それは、博霊神社を訪れていたシンが霊夢に誘われ昼餉を御馳走になり、食後の一服をしていたときだった。
手荒いを借りようと席を立ったシンは、タイミング悪く茶を飲みに突撃してきた魔理沙と衝突してしまったのだ。更になんの
偶然か彼の掌はまだあどけない少女の胸部へ……。
「今日という今日は許さないわよ!」
「ぐえええ……か、勘弁してくれ」
そこには触られた本人ではなく何故か顔を真っ赤にして怒り狂う博霊霊夢がいた。細腕のどこにそんな力があるのか、
彼女はシンの襟首を締めあげている。
「なあ、私は別に気にしてねーし。離してやれよ」
魔理沙は一応シンを弁護をした後、火照った頬を誤魔化すようにちゃぶ台に置かれた茶を一気に飲み干す。
「いいえ、こいつは女の敵よ!」
「お、お前いつも女とかそういうのアピールしてな」
「私が女らしくないですってえ!?」
「そこまでは言ってなぐえええええ」
煽るようなことを言ったシンに更に腹を立てた霊夢の拘束は、もう限界まで強くなっていた。
「おい、霊夢。いくら仲が進展しないからって本人にあたるのはよくないぞ」
魔理沙も一声掛けるが、霊夢は全く力を緩める気配を見せない。
やれやれと嘆息した魔理沙が畳から腰を上げようとした、その時だった。
「楽しそうなことしてるわね」
「あ!?」
「い?」
「…………う、」
霊夢、魔理沙、シンが順に驚きの声を上げる。最後のシンは絞められているためほとんど呻き声のようなものしか出ていないが。
「ごきげんよう、みなさん」
優雅に、そしてどこか妖しさを秘めた美女――八雲紫がそこにいた。
いた、といってもその能力であるスキマから半身だけこの空間を覗きこむ形で見ている。
「紫か……」
微笑む彼女を見て何を思ったのか、霊夢はシンから手を離す。
やっと自由になったシンは喉元を押さえて咳込んだ。
「えー、ごほん。紫」
「何かしら?」
紫はスキマから上半身だけを乗り出し、とぼけたように首を傾げる。
「そこ、借りるわよ」
「え?」
どういうこと、と隙間妖怪が声を上げるよりも前に、霊夢は足元でぐったりとするシンをスキマに放り込んだ。
「え……?」
あまりの早業に魔理沙も、そして滅多に動揺を顔に出さない紫ですら目を見開き驚いている。
その一方で霊夢はすっきりした顔で額の汗を拭った。
「半日くらいは閉じ込めておいて」
(ひでえ……)
魔理沙は久方ぶりに戦慄した。
「えーと……」
紫はいまいち状況を把握できていないようで、シンが消えて行った自らのスキマを何度も見やる。
「どうしたんだよ」
「えーと、それがね……あの子、どこ行ったか分からないのよ」
「は?」
「もしかしたら別の世界かもしれないわね」
珍しく真剣な表情を見せた紫は、腕を組み考え込むようにポツリと呟く。
「そ、それほんと…………?」
見る見るうちに霊夢の顔が青ざめて行く。
「おい、やばくねえか?」
「やばい、かもね。ちょっと探してみるわ」
紫は素早く隙間にその身を埋める。すると、それに呼応して裂け目も一瞬の内に消滅した。
いつもと変わらない、博霊神社の居間。
遠くで鳴く鳥のさえずりが重苦しい空間に響く。
室内には顔面蒼白の霊夢と、なんと声をかけたらいいのか分からない挙動不審な魔理沙の二人だけが取り残されていた。
※※※
見渡す限りの雲。
分厚い曇天の空を上空に、およそ二メートルの空中に隙間は開いた。
ぱっと視界に入ったのは鬱蒼と茂った背の低い木々だ。
普通では見ない視点からそれを見ているということから、シンは今ある己の状況を理解した。
危ない、と思った時にはシンは既に重力のまま落下していた。
「……ぐぐ」
全く、飛べないというのは不便である。少し前の自分なら思いもしなかったであろうこんな願望も、幻想郷に慣れてから
というもの日常的な願望になってしまった。
幸い、太い枝に途中激突したおかげで、それほど大きな痛みはない。
打ち付けた腰も赤く腫れた程度だろう。
そう思って、立ち上がろうとするシンだったが、
「いっつ、」
中腰になったところで、鋭い痛みがシンの腰を襲い、立っていられずにその場で前のめりに倒れる。
シンはとりあえず腰を刺激しないようにうつ伏せに伏せたままの状態を保つ。
しかしこの森の中、いつ何時妖怪に襲われるかも分からない。
どこかに人、ないしは知り合いの妖怪でもいないかと辺りを見回したところで、一際目立つ大木の影に隠れる小さな少女と
目が合った。
「…………」
金髪に、シンと似たような赤色の大きな瞳を大きく開き、倒れた彼をじーっと眺めている。
「あー、君」
なんとか痛みをこらえて胡坐になったシンが少女に声をかけると、小さな肩をびくっと震わせて一歩後ろに下がった。
その反応にシンは地味にショックを受ける。
