幻想郷の端にひっそりと建つ寂れた神社・博麗神社の一日は、一杯の熱いお茶から始まる。
朝起きてお茶を飲んで、朝食を食べてお茶を飲んで、掃除をしてお茶を飲んで、昼食を食べてお茶を飲んで、
雲を眺めて昼寝してお茶を飲んで、夕食を食べてお茶を飲んで、そして風呂に入ってお茶を飲んで寝る。
たまに思い出したように修行をしたり、異変が起きれば犯人をしばき倒したりもするが、彼女の一日は概ねこんな感じだ。
代わり映えのしない平和で退屈な毎日。それでも彼女は、この日常がそれなりに気に入っていた。世はなべて事もなし、結構なことじゃないか。平和万歳、怠惰万歳。
そして今日も、彼女の一日は怠惰に過ぎていく――筈だった。
異変が起きたのは、彼女がいつものように縁側に座ってお茶を飲みながら雀に餌をやっている時だった。境内の方がやけに騒がしい。妖怪どもの殴り込みか?
面倒くさそうに吐息を零し、湯呑を置いて縁側から腰を浮かせた彼女の耳に、聞き覚えのある――寧ろ聞き飽きた声が大音量で聞こえてきた。
「巫女―っ!!」
突然の大声に驚き、雀達が慌ただしく羽音を立てながら逃げ出す。ほぼ同時に、予想通りの、彼女にとって今やお馴染の顔ぶれが縁側に現れた。
霧の湖を縄張りにする氷の妖精・チルノ。魔法の森に棲む宵闇の妖怪・ルーミア。そして迷いの竹林が棲み処の蛍妖怪・リグルと、夜雀の妖怪・ミスティア。
巷で「バカルテット」と呼ばれる四人組だ。
「……で? 雁首揃えて今日は何の用?」
「うむ! よくぞ聞いてくれた」
面倒くさそうな顔で尋ねる彼女に、チルノが偉そうにふんぞり返る。そしてチルノに促され、リグルとミスティアがおずおずと口を開いた。
聞けば、迷いの竹林で妹紅が見慣れない男と暴れており、竹林は今や火の海なのだそうだ。何とかしてくれと懇願する二人に、彼女は溜息。ぶっちゃけ面倒くさい。
「話は分かったわ。でも、それならあんた達二人だけで神社に直行した方が早かったんじゃない?」
魔法の森や霧の湖は、迷いの竹林とはちょうど反対方向だ。彼女の指摘に、リグルとミスティアは「う」と言葉を詰まらせる。
「その……私達だけで来るのは、やっぱりちょっと怖くて……」
躊躇いがちに語られた理由に、彼女は思わず呆れる。何だそれ、私は妖怪か何かか? 妖怪はお前らの方だろう。
大体、そういう厄介事は命蓮寺辺りにでも頼めというのが彼女の本音だった。巫女が妖怪に泣きつかれて人間退治など笑い話にもならない。
だが、頼まれたものは仕方がない。彼女は再度の溜息とともに縁側から立ち上がった。
幻想郷を騒がす傍迷惑な輩は、人間でも妖怪でも、たとえ神様だろうと容赦なく叩きのめす。それが――博麗の巫女なのだから。
東方儚月抄異伝 第二部~月の獣と地上の月兎~
第六話「永遠亭の賢者」
戦いはますます激しさを増していた。シンの銃剣が妹紅を切り裂く。が、妹紅は即座に復活。お返しとばかりに放たれた弾幕がシンを撃ち抜いた。
激闘の余波で迷いの竹林は大炎上。まさにちょっとした地獄絵図だ。だが二人は止まらない。炎が竹林を焼こうが鳥や獣達が死のうがお構いなしに戦い続ける。
