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第一話「イナバの悪夢」

 静寂に支配される荒涼とした大地。見渡す限りに広がる、吸い込まれてしまいそうなほどの暗闇。そして天上に大きく輝く青い星――地球。
 月面。穢れなき月の民と兎達が住まう楽園。しかし結界から一歩外に出れば、そこは生命のない死の世界である。

 はっ、はっ、はっ、はっ……! 闇と静寂に支配された表側の月に、荒い息遣いが規則的に響く。荒涼とした月面を駆ける一つの影があった。兎だ。
 彼女は脱走兵だった。月と地上を繋ぐ役目を担い、月の都の防衛を任される「月の使者」の一員でありながら、都で囁かれる戦争の噂に怖気づいて逃げ出したのだ。

 月と地上を行き来できる羽衣を盗み出し、警備の目を潜り抜けて都から脱出するまでは順調だった。
 だが不運なことに、彼女は最も気づかれてはならない相手に脱走を気づかれてしまった。ケチがつき始めたのはそこからである。最悪の死神が彼女の追っ手に放たれたのだ。

 ガリッ、と砂利を踏む音が背後から彼女の耳を打つ。頭の中でひっきりなしに鳴り響くレッドアラート。心臓が破裂しそうな勢いでバクバクと鼓動する。奴だ、奴が来る!

「あっ――!」

 小石に躓き、彼女はもんどりうって地面に転倒した。刹那、無数に放たれたレーザー光線が雨のように頭上から降り注ぎ、羽衣をズタズタに引き裂く。
 羽衣が! 彼女の口から悲鳴が漏れる。直後、再び降り注ぐ光線の雨。地面を転がって光線を躱し、彼女はクレーターの陰に逃げ込んだ。
 クレーターの淵からそっと顔を出し、外を窺う。見えた。血に染まったように真っ赤な衣。片手に携える無骨な銃剣。刃物のように鋭い眼光に、爛々と輝く紅い瞳!

 都の月人達は知らないだろう。ただの綿月家の小間使いと侮られるあの男の本性を。だが兎である彼女は知っている。
 月の兎にはテレパシーを利用したネットワークがあるのだ。兎は月人の奴隷だ。どこにでもいる。都の中に兎の眼のない場所などありはしない。
 だから兎達は知っている。奴の正体を。ただ怖くて口を噤んでいるだけだ。

 粛清者。キリングマシーン。穢れた悪魔。綿月姉妹の鬼札。皆殺しフィーバー。
 死と穢れの化身。月の秩序を守るためならば月人さえも平然と殺す大罪人――月の獣!

 どうする? 着々と近づく死神の足音に震えながら彼女は自問した。このままでは殺される。あの狂犬は月人すらも平気で殺すのだ。ただの兎など生かしておく筈がない。
 月の羽衣は破かれてしまった。もう逃げ場はない。絶望的だ。このまま潔く殺される? 嫌だ、死にたくない。ならばどうする? どうやって生き残る?

 彼女は震える身体を両手でぎゅっと抱きしめた。震えは止まらない、だが少しだけ勇気が湧いた。彼女は意を決してクレーターから飛び出し、追跡者と正面から対峙した。
 このまま何もしなければ殺されてしまう。震えているだけでは生き残れない。だから彼女は決意したのだ。生きるために――月の獣を狩ることを!

「うおおおおっ!!」

 勇ましい雄叫びを上げ、彼女は右手を拳銃のように突き出した。指先に光が集束する。が、それが放たれることはなかった。
 闇を切り裂き、槍のように突き出された鋼の切っ先が彼女の肩を貫く。激痛が走り、まるで糸が切れたように右腕がだらりと下がる。
 神経が切断されたのか、指先一つ動かせない。痛みと焦りに顔を歪める彼女に、紅い影が肉薄。次の瞬間、再び突き出された銃剣が彼女の胸を貫いた。




 東方儚月抄異伝 第二部~月の獣と地上の月兎~
     第一話「イナバの悪夢」




「――いやああああああああああああああっ!?」

 鈴仙は悲鳴を上げながら布団から跳ね起きた。反射的に胸に手を当てる。どくどくと掌に伝わる心音。大丈夫、私は生きている。乱れた呼吸を整え、鈴仙はほっと安堵した。
 酷い夢だった。鈴仙は掌で顔を覆い、重い溜息を吐く。ずっと昔、まだ月で「レイセン」と呼ばれていた頃の記憶だ。最近は夢に見なくなっていたのに、何故今頃になって……?

