1
それはさながら、伝承に伝えられるモーゼの十戒のようだった。
昼下がりの人間の里――中央を貫く大きな道には、人海と形容するにはいささか密度が薄いものの、多くの人間がひしめきあって活気が醸成されていた。その人の群れが、潮が引くように逃げ出したのだ。
原因が何であるかは一目瞭然だった。人々の視線は一様に里の入り口にいる人物に向けられていたからだ。
皆の注目を集めているのは、日傘を手にした一人の女性だった。短く切りそろえられた草色の髪に、ルビーのような赤い瞳が映えている。
純白の汚れ一つないブラウスの上にチェック柄の上着を羽織り、同様の柄のスカートを着こなすその姿はあまり飾り気がないものの、十二分に似合っていた。
好色の男ならすぐに寄って口説きに群がってくるような、美少女と形容するに不足ない容姿であったが、むしろ人々は彼女を恐れていた。
何故ならば――その女性は『妖怪』だったからだ。それも、凄まじい実力を秘めた大妖の一人ともなれば、尚更だった。
風見幽香。人間友好度最悪。危険度極高。
幻想郷の妖怪について編纂された幻想郷縁起には、この女性――風見幽香についてそう書かれている。
幻想郷縁起の内容は、決して正確な記述ばかりではないのだが、それでも人々が十分恐れるに値する情報が纏められていた。
妖怪は人里にいる人間を襲わないルールも存在したが、そうだとしても触らぬ神に祟りなしと人は避ける。
幽香が人里を訪れた時にはその光景が当たり前で、多くの人々は息を潜めるようにして隠れるのが通例だった。しかし、今日は少しだけ様子が違った。
風見幽香はこよなく花を愛する妖怪だった。自身も花を操る程度の能力を持ち、彼女と花の結びつきは極めて強かった。
そんな彼女が人里に訪れる理由といえば、ほとんどは花屋である。店主とはよく挨拶を交わし、顔見知りになるほどの頻度で訪れている。
ただし、彼女が訪れると人々は逃げ出してしまうので、店先に並んだ花を眺めるときはいつも店主と二人だった。
だが、今日は逃げ出さない先客がいた。幽香のことに気付いていないという風でもなく、不思議そうに赤い瞳が女性に視線を送った。
その先客は黒い髪の少年だった。ただの人間のようだったが、幽香はどこか違和感を覚える。普通の人間とは何かが違う不自然さを感じる。
黒い髪に、赤い瞳。真っ白な肌。まるで人間形態を取る妖怪のように整った容姿――。例えるなら、作られた人形のような――。
「ねぇ、そこの貴方……」
幽香は少年に声をかけた。店先に並んだ植木鉢の花を見ていた少年は、振り仰いで幽香を見つめる。
「なんですか?」
少年は答える。幽香を前にしても、まるで怯える気配が無い。
幽香と同等の大妖ならばこのような態度も可能だろうが、目の前にいる少年は妖力を感じない至って普通の人間である。
まさか、知らないのか――?