二人とも今やボロボロの姿だった。シンの左腕は折れ、右腕の義手も半壊。身体のあちこちに火傷を負い、腹の大穴からは潰れた内臓が飛び出しかけている。
妹紅の方も、スタミナの枯渇とともに再生能力も低下してきているのか、徐々に傷が目立ってきた。息も上がり、足元もおぼつかない。顔には死相まで浮かんでいた。
シンの手から銃剣が滑り落ちる。憑依合体も維持できなくなり、翼や手甲が消滅する。妹紅も背中の炎の翼が消え、今や飛んでいるのがやっとの状態だ。
だが、それでも二人は止まらない。シンと妹紅の視線は交差し、二人は同時に空を翔ける。最後の激突だ。
触れ合いそうなほど接近し、同時に突き出される拳と拳。次の瞬間、繰り出されたクロスカウンターがシンと妹紅の頬を互いに撃ち抜いた。
二人の身体がぐらりと傾き、真っ逆さまに地上へ墜落。シンと妹紅の壮絶な死闘は、両者相討ちという形で幕を下ろす――かに思われた。
だが、二人はまだ止まらなかった。満身創痍の身体で立ち上がり、おぼつかない足取りで相手に向かっていく。延長戦の始まりだった。
繰り出されるシンの拳が妹紅にめり込み、放たれる妹紅の蹴りがシンに突き刺さる。肉弾戦。策も弾幕も駆け引きもない、美しさとは無縁な泥くさい戦いだった。
「くっそ……いい加減倒れやがれっ!」
シンの右手が妹紅の喉頚を掴み、ギリギリと万力のように絞め上げる。
「ふっざ…けんな……っ! 輝夜は絶対に渡さない、月になんか連れて行かせるものか……!!」
呼吸が詰まり、顔色を蒼白に変えながら、妹紅はあらん限りの声で叫ぶ。不意に妹紅の首を絞めるシンの手が緩んだ。シンが怪訝そうに眉を寄せ、妹紅に問う。
「……カグヤ? 誰それ?」
「えっ?」
妹紅は耳を疑った。なにそれこわい。妹紅は思わずシンを見た。シンも困惑したように妹紅を見ている。沈黙したまま互いに見つめ合い、虚しく時間だけが過ぎていく。
その時、二人の頭上に不意に影が差した。見上げると、紅白に塗り分けられた巨大な球体が二人めがけて落下していた。
シンと妹紅は慌ててその場から飛び退いた。紅白の球体が竹を押し潰し、地面に激突。地響きが二人の足元を揺るがした。
「――幻想郷協定第二条『幻想郷での揉め事及び紛争は、スペルカード戦、もしくは当事者同士の合意による別な方法によって解決すること。ガチの殺し合いは御法度とする』」
シンと妹紅の耳を凛とした声が打つ。二人を見下ろすように、竹林の上空に一人の少女が浮いていた。
巫女だった。ひと目見ただけで巫女と分かるような紅白の服を身に纏い、片手にお祓い棒を握っている。
「つまり何が言いたいかと言うと――はっちゃけすぎよクソボケども。ちょっと頭冷やしなさい」
言うが早いか、巫女の少女がミサイルのように地上へ急降下。片手にお祓い棒、もう片方の手に護符を握ってスペルを唱える。
――霊符「夢想封印」
瞬間、少女を中心に霊力の大爆発が発生。眩い閃光が視界を覆い尽くし、シンの意識は暗転した。
気がつくと、シンは見知らぬ部屋に寝かされていた。ツンと鼻を刺す消毒液の匂い、肩にかけられた清潔なシーツ。ここは病室か?
