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最終話「ふたりのレイセン」

 どこまでも続く荒涼とした大地。見渡す限りに広がる暗闇。そして大きく輝く青い星――地球。
 月面。もう長いこと見ていない生まれ故郷。その時点で、「ああ、これは夢だ」と彼女は気づいた。何度も見ている、忘れられないあの悪夢だ。

 はっ、はっ、はっ、はっ……! 荒涼とした月の大地を、彼女は息を切らせて必死に逃げる。そして彼女を追う処刑人、月の獣。
 逃げる兎、追う獣。永遠に続くかと思われた追いかけっこは、しかし彼女が躓くことで一つの転換点を迎えた。
 好機とばかりに攻撃を撃ち込むシン、辛うじて光線を躱すレイセン。クレーターの陰に息を潜め、彼女は極限の恐怖の中で決意する。生きるために――月の獣を狩ることを!
 クレーターから飛び出し、彼女は決死の攻撃を仕掛ける。だが現実は非情だった。あっさりと胸を貫かれ、彼女は無様に倒れ伏した。獣に一矢報いることすらできずに。

 彼女を見下ろし、シンが銃剣を頭上へ持ち上げる。まだ息があった彼女に完全にとどめを刺すつもりだ。彼女は諦めたように瞼を閉じた。シンが銃剣を振り下ろす――!
 いつもならば、彼女はそこで夢から覚める。だが今回は、夢の続きがあった。空間が揺らぎ、突如現れた扇子がシンの斬撃を受け止める。

「――シン。また兎をいじめているの?」

 耳を打つ柔らかな声。彼女はハッとしたように眼を開けた。まるで自分を庇うようにシンと向かい合う誰かの背中。見紛う筈がない。大好きだった人、裏切ってしまった人。

「豊姫様……」

 彼女は掠れた声でその人の名前を呼んだ。頬を涙が零れ落ちる。

「……何のつもりですか、豊姫様? まさか「レイセンを見逃せ」なんて言う気じゃないでしょうね?」

 シンが銃剣を引き、咎めるような調子で口を開いた。シンの眼光が豊姫を射抜く。

「こいつは脱走兵です。貴女の命令でも見逃す訳にはいきません。一度甘えを許せば二度と歯止めが利かなくなる。そんなことをしたら他の者に示しがつかないじゃないですか」
「勘違いしないで、シン。私はただ後始末に来ただけ。レイセンはもう貴方が殺してしまったじゃない」

 責めるようなシンの視線を正面から受け止め、豊姫はそう言ってふわりと微笑した。

「この清浄な月の大地に死骸を転がせておく訳にもいかないでしょう? 場所は……うん、地上がいいわね」
「……見逃すことはできないと言った筈です、豊姫様。それとも、こいつが貴女のペットだったから贔屓しているのですか?」

 惚けるような豊姫の科白に、シンの眼光が一層強くなる。苛立たしげな表情でそう尋ねるシンに、豊姫は首を振り、諭すような声音で口を開いた。

「言ったでしょう? これはただのゴミ掃除。もしもまだ生きていたとしても、私は貴方に追えとは言わないわ。だって――」




 東方儚月抄異伝 第二部~月の獣と地上の月兎~
     最終話「ふたりのレイセン」




「――はれっ?」

 目を覚まし、鈴仙は気の抜けた声とともに布団から上体を起こした。二日酔いで頭がガンガンする。昨夜の宴会で飲みすぎたようだ。
 懐かしい夢を見た。ずっと昔、まだ月で「レイセン」と呼ばれていた頃の夢。月から逃げ出し、シンに追い詰められ、その後の記憶だ。夢に見たのは初めてだった。

 あの時、豊姫が最後に何を言っていたのか、鈴仙は憶えていない。意識が朦朧としていたし、何より気づいた時には既に豊姫の能力で地上へ飛ばされていたのだ。
 それでも一つだけ憶えていることがある。あの時、あの方は何かとても大切なことを言っていた。それだけは、鈴仙の心に確かに刻まれていた。

