――国際宇宙ステーション・コントロールルーム
その奇妙な影がレーダーに映ったのは、グリニッジ標準時間で午前二時を過ぎた頃だった。
デブリだろうか? 片手に握るパック入りのコーヒーを手放し、サムは手元のパネルに指を走らせた。
画面が切り替わり、拡大された外部カメラの映像がモニターに大写しになる。
「サム? 一体どうしたんだい」
サムの行動を不審に思ったのか、同僚のモーリーが横から声をかけた。
「やぁモーリー。いやね、さっきレーダーに妙な影が映ったんだよ」
「妙な影だって?」
モーリーは眉をひそめ、身を乗り出してモニターを覗き込む。画面の真ん中に確かに奇妙な影があった。
サムがパネルを操作して映像の解像度を上げ、不審な影の輪郭が徐々に鮮明になる。
「これは……人間?」
モーリーは思わず呟いた。画面に映し出されたその影は、どう見ても人の姿としか思えなかった。奇妙なスカーフを身体に巻いた、一組の男女である。
「馬鹿な!」
モーリーの呟きをサムは即座に否定した。
「だってここは……高度340kmの宇宙空間じゃないか!」
「じゃあこれは何だって言うんだ! まさか幽霊だとでも言うつもりかい?」
興奮したように怒鳴るサムに、モーリーも語気を荒げる。逃げ場のない宇宙空間における得体の知れない“何か”との遭遇は、二人を恐怖と混乱に陥れたのだ。
その時、モニターに映る人影の片方が動いた。まるでこちらに気づいたように、ゆっくりとカメラへ顔を向ける。――目が合った! 二人の宇宙飛行士は思わず息を呑んだ。
カメラをじっと睨みつけたまま、“彼”は剣のような銃のような、よく分からない武器のような物をこちらに向ける。そして、撃った。
「どうしたんですか、アスカ様ぁ? またデブリですか?」
「……何でもない。それより、もうすぐ大気圏突入だ。舌噛むんじゃないぞ?」
「へーい」
耳障りなノイズと、画面を埋め尽くす砂嵐。モニターは既に何も映していなかった。カメラが破壊されたのだ。
沈黙するモニターを、サムとモーリーは呆然と眺めることしかできなかった。あれは一体何だったのか? その答えが出る日は、恐らく永遠に来ないだろう。
西暦20XX年。人類は新たなフロンティア・宇宙への進出を本格的に検討し始めていた。
凍結されていた月面資源基地計画の再開。最も近い惑星である火星への植民計画と、その第一歩である有人宇宙探査計画の本格化。
人口増加や資源の枯渇など、地球が抱える諸々の問題への打開策として、人は宇宙に希望を見出したのだ。
冷戦から続いた殺伐とした時代は終わり、新たな時代――宇宙時代の始まりである。
その矢先に、新時代の象徴とも言うべき国際宇宙ステーションで起きた幽霊騒ぎは、最終的に計器の故障として処理されたのだった。
東方儚月抄異伝 第二部~月の獣と地上の月兎~
第二話「獣の帰郷」
それは一つの命令から始まった。
「地上へ……ですか?」
怪訝そうな顔で確認するシンに、豊姫は「ええ」と頷いた。懐から一枚の封書を取り出し、シンの目の前に差し出す。
「地上へ赴き、この手紙を八意××様に届けて欲しいの」
「ヤゴコロ……何ですって?」
シンは思わず訊き返した。名前の後半がどうしても聞き取れなかった。
「八意××様。私と依姫の恩師で、「月の頭脳」と呼ばれた偉大な賢者。確か地上では……永琳様と呼ばれているのだったかしら?」
豊姫は繰り返すが、やはり名前の部分だけ聞き取れなかった。まるで人類には理解できない発音を聞かされたかのようである。
そう言えば、彼女は自分と同じ人類ではなかったのだった。シンは唐突にそのことを思い出した。
月人は一見地上の人間とよく似ているが、実際は一億年以上前に枝分かれした全く別の種族なのだ。時々、彼女達と自分の違いをこうやって思い知らされることがある。