「私のことは知っている?」
「いえ、知りませんけど……有名人なんですか?」
幽香は確信した。この少年は外来人だ。幻想郷と外界を隔てる博麗大結界が何らかの原因で緩むと、結界を越えて外来人が現れることがある。
よく見れば、少年の服装は一般人の着る着物とは違う。裾の長い赤いジャケットに、赤い長ズボン。膝の辺りまである白い紐の無いブーツ。
幽香は外来人に詳しいわけではなかったが、これだけの要素が揃えば判断は容易だった。
「そうね、割と有名人よ」
この人里で、幽香を知らない者はいない。畏怖の対象として多くの人間に認知されている。
しかし幽香は、それが寂しいことや悲しいこととは思わなかった。ただただ無感情に受け止めている。
「ふーん……」
曖昧模糊な調子で少年が返答すると、沈黙が流れて会話が途絶えた。
よくサディスト呼ばわりされている幽香だったが、別に自分を知らない人間がいたからといって危害を加えたりはしないし、それに対して特別な感情も抱かない。
平穏な無言の間がしばらく続くと、少年は再び眼下に並ぶ花々に視線を落とした。
「花、好きなの?」
唐突に幽香が問う。少年は再び幽香に視線を向けると、ちょっと困ったような、濁した口調で答えた。
「好きっていうか……花を見てると、思い出すんですよ。ある人が言った言葉を」
「ある人の言葉?」
「”いくら綺麗に花が咲いても人はまた吹き飛ばす”……俺がそう言ったら、その人はこう返したんです。
”いくら吹き飛ばされても、僕らはまた花を植えるよ”って……。それが強く印象に残ってて……」
本人にも説明が難しいのか、いくらか要領を得ない返事だった。ただ、少年の表情から、花とは文字通りの意味ではないことはわかった。
複雑な事情を抱えていそうで、どうしてその会話のやり取りがなされたのか、そこに至るまでの詳しい経緯を知らなければ返答は難しい。
だが、幽香は躊躇無く、己の素直な感情を口にした。
「傲慢ね」
少年がはっとしたような顔つきで幽香を見つめる。赤の瞳と瞳が互いに視線を交えた。
幽香は、彼の語る花とは何なのか、おおよそ予想は出来ていた。それはとても大切なものに違いないと口調からも見て取れた。
花とは、恐らく命を指し示すのだろう。 霊が宿り、花が咲き、霊が去ると花が散る。花と人間はよく似ている。だから人間は葬儀の時に花を飾る。
「失ったものは二度と戻らない。まずするべきなのは、花を守る努力よ」
黒い髪の少年はその言葉を黙って聞いていた。様々な感情が複雑にない交ぜになったような、沈痛な面持ちを浮かべて。
どれくらいの時間が経ったことだろう。少年は顔を上げると、一言幽香に「ありがとうございます」と告げて花屋から離れた。
幽香はしばらくその背中を見送っていたが、少年の姿が町角を曲がって見えなくなると、再び店先に並ぶ花々に視線を戻した。
少年、シン・アスカと風見幽香が再び邂逅するのは、それから遠くない日のことである。
2
数日に渡って鉛色の雲が空を遮り、幻想郷はどこもかしこも雨に塗れた。例外は地底くらいだろう。
しかし、ようやく雨が上がって太陽が顔を覗かせたと思えば、空の彼方には灰色の水蒸気の塊が浮かんでいる。
その光景を見て、風見幽香は嘆息を漏らした。空高くに浮かぶ彼女の草色の髪を、湿り気を帯びた温い風がはためかせる。
不快な風が頬を撫でる感触を受けて、幽香の整った美しい顔がわずかに表情をゆがませた。
恵みの雨は彼女の愛する花々に必要なものだったが、こうして連日絶え間なく降り続けられると外出もろくに出来ない。
それにあまり長く雨が続くと花の根が腐ってしまうかもしれない。それは困る。
「いざとなったら雨雲を蒸発させればいいわね」
空を飛びながら思案すること数秒。答えはすぐに出た。彼女が思いついたのは、非常に安易で非常に難しい解決法だった。
思いつくだけなら子供にだって可能であるが、実行に移せるのは一握りの強大な力を持つ存在のみである。そして幽香はその一握りだった。
