月を見つめる少女がいた。
無表情で、だがどこかに影のあるまなざしで月を見つめる少女がいた。
月の明かりに照らされた少女の銀の髪が、星々よりも光輝いているように思えた。
そんな少女を見つめる少年がいた。
その光景に眼を奪われ、その輝きに心を奪われて動けなくなっていた。
やがて自分の時を取り戻した少年は名を呼んだ、少年は少女の名を呼んだ。
ゆっくりと振り向いた少女の眼差しが少年の眼差しと重なる。
再び時が止まった、二人してただずっと見つめあうだけ。
二人の間には、ただ静寂が流れ続けた。
少年は探していた。
無意識で動き、たとえ隣にいたとしても気づく事のない少女を探していた。
彼女がそうであるように、彼は当て所なくただ進んでいた。
それは高確率で徒労に終わるだろう、そう思ってもやめる事は出来なかった。
まずは地霊殿を、自分と彼女が暮らす場所を探した。
だが見つける事はできなかった。
気が付かなかっただけかも知れないけど、でもここにはいないと思った。
次に探したのは旧都だった。
馴染みとなった場所を探し、馴染みとなった者達を尋ねた。
だがそこでも見つける事はできなかった。
気が付かなかっただけかも知れないけど、でもここにもいないと思った。
探して歩いている内に、気が付けば地底から地上に出ていた。
夜の帳が落ちた地上へ。
日の落ちた空には、望月を数日過ぎた齢の月が輝きをみせていた。
月を見て、自分がいた世界の事を、戦いに身を投じていたあの日々の事をほんの少し思い出しながら歩いた。
少年は探していた。
無意識で動き、いつの間にか隣にいてじゃれついてくる少女を探していた。
彼女がそうであるように、今は彼も・・・シンはただ当て所なくただ進んでいた。
たださっきまでと違って、自分が今進んでいる方向に彼女がいる、何故かそう思いながら。
幻想郷の夜は人にとって最も危険な世界。
身を護る程度の力は持っているシンであっても、こんな風に夜の世界を無防備に歩くことはしない。
自惚れが命を危険にさらすと言う事を自身が一番良く知っている、なのに今はそれを忘れてしまったかのように歩いていた。
気づいた時には、いつの間にか月明かりすら遮る森の中を歩いていた。
何も見えず、何も聞こえない森の中を。
普段なら暗闇に恐怖を感じる。
なのに、今はそう感じる事は無かった、それ以外の感情も無かった。
自分はこの場所を歩いていると言う事、今はそれしか認識できなかった。
何も見えない、足元すら見えない闇の中を、どういう訳か危なげなく進んで行った。
まるで何かに引っ張られるように、無意識が何かを求めるように。
暗闇に慣れた眼に光が届く。
光の正体は月明かり、いつの間にか木々が大きく開けた場所へと出ていた。
開けた空間の、月に照らされたその真ん中には大きな岩が一つと、その上に人影が一つ。
それは月を見つめ、月の光を一身に浴びる少女の人影。
月の光を浴びて美しく煌くその銀の髪は、時折ふく風に揺らされて波の様になびいていた。
それはひどく幻想的な光景だった。
幻想の世界にあって、最も幻想の光景だと思えるほどに。
その光景に目を奪われ、心を奪われ、ひょっとすると魂さえも奪われてしまう程に幻想的。
「こいしちゃん」
奪われかけていた全てを引き戻すように無意識の内に少女の名前を呼ぶ。
名を呼ばれた少女は、こいしはゆっくりと声のする方へと顔を向ける。
ただその表情には何も浮かんではいない、ただ反射的に音の方へと動いただけ。
こいしとシン、二人の視線が重なり合ったまま時間は止まった。
「あれ? お兄ちゃんどうしたの?」
「え、あっと…こいしちゃんを探してた」
「私を?」
ようやく動き出した時間、こいしはシンがこの場にいる事に不思議そうに首をかしげ、帰ってきた答えを聞いて今度は逆の方へと首をかしげる。
「うん。渡したいものがあったから…ね」