「……気が乗らないな」
沈黙の後にシンが口にしたのは、彼には珍しい否定的な返答だった。
「豊姫様達の師匠なんでしょう? だったら第三者の俺じゃなく、あんた自身が直接渡すのが確実なんじゃないですか?」
それにそっちの方が早いし、とシンが言うのは、豊姫の能力を知っているからだ。彼女の「海と山を繋ぐ程度の能力」を使えば、月と地上の距離など関係ない。
しかしシンの指摘に、豊姫は首を振った。
「それは駄目よ。月の使者のリーダーとして、公私の区別はしっかりつけなくちゃ。事情はどうあれ、八意様は月の都にとっては裏切り者の大罪人なのだから」
「だったら接触自体やめといた方がいいと思うがね? せっかく最近は都の魑魅魍魎どもも大人しいんだ。ここで連中につけ入る隙を与える必要もないんじゃないか?」
「……今日は随分と反抗的なのね。一体どうしたのかしら?」
珍しく食い下がるシンに、豊姫の声のトーンが下がる。露骨に不機嫌そうな顔で尋ねる豊姫に、シンは憮然と鼻を鳴らした。
「言った筈だぞ? 気が乗らない、って。大体どんな事情があったにせよ、そいつが月を裏切り者であるに変わりはない」
「――八意様に間違いはない。きっと何か理由があるのよ」
豊姫は硬い表情で言い放った。それ以上の暴言は許さない、まるでそう言っているかのようである。それは最早崇拝とすら言える、危うい妄信だ。
ずっと昔、似たような眼をした連中と戦ったことがある。かつて圧倒的なカリスマで世界をひっくり返した一人の歌姫。狂信的な忠誠心を以て彼女に従う無敵の軍団。
豊姫の言う八意とやらが、八意を語る今の豊姫が、シンには“そいつら”と同じように思えてならなかった。
「……分かったよ、女王様。俺の負けだ。どうせ俺に拒否権なんて許されてないんだからな」
無言の睨み合いの果てに、結局折れたのはシンの方だった。
「それに、腹黒で疑り深いあんたをそこまで虜にするその師匠って奴を、俺も一度見てみたいしな」
そしてもしも危険な人物ならば――排除する。本心であり核心とも言えるその言葉を、シンは豊姫の手前、腹の底に仕舞っておくだけに留めておいた。
かくして、“月の獣”ことシン・アスカは、およそ千年ぶりに地上に降りたのである。
「――あー、くそ。何つー最悪な旅心地だ」
大気圏を無事に突破し、千数百年ぶりに地上へ“帰って来た”シンの第一声は、そんな愚痴から始まった。
身体の節々がズキズキする。もう二度と月の羽衣は使うまい。シンは密かにそう決意した。
「そうですか? 私は結構快適な旅でしたけど」
渋い顔のシンを見上げてそう嘯くのは、地上の案内役として同行した玉兎・レイセンだ。
かつて依姫の元から逃げ出したペットと同じ名前をつけられたこの兎は、地上と月を何度か行き来しており、件の八意永琳とも面識があるらしい。
月と地上を行き来する月の羽衣は、使用時に意識が曖昧になるという大きな欠点がある。そのため使用中にスペースデブリに衝突するという事故も少なくない。
しかし今回の旅では、たとえ邪魔なデブリが近づいてきてもシンが持ち前の勘の良さで即反応・自動的に撃ち落としてくれた。意識が曖昧だろうがお構いなしである。
そのためレイセンは、シンにくっついているだけで安全な宇宙旅行が約束されていたのだ。
「地上か……」
長旅で凝り固まった関節をコキコキと鳴らし、シンは周囲を見渡した。見渡す限りに生い茂る竹、竹、竹……。どうやら自分達が降りたのは地上の竹林らしい。
月の森には生き物は棲んでいない。生命があるということは即ち穢れているということだ。そのため穢れのない月面には、海にも森にも生き物はいない。
だがこの竹林には、月の森にはない生き物の気配が感じられた。シンにはそれが懐かしくもあり――同時にどうしようもない“気持ち悪さ”を感じた。何だ、この違和感は?