「鈴仙ー、 お腹減ったー」

 襖を開け、隙間からてゐがひょいと顔を出した。

「早いとこ朝ご飯の用意お願いねー? もう家政夫も下っ端二号の奴もいないんだから」
「いやアンタも手伝いなさいよ」

 今では恒例となったツッコミを入れ、鈴仙は不意に思い出した。ああ、そうか。もう彼らはいないのだった。
 いつの間にか永遠亭に馴染んでいた二人組が消えたことに、鈴仙は僅かな寂しさを感じずにはいられなかった。
 たった一ヶ月という短い期間とはいえ、あの二人は確かに永遠亭の仲間であり、そして家族だったのだから。

 月からの突然の来訪者、シンとレイセンが幻想郷にやってきてから、ちょうど一ヶ月が過ぎた。
 一ヶ月前、紆余曲折はあったものの豊姫の手紙を届けるという任務自体は無事に果たした二人に、永琳は月の羽衣が使える次の満月まで永遠亭に滞在することを提案した。
 月の使者を懐に抱えるリスクを永琳が敢えて冒した背景には、考えつくだけでも様々な可能性が挙げられる。
 こちらの一方的な誤解で彼らに迷惑をかたことへの謝罪だったのかもしれないし、ただ危険因子を手元に置いて監視したかっただけだったのかもしれない。
 或いは戦闘の後遺症、特に精神的なダメージから兎達の多くが使い物にならなくなっており、永遠亭が深刻な人手不足に陥っていたからというのが真相だったのかもしれない。
 いずれにせよ、永遠亭の実質的な支配者である永琳の決定に異を唱えられる者などいる筈もなく、鈴仙達はこの風変わりな居候を受け入れることになったのである。

 それからの一ヶ月は、本当に色々なことがあった。何やらシンと因縁があるらしい吸血鬼や八雲の式神が襲撃してきたり、噂を聞きつけて花の大妖怪まで喧嘩を売りにきたり、
 鴉天狗や稗田の十代目が取材にきたり、シンがてゐと輝夜と妙な化学反応を起こして永遠亭を混乱に陥れたり、幻想郷を揺るがす異変が起きたりと、まさに激動の一ヶ月だった。

 だが、その騒がしい日々ももう終わった。昨日は例月祭、つまり満月の夜だった。月の羽衣を使い、シンとレイセンは幻想郷に別れを告げて月へ帰ってしまったのである。
 昨夜の例月祭は、二人の送別会も兼ねていたためか普段より盛大に行われた。彼らと関わりのある幻想郷の住人達も飛び入りで参加して、ちょっとした宴会騒ぎになったのだ。
 皆で飲んで、騒いで、見送って、もう彼らはここにはいない。シンも、レイセンも。遠い月の世界へ帰ってしまい、恐らくはもう二度と会うことはない。本当のお別れだ。

「――レイセン、か」

 シンと一緒に月からやってきた、自分と同じ名前の玉兎を思い出し、鈴仙はぽつりと呟く。永遠亭では二号の愛称で呼ばれて可愛がられていた娘だ。
 彼女が鈴仙と同じ名前なのは偶然ではない。ある経緯から彼女を拾った豊姫が、かつて月から逃げ出したペット――つまり鈴仙の名前を彼女に与えたのである。


『私はずっとあんたが羨ましかった。豊姫様につけて貰った、このレイセンって名前が疎ましかった』


 昨夜の宴会の最中、鈴仙は初めてレイセンと二人きりで話す機会を得た。その時に聞かされた彼女の本音を、鈴仙は一生忘れないだろう。


『豊姫様も依姫様も、玉兎の皆も、……アスカ様も、皆私を通してあんたを見てる。私じゃない。誰も私自身を見てくれない。私はあんたの代替品だ。それが嫌だった』


 その言葉に鈴仙は愕然とした。脱走した裏切り者のことなどとっくに忘れていると思っていたのに、シンだけでなく、豊姫や依姫、仲間の兎達も自分のことを憶えていたのだ。
 それだけではない。無責任に逃げ出した臆病者の幻影が、残された者達の心に根強く残り、何の関係もない彼女まで苦しめている。どれだけ謝っても赦されることではない。