「そうだったの? うれしいな。でもこんな所に一人で来ちゃ危ないよ? …あれ、ここどこだろ?」
不思議そうな顔の次は笑顔、その次は少しだけ頬を膨らませてシンの無謀を叱り、自分が今いる場所が知らぬ場所だと気づいて、またしても不思議そうな顔へと戻る。
次から次へと、ころころと変わり続けるこいしの表情をシンは微笑ましく見守りながら、彼女の座る岩へと上り、こいしの隣に自分も腰を下ろす。
脇のカバンから取り出したのは小さな、可愛らしいリボンが巻かれた箱。
それを今は眉間にしわを寄せて少し難しい顔をして未だに自問を続けるこいしへと差し出した。
「はい、こいしちゃん」
「ふえ? これなに?」
「空けてみて」
乱雑に開けるか、丁寧に開けるか、二つに分類される内の彼女は後者の方だった。
リボンを解くのに少し手間取ったが、包みを取り払った所で箱から甘いにおいがする事に気が付いた。
「いいにおーい、でもこれなに?」
箱の中には黒い小さなボール状の物が六つあった。
甘いにおいの正体はこの物体だとすぐに分かったが、これが食べ物であるとは思いづらかったようだ。
「チョコレートって言うお菓子、におい通り甘いよ」
「そうなの…うん、お兄ちゃんがくれたから安心かな」
その内の一つを口の中に放り込む。
予想外の硬さに驚きの表情を見せるが、溶け出てくる甘さに表情が綻んでいく。
甘い、おいしい、そう呟きながら一つ食べ終えてはまた一つ。
自分の手や口の周りがチョコで彩られていくのを気にする事無く口の中へと放り込んで行く。
「おいしー! でもどうしたの? お家にいればここに来なくても渡せたよ?」
「そりゃそうだけど、でも今日渡したかったんだ」
「なんで? どうして?」
「あーっと、今日はバレンタインって言って、親しい人達にチョコとかを贈る日なんだ」
「バレンタイン…? そんな日があったんだ…うん、ありがとうお兄ちゃん」
それからまた、こいしはチョコを食べる事に専念し始める。
その姿を微笑ましそうに見つめていたはずのシンの眼差しは、いつの間にか月へと向けられていた。
今さっきまで彼女がそうしていたように、彼もまた月を見つめていた。
瞳に映るのは月だけの筈なのに、それ以外の様々なものが、過去が見えるような気がした。
いや、実際に見えていた。
自分が生きていた世界、その中で過ごしていた日々を。
そしてもう二度と戻る事の出来ない世界、もう二度と戻る事のない“もの”達の事を。
「お兄ちゃん?」
過去へと引き寄せられていた魂を引き戻したのは無意識の少女の声、先程とは逆の構図。
「どうしたの?」
不思議そうな笑顔で覗き込むこいしの顔を見てシンはまたも苦笑いを浮かべる。
彼女の唇の両端はチョコでコーティングされていたからだ。
しょうがないなと、取り出したハンカチでこいしの口の周りを拭う。
こいしは満足そうな笑みを浮かべてその行為を受け入れた。
「…昔を思い出してた」
「昔?」
「ここに…地霊殿に来る前の事。俺はあの月のすぐ近くに…いたんだ」
そこで戦って、そして負けた。
その言葉と思いを押しとどめた。
「そっか…」
「ごめん、変な事言っちゃって」
「ううん、私は大丈夫」
そのまま会話は途切れて、二人は月へと顔を向けた。
二人の間には沈黙が流れるが、シンはそれが苦しい物だとは思わなかった。
「…私には思い出が無いの」
同じように月を見上げていたこいしだったが、しばらくするとこいしは顔をうつむけて、そんな言葉を漏らしはじめた。
「無いって言うのはちがうかな、全部すてちゃったの」
こいしは右手を第三の瞳へ、目蓋をおろしたそれに優しくふれる。
「“眼”を閉じた時に全部忘れちゃったから…ううん、今でもそう、すぐに忘れちゃうようにしてるの。
だって楽しい事を思い出そうとすると、それに引っ張られて余計な…思い出したくない事も思い出してしまう…そんな気がするの。
