アリス・マーガトロイドの鼻先を、一粒の水滴がぽつりと叩いたのは、彼女が自分の屋敷を出てから魔法の森の入り口へと差し掛かった頃だった。
驚いて天を見上げると、屋敷を出た時には晴れ渡っていたはずの空はいつの間にか黒い雲に覆われ、そこからぽつりぽつりと水滴が・・・雨粒が落ちてくる。
先程まで深い木々に覆われ、空の様子を確認しづらい森の中を歩いていたから、天候の変化に気付くのが遅れてしまったのだ。
彼女は外出していた理由、それは人形製作に必要な材料や道具を買い求めるため、魔法の森の入り口近くに構える香霖堂へと向かっていた。
ひねくれ者の店主が営むこの店に多種多様な魔法道具や外界から流れてきた珍しい生地等を取り扱っている。
それらの品揃えのよさや、アリスの屋敷がある魔法の森の直ぐ近くに存在すると言う立地条件のよさもあり、彼女は香霖堂の上得意客であった。
そんな香霖堂に、アリスは普段ならば飛んで行く事が多いのだが、たまには運動がてら歩いて行こうと思い立ったのは玄関で靴を履いている時の事だ。
何故そんな時に限って雨が降るのか、あるいは歩こうなどと考えたのか。
自分の何とも言えない不運さを悔やみながら、そうした所で事態が好転する訳もないので、さっさと行って買い物を済ませてさっさと帰る事にしよう。
この場所からなら香霖堂まで走って行けば五分とかからない距離であった事は、アリスにとっては不幸中の幸いであった。
・ ・ ・
雑多な物が山積みされた香霖堂の軒先へとアリスが辿り付いたのを見計らったかのように、雲は大量の雨粒を落とし始めた。
それを見て間一髪と人心地し、同時に走った事で少し乱れた息を整える。
多少衣服が塗れてしまったが、次第に雨脚を強めていく軒の外の様子を見れば、この程度で済んだのは幸いであると感じた。
呼吸を整えてから戸を開くと、備え付けられた鈴の音が来客を告げるために鳴り響く。
「いらっしゃい…あぁ、君か」
「こんにちは、霖之助さん」
鈴の音に反応して、店の奥の会計台に座る店主である霖之助が応答する。
アリスも挨拶を返しながら店の奥へと進むと、横合いから彼女にとっては予想外な人物の声が聞こえてきた。
「え、アリス?」
「え? シン?」
驚き、アリスは声の方へと体ごと振り向く。
そこには手にいくつかの品物を抱えている黒髪の少年、シン・アスカがいた。
雑多な物が山積みされた香霖堂の軒先へとアリスが辿り付いたのを見計らったかのように、雲は大量の雨粒を落とし始めた。
それを見て間一髪と人心地し、同時に走った事で少し乱れた息を整える。
多少衣服が塗れてしまったが、次第に雨脚を強めていく軒の外の様子を見れば、この程度で済んだのは幸いであると感じた。
呼吸を整えてから戸を開くと、備え付けられた鈴の音が来客を告げるために鳴り響く。
「いらっしゃい…あぁ、君か」
「こんにちは、霖之助さん」
鈴の音に反応して、店の奥の会計台に座る店主である霖之助が応答する。
アリスも挨拶を返しながら店の奥へと進むと、横合いから彼女にとっては予想外な人物の声が聞こえてきた。
「え、アリス?」
「え? シン?」
驚き、アリスは声の方へと体ごと振り向く。
そこには手にいくつかの品物を抱えている黒髪の少年、シン・アスカがいた。
「久しぶりね」
「そう言えばそうだな。なぁ、ご飯はちゃんと食べてるか? ちゃんと寝てるか?」
「えぇ、そうしないとあなたがうるさいからね」
まるでお節介な親だなと苦笑しながらアリスは会計台の霖之助の方へ進み、商談を始めた。
それを見届けると、シンも自分の用事へと戻っていった。
とは言え商談と言ってもただの買い物、目当ての品を包んでもらって終わり。
アリスの買い物が終わったのを見計らって、今度は自分の番だと、様々な品を抱えてシンが会計台へとやってくる。
シンが持ってきたのはフライパンや圧力鍋と言った、外界から流れ着いた調理用具だった。
不思議がるアリスに、里の料理屋が洋食を始める事になった事、そして自分はこれらの品々の調達を依頼されてこの店に来たと説明した。
その話でシンが里では所謂“何でも屋”的な仕事を営んでいる事をアリスは思い出す。
説明が終わるのと、シンの買い物が終わるのは殆ど同時だった。
霖之助とアリスに挨拶をし、店を出ようとするシンを見て、アリスは引き止める。
「待って、外は雨降ってるわ」
「えぇ? マジかよ…」
「マジよ。と言う訳で霖之助さん、ついでに傘もいただけるかしら?」
アリスの注文に、霖之助は『丁度いい物がある』と答え、二人に少し待つよう言って奥の方へと引っ込んでしまった。
霖之助をして『いい物』と言わしめる品物。
果たして鬼が出るか仏が出るかと、シンとアリスの胸中にそんな思いが到来する。
とは言え不安がっているだけと言うのもつまらないとばかりに、二人の間で自然と会話が始まった。