なんでもないことのように、とんでもない答えを導き出した幽香が視線を地上に戻す。山の頂にある目的地、博麗神社が遠くに見えた。
博麗神社の境内に幽香が降り立つ。境内の地面はまだぬかるんでおり、所々に小さな水溜りが形成されていた。
幽香は神社の裏手から居間の中を覗いてみる。しかし、人がいる様子はない。声をかけてみたが、返事もない。
巫女はどこかに出かけているようだった。幽香が少しがっかりしたように眉を顰めたその時、神社の表の方から足音が近づいてきた。
誰かと思い、幽香がその方向に顔を向けると、目が合った。自分と同じ色だった。
「あんたは……あの時の……」
黒い髪。赤い瞳。白い肌。作られた人形のような、端正な顔立ち。雨の日々が始まる前に、人里の花屋で出会った人間の少年である。
少年は意外な再会に驚いているようだった。その証拠に思わず敬語を忘れてしまっている。
「いつかの外来人じゃないの。……なるほど、『帰る』のね?」
「はい、上白沢慧音って人に案内されたんです。博麗の巫女に会えば、元の世界に帰れるって。今はあいにく、留守にしてるみたいですけど」
幽香が言うと、少年は頷いた。外界から来た外来人が元の世界に帰るための方法は、大きく分けて二つである。
一つは、八雲紫という妖怪の力を借りる方法。もう一つは、博麗の巫女の力を借りる方法である。
少年は後者を選んだが、賢明な判断だ。八雲紫は気まぐれなことで有名な妖怪である。神出鬼没で、どこにいるのかわからないことが多い。
「そう……幻想郷はどうだった?」
「なんていうか……驚きの連続でしたよ。元の世界ではありえないことばかりで……。妖怪がいたり、人が空を飛んだり……」
「あら、その程度? まだまだ驚くことは多いわよ?」
黒髪の少年は幽香の問いかけに苦笑しながら答えた。
幻想郷は、外の世界で否定され幻想となってしまった存在が流れ着く場所である。少年にとっては非常識極まりない世界だった違いない。
しかし、幻想郷にはもっと驚くことがたくさんあるはずだった。この少年は、それを知らずに帰ってしまうのだろうか。
「……でも、俺は帰らなきゃいけないんです。花を散らせないために。花を守るために」
数秒ほどの間を置いて、少年は少しだけ寂しそうな笑顔を幽香に向けた。彼の赤い瞳は力強く、真っ直ぐだった。
幽香は、彼のことが少しだけわかったような気がした。
彼の過去に何があったかは知らない。
しかし、ただの人間にこんな目が出来るはずはない。
「貴方の名前は?」
「俺の名前……シン・アスカですけど」
「私は風見幽香よ。……せいぜい頑張ることね、シン」
「……それ、激励なんですか?」
少年が怪訝な顔つきで幽香を見る。幽香は、誤魔化すような曖昧な笑顔でそれに答えた。
それから二人は、自然と会話を始めた。博麗の巫女が帰ってくるまでシンは待たなければならなかったし、幽香も暇を潰したかったのでちょうど良かった。
最初に彼が話してくれたのは幻想郷のことだった。ある日突然、自分が幻想郷に現れたこと。上白沢慧音に発見されて連れられ、人里に行ったこと。
慧音の保護を受けた後、彼女に元の世界に帰るかどうかを聞かれて、帰還の決意を伝えたこと。しかしここ最近の雨で数日間立ち往生していたこと。
今日になってようやく雨が上がったので、慧音にここまで送ってもらったこと。幻想郷に訪れてから今までのことを、彼は感慨深げに語った。
「本当に、俺の世界では信じられないことばっかりでしたよ」
そう言って、黒い髪の少年は空を仰いで遠くを見つめた。万感の思いが詰まった言葉だった。
「私たちにとっては当たり前のことなのに、そう言われると面映いわねぇ。貴方の世界はどうなの?」
「俺の世界……ですか」
彼は幻想郷のことばかりを話すが、彼自身の世界はどうなのだろう。幽香が気になって尋ねると、彼は少しだけ自分の世界について教えてくれた。
色々と興味深い単語が飛び交ったが、中でも驚いたのは宇宙に人間が住んでいることだった。月に住人がいると聞いたことがあるが、彼はその仲間なのだろうか。