『でも――今は私がレイセンだ。あんたじゃない。もう月にあんたの居場所なんてどこにもないんだから』


 別れ際にレイセンが口にしたその科白に、果たしてどれだけの決意と覚悟が籠められていたのだろう。鈴仙には計り知れない。
 ただ一つだけ鈴仙にも分かることは、彼女がとても強い兎だということだ。卑怯で臆病者の自分とはまるで違う。


『……うどんげって名前、いい名前だと思うよ?』


 だからこそ、レイセンが最後の最後に告げたこの一言が、鈴仙は何よりも嬉しかった。自分の存在を肯定してくれたように感じられた。
 そうだ、月のレイセンはもういない。否、今は彼女がレイセンなのだ。私の名前は優曇華。鈴仙・優曇華院・イナバ。ただの地上の兎だ。

 寝巻を脱ぎ捨て、仕事着のブラウスとスカートに着替える。ネクタイを締め、最後にブレザーを羽織って準備完了。
 姿見で自分の格好を最終確認し、鈴仙は「よし」と頷いた。今日も私は完璧だ。身を翻し、鈴仙は颯爽と自室を出た。また忙しい一日が、始まる。






 死屍累々、この惨状を言い表すのに最も適した言葉はこれだろう。芝生の上に仰向けに横たわり、レイセンは他人事ようにひとりごちた。ああ……空が青い。
 綿月邸の裏庭に広がる練兵場には、一ヶ月ぶりとなるシンの地獄のしごきによって心体ともに力尽きた兎達が、至るところに屍のように転がっている。
 どうやらシンがいないこの一ヶ月間、怖い怖い鬼教官から解放された兎達はこれ幸いと怠け放題だったらしい。意識を保っている兎は今やレイセンだけだった。

 ちなみに玉兎達を恐怖のどん底に突き落とした本人は今、レイセンの頭上で今度は依姫ろ刃を交えている。平然とした顔で。
 しかも練兵場に現れる直前に、帰還早々、また反対派の勢力を一つ潰してきたらしい。皆殺しフィーバーは未だ健在、と玉兎のテレパス・ネットワークで早速話題になっている。
 その足で自分達の訓練に乱入して叩きのめして、今は依姫の鍛錬につき合って汗を流している。化け物め。最早呆れて物も言えなかった。

「それにしても……よかったの? 月に戻ってきて、地上に残らなくて」

 空中でシンと打ち合いながら、依姫が不意に口を尋ねた。その問いにレイセンは耳をそばだてる。その疑問は自分も気になっていたことだ。
 地上で過ごしたこの一ヶ月間、シンは驚くほど地上での生活に馴染んでいた。もしかすれば、このまま月の獣から永遠亭の番犬に鞍替えしてしまうのではと疑うほどに。

 実のところ、このまま地上に残ってくれたら訓練が楽になるんだけどなーというのがレイセンの本音だったのだが、そんな期待を裏切り、シンはあっさり月へ帰還した。

「後悔はないの? もしかすればあれが最後のチャンスだったかもしれないのに」

 重ねて尋ねる依姫に、シンは「いいんだよ」とぶっきらぼうに返す。

 地上での生活は確かに懐かしかった。だが同時に、生命で満ちる地上の世界に、シンはどうしようもない「気持ち悪さ」を感じてしまったのだ。
 最早自分は月の人間だ、最早地上で生きることはできない。シンがそれを思い知るには、一ヶ月は充分すぎる時間だった。

