の使者のリーダーの一人、綿月依姫である。
「拙かったか?」
悪びれもせずに尋ねるシンに、依姫は溜息混じりに「手ぬるいのよ」と答える。
「やるんだったら泣き言なんて言えないくらい徹底的に叩きのめしなさい」
「おお、怖い怖い」
自分などよりも余程スパルタな依姫の科白に、シンは大仰に肩を竦めた。
「真面目な話、今のあいつらは全然使い物にならないぞ? 今日だって、八対一だったのに俺一人無力化できないなんて酷すぎる」
「そんなに酷いの?」
剣呑な目つきで問う依姫に、シンは真剣な顔で「ああ」と頷く。
「練度も低いし、チームワークもバラバラ。挙句、敵前逃亡。戦力には到底数えられんよ」
シンの報告に依姫は「うわぁ」と頭を抱えた。話を聞く限り、確かに実戦では到底使えそうにない。
数百年前の戦いで、月の使者は戦力の多くを失ってしまった。今、依姫が擁する兎達は、当時の戦いを知らない新しい世代ばかりである。
かつて地上との戦争を恐れて月から逃亡した兎がいた――名前をレイセンといったか――が、今思えば彼女が一番マシだったかもしれない。
「「………………」」
重い沈黙が二人の間に降りる。不穏な噂が月の都で飛び交い、地上からの侵略の兆しすらある今、月防衛の要である兎達がこの有り様など話にもならない。
「兵隊なんてのはな」
シンがおもむろに口を開いた。
「無駄飯食らいとか揶揄されて、ありもしない戦争に怯えながら延々と演習だけ続けてるのが一番幸せなんだよ」
「何それ? そんなのただの昼行燈じゃない」
「昼行燈でいいじゃないか。ただしその昼行燈は、昼だろうと夜だろうと絶対に灯を絶やさない。他の誰もが気を緩めきっても、そいつだけは絶対に緩めないんだ」
そんなものだろう、軍人なんて。同意を求めるようなシンの言葉に、依姫は「ええ」と頷いた。
「でも余裕は必要だと思うわよ? 張ってばかりだといつか切れてしまうじゃない」
「じゃあ兎どものアレは余裕か?」
「うんにゃ、アレはただの油断」
シンと依姫は揃って溜息を吐いた。その時、重苦しい空気を払拭するように朗らかな声が二人の耳を打った。
「あらあら、依姫とシンじゃない。二人ともそんなところで何してるの?」
振り返ると、両手に桃を抱えた女性がにこやかな笑顔で二人を見ている。依姫の実姉でシンの直属の主人、豊姫だ。
「そう言えばシン、聞いたわよ? あなたまた兎をいじめたんですってね。駄目よぉ? 意地悪しちゃ」
まるで子供の悪戯を叱るような豊姫の言葉に、シンと依姫は揃って頭を抱える。
建前上、月の使者のリーダーは豊姫と依姫の二人ということになっている。だが実質的なトップは豊姫なのだ。
だというのに、この暢気さ。緊張感のなさ。月の使者の先が思いやられた。
「あ、そうだ。二人とも桃食べる? 庭に成ってたのを採ってきたの」
「いえ、結構ですっ! 玉兎達の稽古があるのでこれで失礼します!」
天真爛漫な笑顔で桃を差し出す豊姫に、依姫は顔を紅潮させ、くるりと踵を返して足早に歩き去った。
「何を怒ってるのかしら? あの娘」
「そりゃ怒るでしょうよ」
桃を片手に首を傾げる豊姫に、シンは大きく溜息を吐く。
「……確信犯なんでしょう? どうせ」
「まぁね。あの娘っていじると楽しいんですもの」
可愛らしく舌を出す豊姫に、シンは再び溜息。依姫の苦労が偲ばれる。
「――さて」
依姫の背中が完全に見えなくなったことを確認し、豊姫が口を開いた。天真爛漫な笑顔は、既に消えている。
「兎達のことは依姫に任せるとして、私は「貴方自身の報告」を聞こうかしら?」
そう言って豊姫がシンに向けるのは、刃のように鋭い視線。氷のように冷たい表情。先刻とはまるで別人である。
しかし豊姫の突然の変貌に、シンは慌ても騒ぎもしない。まるでそれが普通であるかのように自然体で口を開く。
「やはりいましたよ。混乱に乗じて勢力拡大のためにこそこそと動き回る連中が。中にはあんた達の代わりに月の使者の実権を握り、地上侵攻を企む馬鹿どももね」
もっとも今頃は全員海の底ですがね、と嗤うシンに、豊姫も平然とした顔で「そう」と相槌を打つ。
想定の範囲内だ。元より「そうする」ように命じたのは、他でもない豊姫自身なのだから。
表向きは豊姫の側近として身の回りの雑用をこなす一方で、シンは豊姫の指示で汚れ仕事を引き受ける暗部でもある。これは依姫も知らない、シンの裏の顔だ。
月の民は穢れを嫌う。だが、元々月の人間でないシンならば、幾ら返り血を浴びたところで大した問題ではない。豊姫に躊躇う理由はなかった。
一方シンとしても、豊姫の駒として使い潰されることに特に不満はない。元より兵士はただの駒だ。優秀な軍師に使われるならば兵士冥利に尽きるというものだろう。
「あの娘――依姫はね、とても高潔なのよ。でも高潔すぎて、人が本質的に持つ悪意というものを知らない。おかしいわよね? 月でも地上でも、人は人でしかないのに」
この場にはいない妹を想い、愛おしむように語る豊姫に、シンも無言で首肯する。依姫の注意は地上の敵にのみ向けられている。だが、敵は月にもいるのだ。
月の民を信じる依姫は、身近に潜む敵の存在に気づいていない。その愚直さは好ましくもあるが、同時に依姫の危うさでもあった。
今、綿月姉妹は微妙な立場にある。最近、月の都でまことしやかに囁かれる謀反の噂。その首謀者として、綿月姉妹の名が挙げられているのだ。
そして月で頻発する不可解な事件。表の月に刺さっていた人間の旗の消失、何者かによる神々の召喚。神霊の使役は依姫の十八番である。
更に綿月姉妹は、かつて月を裏切り、地上へ逃げた賢者・八意永琳の弟子でもある。謀反の首謀者として疑われるのは当然のことであった。
自分達に向けられる疑念や誹謗中傷を、依姫は気にしていない。根も葉もない噂など、真実さえ暴き出せば瞬く間に立ち消えると信じているのだ。
そして真実とは、すなわち自分達の潔白に他ならない。依姫の態度は超然としたものだった。
だが現実は、依姫が考えるほど単純ではない。真実など関係なしに、名目さえあれば人は動くのである。
穢れも争いもない楽園、月の都。しかしその実態は地上と何一つ変わらない。それも当然だ。どんな時代でも、どんな世界でも、人は人でしかないのだから。
それが表の月での戦いに敗れ、“デスティニー”とともに月の裏側に墜ちたシンが、数百年をかけて辿り着いた結論だった。
「――あ、ところでシン。桃食べない桃?」
「カリスマブレイク早ぇなオイ」
何事もなかったかのように朗らかな笑顔で桃を差し出す豊姫に、シンは呆れたように溜息を吐く。今までのシリアスな空気が台なしだ。
取り敢えず、月の都は平和だった。少なくとも、今はまだ。
――続劇
最終更新:2011年02月15日 16:41