「アスカ様ぁ? どうかしたんですか?」
心配そうに見上げてくるレイセンに「何でもない」と返し、シンは移動を開始した。まずは竹林を抜け、八意永琳に接触しなければ始まらない。それにしても……、
「――面倒くせぇ」
「何か今日はえらいテンション低いですね? アスカ様」
シンの呟きを聞き取り、レイセンが間髪入れずに反応する。こうやって物怖じせずにずけずけと物を言ってくる辺りが、彼女が他の兎と違うところだろう。
「そりゃそうだろう。手紙を届けてこいとか、どこの子供のおつかいだっての」
余程鬱憤が溜まっているのか、本人がいないことをいいことに言いたい放題愚痴を零すシンに、レイセンは驚いたような顔で一言。
「あれっ? でもアスカ様って、ぶっちゃけ豊姫様の使いっぱしりですよね?」
「………………」
レイセンの指摘にシンは沈黙。返す言葉もなかった。本当にこの兎は口だけは達者な奴だ。
こんにゃろう、月に帰ったら覚えておけ。シンは恨みがましそうにレイセンを睨んだ。
「……そう言えば、これから会う八意ってのは、一体どんな人物なんだ?」
「えっ!? アスカ様ご存じないんですか?」
信じられないような顔で訊き返すレイセンに、「いいから教えろ」とシンは急かす。
「では僭越ながら――八意××様は月人様の始祖であられる月夜見様が月に移り住んで都を建てる時に最も頼りにした賢者であり、
また我々玉兎が仕える嫦娥様が飲んだ不老不死の薬や輝夜様が飲んだ不老不死の薬を御作りになられたのも八意様だと聞いています」
「不老不死?」
レイセンの口にしたその単語にシンが食いついた。レイセンはシンの思わぬ本能に戸惑いながらも「ええ」と頷く。
「噂では八意様自身もその薬を飲んで不老不死となったとかならなかったとか」
「……そうか」
レイセンの言葉に、シンは眉間にしわを寄せて唸った。一度だけ、地上からやってきた不死身の化け物と戦ったことがある。その時の苦い記憶が嫌でも思い出された。
「厄介だな……」
シンの呟きを耳聡く聞き取り、レイセンが引きつった顔でシンを見上げる。
「あの……アスカ様? さっきから物騒な単語がちらほらと聞こえてくるんですけど、まさか八意様と一戦やらかそうだとかお馬鹿なことは考えてませんよね? よね?」
言外に「やめてマジやめて」と懇願してくるレイセンを見下ろし、シンは真面目な顔で一言。
「――場合によってはな」
「ああもうっ、やだこのバトルジャンキー!」
レイセンの悲鳴が竹林に響き渡った。
その時、竹の陰から何かがキラリと光った。シンが反射的に銃剣を引き抜く。瞬間、轟く銃声と飛来する無数の閃光。
シンは銃剣を高速で振り回し、矢継ぎ早に撃ち込まれる“敵”の銃弾を弾き飛ばす。奇襲の失敗を悟り、竹林の奥へ撤退する襲撃者の気配。
その時になって、漸く事態を把握したレイセンが「ひゃあ」と情けない悲鳴を上げた。
「な、何なんですか一体!?」
「見て分かるだろ? 敵襲だ」
半泣きになって叫ぶレイセンに、シンはそう言って獰猛に笑う。こうなることは半ば予測していた。ここは地上、つまり敵陣のど真ん中なのだから。
下がっていろ、とレイセンに指示を飛ばし、シンは逃げた襲撃者を追って竹林を疾走した。
――続劇
最終更新:2011年02月26日 13:24