ただ、自分の世界について語る際に彼は時々厳しい顔つきになって沈黙した。おおよそ察しもついていたし、深い事情もあるのだろうと、幽香は深く追求しなかった。
二人だけののどかで平穏な時間が過ぎていった。
「あ、また来たのね幽香……。ん、あんたは……?」
幽香とシンが神社の縁側に腰掛けて会話に花を咲かせてしばらくのことである。突然彼女らの横から声が聞こえた。その声の方向には、二人の少女がいた。
一人は、黒い髪をリボンで結って赤と白の袖が独立した変な服を着ていた。それは紛れも無く、この博麗神社の巫女、博麗霊夢その人だった。
もう一方は、幽香よりも若干濃い緑の髪を背中まで伸ばした少女だった。蛙と蛇を象った髪飾りを身に付け、霊夢の装束と同じように袖が独立した青と白の服を着ていた。
話に夢中だったので、帰ってきたことに気付かなかったらしい。
「俺の名前はシン・アスカ。博麗の巫女って人に、頼みたいことがあってきたんだけど……」
シンはこれまでの事情を霊夢に説明した。霊夢は驚いた風でもなく、事情を聞き終えると「わかったわ」と短く了承した。
霊夢が外来人を帰還させるのはこれが初めてのケースではない。準備の為にと言って、霊夢がシンを神社を上がらせる。
その時、シンは振り返って幽香を見た。彼は幽香に向かって「助言、ありがとうございました」と告げると、再び霊夢に向き直った。
幽香はそれに無言で鷹揚に頷いて応じると、残された少女に視線を向けた。そういえば、この少女も外来人だった。幽香はふと思い出した。
「ねえ、貴方は元々外の世界に住んでいたのよね?」
「え、ええ……そうですよ」
幽香は、シンから聞き出せなかった外の世界の話でも聞こうと、緑の髪の少女――東風谷早苗に声をかけた。
突然切り出された話題に、早苗は驚きながらも応じる。
「よく知らなかったんだけど、外の世界もすごいのね。宇宙に人が住んでいるなんて」
それは何気ない一言だった。シンの話では宇宙にコロニーというものを建造し、中に人が住んでいるという。
この少女も、宇宙で暮らした経験があるのだろうか。そう思って尋ねたのだが、当の早苗は怪訝な表情で幽香を見つめ返してきた。
疑問符を浮かべる早苗に、幽香もいぶかしむ。一体どうしたというのだろう――。間もなく沈黙を破って、早苗が言った。
「宇宙に人が住んでる……? どういうことですか、それ?」
運命の幕が開く。
3
風見幽香と東風谷早苗は戸惑っていた。シン・アスカが語る外界の情報が正しければ、宇宙にはたくさんの人間が住んでいるという。
しかし、早苗の知る限りでは宇宙飛行士などの特殊なケースを除いて宇宙で生活する人間はいない。何気ない世間話の中で発覚した外界の情報の齟齬――。
それが意味するものは二人にもわからなかった。彼の話が法螺ならば問題はない。だが、幽香は彼の語った内容に嘘があるとは思えなかった。
ますます混乱が深まる中で、幽香が博麗神社の縁側を立ち、神社の内部へ足を踏み入れた。本人に直截問いただすのだろう。早苗もその後を追っていった。
「待って。ちょっと話を聞かせてもらえないかしら」
狭い神社の中、目的の二人はすぐに見つかった。霊夢は既に準備を済ませており、あとは博麗神社の鳥居からシンを外界へ送るだけだった。
霊夢とシンは疑問符を浮かべるが、大切な話があると説得すると応じてくれた。四人は神社の居間の中央に据えられたちゃぶ台の前に座って腰を落ち着かせる。
発端となる第一声を発したのは、幽香だった。
「シン、さっき私に話してくれた外の世界の話は本当なの?」
「本当ですけど……?」
何が何だかわからない、という風に呆然とするシン。早苗が言葉を続ける。
「私は少し前まで外の世界にいたのですが、宇宙飛行士さんなどを除けば、宇宙で生活する人間はいませんでした。
でも、シンさんの話だと人類は宇宙に進出してコロニーを建造し、そこに住んでいる……そうですよね?」