「鈴仙ー? どったの? 何か凄い声が聞こえてきたけど……」

 襖を開けてひょいと顔を出したのは、永遠亭の兎を統括する妖怪兎・因幡てゐだ。鈴仙の同僚であり、先輩であり、そして彼女が心を許せる数少ない友人でもある。

「何でもないわ、てゐ。ちょっと夢見が悪かっただけ」

 憔悴した顔でそう口にする鈴仙に、てゐは「ふーん」と相槌を打つ。どう見ても「何でもない」ような顔ではないが、無理矢理聞き出すのも野暮というものだろう。

「……まぁいいさね。それじゃあ鈴仙、お腹減ったから朝ご飯よろしくー」
「いやアンタも手伝いなさいよ」

 鈴仙が半眼でツッコミを入れるが、そんな抗議も何のその、てゐは涼しい顔で廊下の奥へ消える。鈴仙は大きく溜息を吐いた。まぁいい、いつものことだ。
 永遠亭でも特に新参である鈴仙は、その高い能力にも拘らず兎の中での立場は低い。てゐを筆頭に、兎達の殆どは彼女のことを完全に舐めきっているのである。
 鈴仙は嘆息し、布団から這い出した。寝巻を脱ぎ捨て、仕事着である白いブラウスとグレーのスカートに着替える。

 ネクタイを締め、紺色のブレザーを纏ったその姿は、月の兵士だった頃から何一つ変わらない。今や鈴仙のトレードマークだ。
 姿見に映った自分の格好を丹念に確認し、「よし」と満足げに頷く。準備完了。今日も私は完璧だ。布団を押入れに片づけ、鈴仙・優曇華院・イナバは意気揚々と自室を出た。

 永遠亭。幻想郷の西に広がる広大な竹林・迷いの竹林の奥にひっそりと建つ小さな診療所である。今の鈴仙はそこの助手として働いている。
 厳しくも優しい師匠と奔放な姫、そして多くの仲間達に囲まれた今の生活は、慌ただしく色々と気苦労も多いが、月で兵士として生きていた頃より充実した毎日だ。

 顔を洗い、台所に入った鈴仙の鼻を、食欲をそそるいい匂いがくすぐる。台所には既に誰かが立っていた。長い銀髪を三つ編みにした女性の背中だ。

「おはようございます。師匠」

 鈴仙の挨拶に、その女性――永遠亭の医者兼薬師・八意永琳が、包丁を動かす手を止めて振り向いた。台所の入口に鈴仙を見つけ、「おはよう」と返す。

「私も何か私も手伝いましょうか?」
「うーん……いいわ。もうすぐできるし」

 調理の手伝いを申し出る鈴仙に、永琳はやんわりと首を振った。

「それより優曇華、貴女はお風呂の支度をお願い」
「お風呂ですか?」

 永琳の指示に鈴仙は首を傾げるが、すぐに「ああ」と納得した。そう言えば昨夜は満月だった。「分かりました」と頷き、鈴仙は永琳に背を向けて台所を出た。
 風呂を焚き、着替えを取りに行くべく廊下を進む鈴仙の前に、曲がり角から黒い髪の少女がひょこっと顔を出した。永遠亭の主・蓬莱山輝姫である。