魔法の森に住むアリスと、人里に住むシン。
生活圏も違う、種族も違う二人。
傍から見れば接点の無さそうな組み合わせに見えるかもしれない。
だがシンにとってもアリスにとっても、お互いは良き友人同士と言う関係であった。
お互いの近況について話しが弾んでいると、アリスが会計台の上に置いてある紙の束に気付き、手を伸ばす。
勝手に取るのはどうかと躊躇するが、目立つ所に置いてあるのだから売り物なのだろうと思い至る。
それは一面には見た事も無い光景が映し出され、もう一面は何か小さな数字や文字が書かれている四角い、十枚程の紙の束だった。
「…写真?」
「多分、絵葉書だよ」
「葉書なの、これ?」
「うん、葉書の裏を写真にして送れるようになってるんだ。大分古い風習みたいだけど。これは…ニューヨークかな」
それはシンの言うように、外界でも有名な都市の街並みを写した写真絵葉書だった。
“外の世界の風景”という言葉は、アリスに取っても興味を引くものであり、気が付けばシンに、ここはなんと言う都市か、どんな国かと尋ね始めた。
絵葉書には都市の名前が書かれてはいなかったが、映し出されているのは万人が知っている都市であったから、シンも何とか答えていった。
あれこれと説明している内に、絵葉書は残り一枚となる。
最後の絵葉書には、過剰なほどにライトアップされた夜の宮殿を真正面から映した物だった。
四角形を段々重ねにした、所謂中世風の作りの宮殿。
だがシンはその神殿に、優雅さよりも威圧感が先立って感じられる作りだと感じた。
これはなんと言う名前で、どの国の建造物だろうとシンは頭を捻る。
「ブクレシュティ…」
「…え?」
「これはブクレシュティの…」
反射的にアリスの方へと視線を向ける。
そこにはどこか虚ろな目をして答えるアリスの表情があった。
「…アリス?!」
「えっ? どうしたのいきなり…」
「いきなりって…お前、今なんて言ったんだ?」
「私何か言った?」
「いや、今…確かブクレシュティって」
「…そんな事言った? 憶えて…ないわ…憶えて…ない」
急変するアリスの様子に戸惑いながら、これ以上は聞くべきではないと思ったシンはその絵葉書を元に戻す。
だが慌てていたせいかシンの手は、先に台へと戻してあった写真の束にぶつかり、全ての写真を床にばら撒いてしまう。
慌てて拾い集め、残る最後の一枚・・・アリスが急変した原因である写真へと伸ばしたシンの手に。
「えっ…」
しゃがみ込んだアリスの、絹のよう白く美しく、そして冷たいアリスの手が写真の上で重なり合い、そのまま二人の動きが止まった。
まるで凍ってしまったかのように、時間が止まってしまったかのように。
「どうしたんだい、二人とも」
時の止まった空間を再び動かしたのは、奥の部屋から戻ってきた霖之助の声だった。
状況を把握できず、あたふたとするシンとは反対に、アリスは直ぐに我を取り戻し、冷静な態度で「何でもない」と答える。
アリスの態度にシンはどうすればいいのか分からず、霖之助も追求するのも野暮だろうと思い、それ以上の言葉はなかった。
代わりに、霖之助は奥から持ってきた段ボール箱を会計台の上に置き、その中から取り出した物の説明を始める。
取り出したのは彼が先日、無縁塚で大量に拾った折り畳み傘だった。
霖之助はそれを手に取りながら、折り畳み傘の利便性と、これからどのような発想で生まれたのかと言う推論を語り始める
こうなってしまっては霖之助を止める事は、巫女も黒白の魔法使いでも不可能だし、むしろ率先して逃げ出すだろう。
止める事も逃げる事も出来ないシンとアリスは、少々うんざりした表情をしながら彼の講演会の聴衆とならざるを得なかった。
ようやく霖之助が全てを語り終えたのは、それから三十分も経った頃だった。
二人は拍手の代わりに溜息を一つ付く。
「おっと…すまないね、長居をさせてしまったようだ」
長居をさせたのは誰かと、シンとアリスはやるせない、そして恨みがましい視線で返す。
侘びのつもりもあったのだろう、霖之助は二束三文の値で傘を二人に譲った。
よく分からない人だと、アリスとシンは思いながらも、傘の礼を言って一緒に店を出る。
雨脚はアリスが店に入った時と変わらぬ勢いで降り続いていた。
話の間に止んでいれば良かったのにと、アリスが愚痴る。
シンは苦笑を交えて同意する。
シンに傘の開き方を教えてもらったアリスは、また会おうと告げ魔法の森へと歩いて行った。
雨の中に消え行く彼女の背を見送り、さぁ自分も帰ろうと傘を開いたシンの脳裏に、先程の光景が思い出される。
「何で…」
自分も知らぬ都市の名前を。
「何でアリスが外の世界の事を…」
幻想郷で生まれ、そして今まで生きてきた彼女が何故答える事が出来たのだ。
疑問と呟きは、去り行く彼女の背を追うように、雨音の中へと消えていった。
最終更新:2011年06月07日 11:51