「ど、どういうことなの?」
おぼろげにシンも状況が理解できたのか、表情が険しくなる。そしてただ一人、話に取り残された霊夢が困惑して口を挟んだ。
今から説明します、と早苗が告げると霊夢は渋々といった表情で引き下がり、黙って言葉の続きを待った。
「それをこれからはっきりさせようと思います。シンさん、質問に答えていただけますか?」
「ああ、いいけど……」
「外の世界は外の世界でしょ?」
「霊夢は黙って聞いていなさい」
除け者にされた霊夢はむっと拗ねたような表情で、しかし何も言わずに早苗のさらなる説明を待った。
場が静かになると、早苗は告げた。自分が知る外の世界では宇宙にコロニーが建造されたという事実はなく、ましてやそこに人が住んでいるなどありえない。
ならば、この食い違いはどうして起こったのか――それを解明するには、シンの話を聞くしかない。彼が重く口を閉ざして語ろうとしなかったことも含めて。
「話してください。貴方のいた世界のことを、可能な限り詳しく」
シンの表情は険しかった。複雑な感情が胸中に渦巻いてるのだろう。静寂に痺れを切らした霊夢が何かを言おうとして、その時彼は語りだした。
「俺のいた世界……その時代はコズミック・イラと呼ばれてたんだ」
彼は語った。自分が体験したコズミック・イラの世界について、己の知る限りを。
ジョージ・グレンの存在に始まる、ナチュラルとコーディネイターの確執。勃発した地球連合とプラントの全面戦争。家族を失った、オーブの戦い。
仮初の平和の後に起こった、ユニウスセブン落下テロ。ブレイク・ザ・ワールドを契機に発生した第二の戦争。そして終戦後も混迷を続ける世界。
話を聞いて、幽香は得心が行った。彼の決意と眼差しは家族の死と戦争の悲劇がそうさせたのだ。いかにも人間らしく、単純で純粋だ。いとおしいまでに。
しかし、それとは相反する感情も幽香の内に渦巻いていた。彼女は話の腰を折るような真似はしなかったが、表情は険しくなっていた。
しばらくして彼の話が終わった。聞き終えた早苗は困ったように小さく唸る。コズミック・イラの世界について、早苗は何一つ知らなかった。
そこで方向性を変えて時代を逆行させてみることにした。早苗は自分の知る、歴史の重要な転換点、もしくは人物について質問をする。彼はそれに正しく答えた。
確認する限り、コズミック・イラに至るまでの歴史と早苗の知る歴史に差はなかったのである。逡巡の後に、早苗はこのように結論付ける。
「まだ断定はできませんが……シンさんは平行世界、あるいは未来の世界から来た可能性があります」
「平行世界……未来……」
どちらも常識はずれの荒唐無稽な憶測だった。しかしこの場にいる誰にも、それを否定する材料は持ち合わせていなかった。
事の重大さを把握した霊夢が、シンの方を見やる。
「待ってよ……そうすると、私の力ではあんたの世界に帰せないことになるわよ」
「確かにね。霊夢に出来るのは外の世界に送ることだけだし」
「元の世界に帰れない……!? そんな!」
霊夢に可能なのは博麗大結界を緩めて外の世界へ送り出すことのみである。平行世界や未来に送り届けることなど到底不可能だ。
自らが置かれた立場にシンは絶望した。花を植えるのではなく、花を守る覚悟を抱いてコズミック・イラに帰還しようとした矢先にこれでは当然だろう。
小さく唸り、思考を巡らせた霊夢はすぐにある一つの可能性に辿りつく。一瞬迷ったが、シンにそれを告げることにした。
「……可能性ならあるわ。紫よ」
「八雲紫ですか……」
「可能かもしれないわね。でも、彼女は何処にいるの?」
八雲紫。境界を操る程度の能力を持つ、幻想郷でも指折りの強大な妖怪である。彼女は空間操作も得意としており、平行世界へ渡れる力があるかもしれない。
だが、それはあくまで可能性だ。それにもしもシンが未来人だとすれば、時間移動が必要になる。八雲紫に時間移動が可能なのかは本人に聞かなければわからない。
加えて、紫は神出鬼没である。なかなか本人が見つからないのだ。