「お帰りなさいませ。姫様」
「ん。ただいま、イナバ」

 うやうやしく頭を下げる鈴仙に、輝夜は上機嫌な顔で頷く。しかしその顔は血や泥で汚れ、服もボロボロだ。まるで殺し合いでもしてきたかのように悲惨な姿である。
 否――「まるで」などではなく、彼女は本当に殺し合いをしてきたのだ。

 蓬莱の薬を飲み不老不死となった輝夜は、同じく不老不死の蓬莱人・藤原妹紅と、遊びと称して定期的に殺し合いをする。
 互いに殺し殺され、殺されては生き返りを繰り返しながら、力尽きるまで延々と戦い続けるのである。満月の夜は殺し合って朝帰り、それが彼女達の習慣だった。

「イナバー、あたし疲れちゃった。お風呂の用意できてる?」
「はい。着替えもすぐにお持ちしますので、どうぞごゆっくり」

 輝夜の問いに、鈴仙はよどみない口調で答える。輝夜は満足そうに頷き、鈴仙の横を通って優雅に廊下を歩き去る。
 脱衣所へ消える輝夜を見送り、鈴仙は輝夜の着替えを取りに行くべく再び廊下を歩き始めた。



 永遠亭での鈴仙の仕事は多岐に渡る。掃除や洗濯はもとより、永琳の補佐として患者の応対や薬の調合、人里への行商や素材の調達など、毎日休む間もなく働き通しだ。
 更に特別な行事などが重なる時には、鈴仙の負担は倍増する。例えばちょうど昨夜に行ったばかりの「例月祭」がそれに当たる。

 例月祭とは月の都から逃げてきた輝夜・永琳・鈴仙達が、自分達の罪を償うために、毎月満月の夜に行っている行事である。
 この時の鈴仙はただでさえ多忙な通常の業務に加え、神への供え物の餅を搗く兎達の指揮や他にも丸い物の調達、祭壇の準備などもこなさなければならないのだ。

 ハードワークどころか明らかにオーバーワークだが、それでも鈴仙が何とか潰れずにやっていけているのは、月での経験が活きているからに他ならない。
 永遠亭の仕事は確かに辛く忙しい。だが銃剣を持った悪魔や神様八百万匹を相手に小銃一本でガチンコを挑むよりはマシだ。そういうことである。

「――優曇華。ちょっといいかしら?」

 例月祭の後片づけを終え、ほっとひと息つく鈴仙に、永琳が竹籠を片手に声をかけた。

「何か薬の素材の採集ですか?」

 竹籠の存在から次の仕事を推測する鈴仙に、永琳は頷く。

「花を摘んできて欲しいの。六十年に一度しか咲かない、迷いの竹林の竹の花を」

 花、と鈴仙は永琳の言葉を口の中で転がす。言われてみれば、どこからともなく甘い匂いが香ってきている気がする。
 そう言えば、以前にも彼女に言われて竹の花を摘んだことがあった。あれから六十年も経っていたのか。

 分かりました、と永琳に頷き、鈴仙は竹籠を受け取った。籠を背負い、鬱蒼と生い茂る竹林の中へ踏み入る。
 一度迷えば二度と出られないと恐れられる迷いの竹林だが、長年竹林に住んでいる鈴仙にとっては今や庭も同然だ。鼻歌を歌い、よどみない足取りで竹林を進む。

 その時、竹林の奥から人の声が聞こえた。誰か迷い人でもいるのだろうか? 鈴仙は首を傾げ、竹の中を分け入りながら声の方へと足を進める。
 そして見つけた。竹林に佇む人影が二つ。鈴仙は声をかけようと口を開き――絶句した。

 二つの人影の内、一人は兎だった。しかしただの兎ではない。鈴仙と同じ紺色のブレザーと、淡く輝く羽衣。月の玉兎だ。
 そして、もう一人。こちらは更に大問題だった。血のように真っ赤な上着。腰にぶら下げた銃剣。そして刃物のように鋭い眼光と、紅い瞳。

 あの悪夢に見た月の獣――シン・アスカが、そこにいた。



 ――続劇

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最終更新:2011年02月26日 14:52
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