私はそんな思い出を“見たくない”…だからずっと忘れるように、何も思い出さないようにしてた。
だから私にあるのは習慣とか地霊殿のみんなの事とかの最低限の記憶とかそんなの」
誰にも言わず、誰にも言えずに心の内に秘めていた思い。
それを全てはきだして、俯けていた顔をシンの方へ向ける。
今までの言葉に反して、こいしの表情はいつものあっけらかんとした笑顔だった。
だがシンには、その笑顔の中に悲しさが入り混じっているように見えた。
「でも今は違う。色んな出来事を憶えてるし、思い出すの。霊夢や魔理沙の事とか、お兄ちゃんと出会った日の事とか」
「俺と出会った日?」
「うん。お兄ちゃんと初めて会った時はお兄ちゃんが寝てる時だった」
「それ会ったって言うのかな…」
「私的にはアリなの! その時のお兄ちゃんはね、悲しそうな…つらそうな顔して寝むってた」
眠っていた時の事はわからない。
だが思い当たらない訳ではない。
目覚めてから、地霊殿に身を寄せてからしばらくの間はずっと険しい表情・・・少なくとも笑顔ではなかったと自分でも分かっていたからだ。
「でも今は優しい顔してる」
シンが自分の表情や気持ちが和らいでいた事に気づいたのはいつの頃だろうか。
そうする事ができるようになったのはどうしてだろう。
「こいしちゃん…それにみんなのおかげだよ…俺、みんなのおかげで変われたんだ」
そうする事ができるようになったのは、地霊殿のみんな、そして旧都のみんなと過ごした日々のおかげだった。
彼女達と過ごしていく内に、シンはいつからか笑えるようになっていた。
「…私も変われるかな?」
「こいしちゃんにはさとり達がいる」
「お兄ちゃんもいるよ」
「俺じゃ力になれるか分からない、でも力になりたい」
彼女が自分の運命を切り開く時、その時は自分も力になりたいと。
ただの人間である自分が出切る事は小さいかもしれない。
もしも彼女の前に困難が立ちはだかった時は、その時は彼女を守る力になりたい。
それがシンの願い。
「ねぇ、お兄ちゃん」
「ん?」
「…ありがとう」
「うぁ?!」
こいしが横合いから抱きついてきたせいで体勢を崩しかける、不意打ちだったから危うく岩の上から転がり落ちそうになる。
何とか持ち直し、抱きついてきたこいしの髪をやさしく撫でる。
シンからはよく見えないが、そこには先程まで混ざっていた悲しさが消えた、こいしの笑顔があった。
いつものあっけらかんとした笑顔、それに少しだけやわらかさの混じった笑顔が。
「帰ろっか」
「うん!」
元気よく同意はしたのだが、こいしは立ち上がるどころかシンを抱きしめた腕をほどく気配も無い。
予想外の事態、だからと言ってこいしを振りほどく事も出来なかった。
「…こいしちゃん?」
「変わるための第一ステップ、それはお兄ちゃんにおんぶしてもらう事です」
「…」
「力になってくれるんじゃなかったの?」
脱力して、今日何度目かの苦笑い。
「了解」
その言葉に少し名残惜しさを感じさせながらもやっと体を離す。
岩から降りてこいしを背負えるよう体勢を取る。
「はい、どうぞ」
「よーし…とうっ!」
「うおぁ?!」
岩の上からシンの背中めがけて飛び降りる。
少し勢いがよすぎたせいか、思わず前のめりになるが何とか持ちこたえた。
安心しきったように体を任せる彼女にしょうがないなと、言葉とは裏腹にうれしそうな表情を浮かべる。
「それじゃ行こうか」
「おー! 目指すは地霊殿、私達のおうち!」
「俺たちの…家…うん、帰ろう!」
重なって一つになった影が行く。
帰るべき場所へ、帰りたい我が家へ向かって。
「…所でここってどこ?」
「…幻想郷?」
すこしつまずきながら、笑い声を重ねながら。
月明かりの下で、重なった影が歩き出した。
最終更新:2011年02月25日 23:11