上体を起こし、シンは身体の具合を確認した。驚いたことに、トラバサミで挟まれた足首の傷も、妹紅に貫かれた腹の穴も、戦闘で負った傷の殆どが既に治っている。
月の技術でもここまで早く回復はしない。まるであの戦いそのものが夢であったかのようだ。
しかし身体に巻かれた包帯と、唯一壊れたままの義手が、地上に降りてからの一連の戦いが紛れもない現実であることを告げていた。
「――あら? 起きたのね」
不意に柔らかな声がシンの耳を打つ。聞き覚えはない、だが誰かに似ている。豊姫様? シンは弾かれたように振り返った。
女性がいた。長い銀髪を三つ編みにして、赤と青の配色が特徴的なナース服のような服を着ている。
年齢は分からない。外見は若々しいが、身に纏う雰囲気は年長者の貫禄を感じさせた。何者だ? 警戒を強めるシンに、女性が声をかける。
「調子はどうかしら? 私の薬を使ったから多分傷はもう治ってると思うけど」
「……あんたは」
質問に質問で返すシンに、しかし女性は不愉快そうな顔一つ見せずに答える。
「私の名前は――八意永琳。貴方が捜していた月の賢者よ。シン・アスカ」
その言葉にシンは息を呑んだ。八意永琳! シンの中で殺戮機械のスイッチが入る。畳を蹴り、永琳の眼前へ瞬時に移動。左掌に霊力の刃を形成し、永琳の喉に突きつけた。
「……豊姫の部下にしては随分と躾のなっていない犬ね。私は一応、貴方の命の恩人なのよ?」
「治療してくれたことは感謝している。だがあんたは月にとって危険人物だ。俺はあの二人ほどあんたを信用していない」
喉元に刃を突きつけられながら平然と口を開く永琳に、シンは底冷えするような声で返す。どういう訳か、この女は俺の名前まで知っていた。油断はできない。
「月? 月ねぇ。大した忠犬ぶりですこと。弁えもせずに所構わず噛みついて、最後は己と飼い主のどちらを先に食い殺すのかしら?」
嘲笑する永琳に、シンの瞳が険を帯びた。一触即発な空気がその場に満ち、今にも爆発しそうなほど膨れ上がる。そして――、
「――もうっ! もこたんったら素直じゃないんだからぁ」
「もこたんって言うな! このバ輝夜っ!!」
場にそぐわない賑やかな声が、二人の耳に唐突に飛び込んだ。永琳の背後で、竹林でシンを襲った焼鳥女・妹紅と、黒髪の少女・輝夜がじゃれ合いながら廊下を駆けていく。
「ねぇ、もこたん今どんな気持ち? 勘違いでズタボロにされてどんな気持ち?」
「うるさいうるさいうるさーい!!」
やかましく響き渡る二人の痴話喧嘩が、シンと永琳の間の緊張感を急速に萎えていく。追い討ちをかけるように、見覚えのある兎が病室に飛び込んできた。
「八意様! みっふぃーとキリバイちゃんがまたパニック起こして暴れ始めました!!」
「オイこらレイセン。何やってんだお前?」
まるで元々ここの住人であるかのように永遠亭に順応するレイセンに、シンのツッコミが飛ぶ。何だこれ。ちょっと前までのシリアスな空気を返しやがれ。
やる気が殺がれ、シンは霊力の刃を消して永琳の首から左手を下ろした。永琳がほっとしたように吐息を漏らす。
「安心しなさい。貴方達の目的はあの子から聞いているわ。豊姫からの手紙もちゃんと受け取ったし」
「……手紙?」
シンは思わず訊き返した。だがすぐに思い出す。すっかり忘れていたが、そう言えば確かにそんな物もあった。
実は万が一のことを考え、シンは手紙をあらかじめレイセンに預けていた。戦闘の可能性が高い自分よりも、逃げ足の速い彼女の方が任務達成率は高いと判断したのだ。
鈴仙の襲撃でシンと別れた後、レイセンは永琳に手紙を渡すという自らの任務を果たすべく、そして彼女に助けを求めるために独立行動を開始した。
しかし迷いの竹林の地理に明るくないレイセンは、竹林の中で見事に遭難。迷い迷った末に運よく永遠亭に辿り着いたが、その時にはかなりの時間が経過していた。
そしてレイセンから事情の説明を受け、永琳が現場に到着した頃には、既にシンは騒ぎを聞きつけた博麗の巫女によって妹紅ともども成敗された後だったのである。
ちなみに、シンと妹紅を物理的に黙らせて今回の騒ぎを終息させた巫女は、以前の一件で出会った霊夢とは違っていた。
そのことを永琳に尋ねてみると、彼女曰く「あれから何年経ったと思ってるの」とのことだった。