「あいつを呼び出す方法もあるんだけど、怒られるから嫌なのよねぇ。今は結界に綻びが生じているみたいだし……また後で善後策を考えるわ」
霊夢の言う方法とは、博麗大結界を緩めて八雲紫を呼び出すことである。幻想郷の管理者でもある紫は結界の異常に敏感なので、この方法を使えば来る可能性は高い。
実際に今までも何度かこの方法で呼び出すことに成功したが、実行するとしこたま説教されるので霊夢としては避けたかった。長生きの妖怪の話は長いのだ。
また最近は博麗大結界そのものに綻びが生じていて、下手に緩めると悪影響が懸念される。面倒くさがりという点を除けば、霊夢の判断は妥当だった。
「ちょっとこれから早苗と用事があるし、ひとまずあんたは神社で待ってて。後で人里まで送ってあげるから」
「それなら私が今人里まで送っていくわ」
「幽香……あんたが……?」
意外な申し出に霊夢が目を丸くする。この風見幽香という妖怪は、幻想郷縁起に記載されている内容ほど凶暴ではないが、友好的でもない。
幻想郷のルールでは無闇に人間を襲ってはならないのだが、外来人は別である。あるいは彼を道中で襲うのかとも思ったが、なんとなくそれは違う気がした。
非常に頼りない論拠だが、巫女の勘はよく当たるのだ。
「まぁいいわ。頼んだわよ」
「だ、大丈夫なのですか霊夢さん?」
「多分ね」
「別に取って食べたりはしないわよ。さあ、行きましょう」
「は、はい! お願いします!」
幽香が腰を上げてシンに手を差し伸べる。シンはその白い指先に触れるのを一瞬躊躇したが、幽香が手を伸ばして強引に引き上げた。
彼女の腕力は人間よりも遥かに上だシンは幽香に先導されるようにして神社の外へと向かっていった。早苗はその様子を心配そうに見守る。
確かに彼女が同道してくれるならば、普通の妖怪は絶対に手を出そうとはしないだろう。その点は安心だったが。
「……襲われたり、しませんよね?」
「その時は私が退治するまでよ」
巫女二人を残して、幽香とシンは博麗神社を後にした。
幽香の飛行速度は幻想郷の妖怪の中では遅い方だが、博麗神社から人里まではそう時間はかからなかった。
ゆっくりと高度を落としていき、二人は人里の入り口となる大きな門の前に降り立つ。幽香はそこでシンの手を離した。
「着いたわよ」
「ありがとうございます。……親切なんですね」
先日の花屋の一軒のこともあり、妖怪といえども花を愛でる彼女は優しいのだとシンは思っていた。
しかし、感謝の言葉を告げると幽香は衝撃的な発言でそれに応えた。
「別に私は親切じゃないわよ。ただ、貴方に早く神社から消えてもらいたかったの」
「え……?」
穏やかで柔らかい笑顔をシンに向けて、幽香が言う。その言葉はシンの表情を驚愕に染め、体中に衝撃を巡らせた。
幽香は柔和な笑顔をそのままに、ショックを受けるシンに言葉を続ける。
「それじゃ、もう二度と私の前に姿を見せないように。……いじめるわよ?」
凄惨で残酷、それでいて美しい黒い笑顔だった。戦場で何度も視線を潜り抜けて来たシンさえも怖気づくほどの。
博麗神社でシンが説明したコーディネイターという存在は、幽香に青い薔薇を想起させた。
その青い薔薇は自然界に存在するものではなく、人工的な遺伝子調整を施して咲かせたのだという。
彼女はこの青い薔薇の存在を耳にしたとき、憤った。幽香は自然の花々を愛する妖怪である。怒りを覚えるのは当然だった。
コーディネイターも同様だった。シンの話に出てきたブルーコスモスという団体に共感や理解を示すわけではないが、違和を覚えた。
もちろん、同列に扱えるものではないしシンに責任があるわけではないが、幽香はひとまず原因を取り除くことにしたのだ。
呆然とするシンを尻目に、幽香は再び飛び立つ。彼はその優雅な後姿をただ見送ることしか出来なかった。
「なんで……どうして……?」
空に向けられた呟きは、誰の耳にも届かなかった。
最終更新:2011年08月04日 14:05