「――私からも一つ訊いていいですか? アスカ様」

 依姫との鍛錬を終えて地面に降り立ったシンの背中に、レイセンは芝生から起き上がって声をかけた。

「どうして、八意様達やうどんげを見逃したんですか?」

 月に帰る際、シンが永琳と輝夜を捕らえることも、鈴仙を殺すこともしないと言った。その決断にレイセンは文句をつけるつもりはない。だが、「らしくない」と思う。
 レイセンが知るシン・アスカは、一言で言い表せば人の皮を被った機械だ。月を守るためならばどんな外道も厭わない。百を守るためならば躊躇なく一を殺す。それが彼だ。
 そんなシンが、月の都にとって超弩級の危険人物である永琳や輝夜、そして脱走兵である鈴仙を見逃したことがレイセンは意外だった。
 最悪の場合、彼女達との全面戦争も覚悟していただけに、あっさりと身を引いたシンの態度は、レイセンにとって喜ばしくはあるが肩透かしを食らった気分だった。

「……いいんだよ。俺の仕事はただの使いっぱしりだった。危険分子の捕獲や討伐までは命令されてない」

 レイセンの問いに、シンはそう言って鼻を鳴らした。

「それに俺達が会ったのは永琳って里医者と、輝夜とか言う引きこもりのお姫様、そしてたまたまお前と同じ名前の地上の兎だ。危険分子なんてそもそも見ていない」
「……アスカ様、何かちょっとだけ丸くなりました?」

 唖然とするレイセンに、シンは「よせやい」と照れたように笑う。きっかけはほんの些細なことだった。ずっと昔に豊姫に言われた言葉を思い出した、ただそれだけ。

 かつて鈴仙が月を脱走した時、彼女を追い詰めたシンの前に豊姫が割って入った。あくまで鈴仙を殺そうとするシンに、豊姫はこう口にした。

「――どんな命でも、生きられるなら生きたいだろ?」

 それは遥か昔、シンが親友から言われた科白と全く同じだった。そしていつの間にか忘れていた、シンの根源とも言うべき言葉でもある。
 これまで何千、何万もの命を奪ってきた自分が、今更一つや二つの命を思う。それがどれだけ矛盾と欺瞞に満ちているか、シンも理解していた。

 だが、思い出してしまったのだ。何百年もの月日の中で摩耗してしまっていた、自分が戦う本当の理由を。
 だからこそ、シンはその思いを、今度こそ、二度と忘れたくないと思った。

「……み、皆殺しフィーバーがまともなこと言ってる……?」

 感傷に浸るシンの耳に、呆然としたようなレイセンの呟きが無遠慮に飛び込む。シンはレイセンを振り返った。満面の笑顔だ。だが眼は全く笑っていない。

「よーし、そんだけ無駄口叩けるならまだまだ元気ってことだよな? もう一ラウンド逝ってみっかー? 一対一で」
「うわーい、少しは丸くなったと思ったらこれかよコンチクショー!」

 レイセンは自棄になったように絶叫し、武器を持って立ち上がった。両手に握るのは一対のナイフ。片方は元々のレイセンの装備、もう片方は餞別に貰った鈴仙のものだ。

 鈴仙・優曇華院・イナバ、自分の前の「レイセン」。地上に降りて初めて会ったが、生真面目で、ひたむきで、我慢強くて、凄い奴だった。馬鹿でいい加減な自分とは全然違う。
 あんな奴になりたいと思う。だが同時に、あいつにだけは負けたくないとも思う。だからレイセンは決めたのだ。目標は大きく高く、鈴仙を超える「レイセン」になる、と。

「かかってこいっ! レイセン!!」

 シンの声がレイセンの耳を打つ。一ヶ月前と比べて、少しだけ声の響きが違う気がした。
 レイセンは両手のナイフを固く握り、「うおお」と勇ましく叫びながら芝生を蹴った。



 ――終幕

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最終更新:2011年03月11日 00:22
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