その言葉でシンは漸く、かつて地上の住人達がロケットで月にやってきたあの事件から、いつの間にか随分と時間が流れていたことを知ったのである。
「今回の一件の原因は全て鈴仙――うちの兎の誤解と暴走にあるわ。貴方達には迷惑をかけてしまってごめんなさいね。あの子は私が責任を持っておしおきしておいたから」
永琳の謝罪に、シンは思わず「いや」と言葉を濁す。任務そっちのけで暴れたのはこちらも同じだ、などとは口が裂けても言えない。特に永琳の黒い笑顔を見た後では。
「……ところで、豊姫様の手紙には何が書いてあったんだ?」
話題を変えるべく、シンは永琳に尋ねた。手紙の内容についてはずっと気になっていたのだ。
永琳は月にとっては反逆者だ。そんな輩と月の使者のリーダーが繋がっていたとすれば洒落にならない。
「ああ、あれ? ――白紙よ。手紙には何も書いてなかったわ」
シンの問いに、永琳はそう言って笑った。シンは思わず耳を疑った。え、何それ嫌がらせ? そんなもののために俺達はわざわざ地上まで来させられたというのか。
脱力するシンを眺めながら、永琳は考える。恐らく、豊姫は別に自分に用があった訳ではないのだろう。彼女の目的は「シンを地上に行かせる」ことそのものだったのだ。
あの腹黒め、この私をダシに使いやがって。かつての教え子の成長に喜ぶべきか嘆くべきか悩みながら、それでも永琳の顔は笑っていた。
永琳の笑顔を見つめながら、シンは思う。八意永琳、「月の頭脳」と呼ばれる賢者、月を裏切った反逆者。どんな奴かと思っていたが――何だ、普通のおばさんじゃないか。
その頃、月の都の綿月邸では、依姫が豊姫から今回のシンの地上派遣について全ての事情の説明を受けていた。
「白紙……ですか? お姉様」
困惑の表情で訊き返す依姫に、豊姫は「ええ」と首肯する。
「今回のシンの派遣―表向きは調査任務ですけど―は、彼を地上に行かせることそのものが目的でした」
「シンを地上に行かせること、ですか?」
首を傾げる依姫に、豊姫は話を続けた。
「彼が月を離れることで、隠れていた過激派や反体制勢力が必ず動き出すでしょう。怖い怖い番犬がいない隙に、邪魔な私達を亡き者にするために」
「そいつらをおびき出すために八意様をダシに使ったというのですか? 何と畏れ多い!」
唖然とする依姫に、豊姫は扇子で口元を隠して優雅に笑う。
「それに……これはシンへの労いでもあります。彼はこの千年以上もの間、私達によく尽くしてくれました。そろそろ休息を与えても罪にはならないでしょう」
もっとも帰ってきたらまた馬車馬の如くこき使ってやるけどね、と朗らかな笑顔で鬼畜な科白をのたまう豊姫に、不意に依姫が尋ねた。
「――帰ってこなかったらどうしますか?」
豊姫の顔から笑みが消えた。沈黙する豊姫に、依姫は再度尋ねる。
「もしもシンが帰ってこなかったら、彼が私達を裏切って地上で生きることを選択した時は、お姉様はどうなさるおつもりですか?」
「……その時は、それはそれで構いません。これは彼にとって最後の選択のチャンスでもありますから」
依姫の問いに、沈黙の後、豊姫はゆっくりと口を開いた。
「地上の人間達は宇宙を目指し始めた。いずれシンが生まれた時代、コズミック・イラは必ず訪れます」
淡々と紡がれる豊姫の言葉に、依姫は黙って耳を傾ける。
「その時に、彼は決断しなければなりません。かつての同胞と――過去の自分自身と戦うことを」
「……それは」
依姫は息を呑んだ。それは何という残酷な話だろう。よく見ると、豊姫の肩は震えていた。
彼女も怖いのだろう。シンが地上を選ぶことが、彼まで自分達を置いてどこかへ行ってしまうことが。
敬愛する師匠である永琳、可愛がっていたペットのレイセン。豊姫と依姫が愛していたものは、皆彼女達の前から消えてしまった。
そして今度は、シンまでいなくなってしまうかもしれない。二人にとって、それは恐怖以外の何物でもなかった。
だが、それでも自分達は耐えなければならない。それが彼の「幸せ」であるならば。だからこそ、豊姫はシンを地上へ送り出したのだ。涙を堪えて、恐怖を押し殺して。
「……お姉様は優しいのですね」
依姫はそう言って笑った。その頬をひと筋の涙が零れ落ちる。
「大丈夫、シンはきっと帰ってきます。だって――あいつはそういう奴なのですもの」
――続劇
最終更新:2011年03月11日 00:22