「あ、あのさ、俺ちょっと怪我してて動けないんだ。だれか大人の人いないかな?」
少女は警戒するようにおそるおそる近付いてきた。
間近で見ると、より幼く見える。まだ年の頃は十にも満たないだろうか。
濁りのない瞳でシンと目を合わせた後、すとんと傍にしゃがみ込んだ。
「おとなの人いない」
「お父さんとかお母さんは……?」
「いない」
不味いことを聞いた、とシンは後悔したが、少女は気にした素振りもせずにただ彼の背中を見つめていた。
「いたいの?」
「ああ。ちょっとぶつけちゃってね」
ふーん、と呟いた少女は、特に何かをするという訳でもなく、同じようにシンを眺めてるだけだった。
シンとしてはこんな森の中、いつ妖怪が襲ってくるかもしれないし、この小さな子ももしかしたら人里からの迷子かもしれないと
いうこともあり、一刻も早く元の場所に戻りたいところである。しかし、あの紫の隙間を介して移動したせいで現在地に全く見当がつかない。
胸中で腋出しの巫女を万年賽銭不足の呪いで祟っていると、シンの頬を冷たいしずくが打った。
少女も、ゆっくりと空を見上げる。
「雨だね」
他人事のように、彼女は言った。
小降りだった雨は、あっという間にどしゃ降りの雨になった。
その勢いたるや滝のそれを思わせるようで、あらゆるものを飲み込み流して行ってしまいそうなちょっとした恐怖心が芽生える。
「ありがとな」
「ん」
少女に引っ張られて先ほどの大木の下まで避難したシンは、彼女と寄り添って雨宿りをしていた。
止む気配のない雨を二人でただぼんやりと眺める。
「ねえねえ」
「うん?」
ふと、少女が雨空を見たまま話しかけた。
「おにいさん、どこからきたの?」
「ん、どういうことだ?」
「わたし、ずぅっとあそこにいたけど、おにいさん空から急におちてきたんだもん」
「あー」
確かに、シンは隙間妖怪・八雲紫の力で訳も分からぬ内にこの場所へ来た。(原因は霊夢だが)
常人から見れば、瞬間移動のように捉えられてもなんら不思議ではない。
どう説明したものかとシンが唸っていると、何時の間にか前へ回り込んでいた少女が上目づかいで彼の双眸を見つめた。
まだ幼いというのに、その顔つきはなんとも妖艶な……訳がない。ただ単に年相応のかわいらしさがあるだけだ。
「もしかして……おにいさんて妖怪?」
「俺じゃないんだけど、知り合いの妖怪の力でね。ここがどこだかも分からない」
「妖怪かぁ」
少女は何やら考え込むようにその場で足を崩した。
「おい、女の子があんまりそういう座り方をするもんじゃない」
「え~」
「ほら……下着が見えちゃうかもしれないだろ?」
「したぎ?したぎってなに?」
「え」
「え?」
閑話休題。
「ま、まあ、とりあえず下着は穿いとけ」
「うん。おにいさんがそういうならしかたない」
「生意気なやつだな」
くつくつと二人で笑い合う。
シンは妹とじゃれ合っていた頃を思い出していた。少し生意気なところもよく似ていて、もう何年も前のことだというのに、
すぐ瞼の裏に当時の光景が浮かぶ。
「なんかかなしそうね」
「……そうか?」
感傷的な気分に浸っていたことを気取られたのが気恥ずかしくて、シンはそっぽを向く。
少女は小さく微笑むと、その小さな手でシンの頭を優しく撫でた。
「いい子ねえ」
「……い、いいって」
その手から逃れようともがくシンだが、腰の痛みから思うように動けない。結局、しばらくの間為すすべもなく撫でられるし
かなかった。
「ねえ、おにいさん」
「ん、なんだ」
今度は少女がシンの胸に体を預ける態勢でいた。
この幻想郷に来てからそれなりに身長が伸びたおかげで、小柄な彼女の体は丁度いい具合にシンの腕の中に収まる。
傍から見たら親子のように見えるんじゃないか、とシンはなんとなく思う。
「おにいさんがいたとこの話してよ」
「俺がいたところ?」
一瞬、デスティニーを駆って戦場を巡ったあの世界を思い出したが、どうやら少女が意図しているのは別らしかった。
コズミックイラの話はしていないし、先ほどの会話の中で彼女に妖怪の話をしていたこともある。
恐らく、少女が言うのはシンが過ごした幻想郷のことを指しているのだろう。
「ああ、いいよ。幻想郷ってのは知ってるよね?」
「げんそーきょー?……知らない」
「うーん、まだ小さいし、知らなくても無理はないか」
「……バカにしないでよ。これでもあたまはいいんだから」
「分かった分かった」
拗ねて唇を尖らせる少女の頭を、さっきのお返しとばかりに撫でる。
最初は驚いたようだったが、少女はやがて甘えるように頭をシンの胸に預けた。
「そうだなぁ」
相変わらず雨は降りっぱなしで、当分の間動けそうにない。
「まずは、この幻想郷について話そうか」
なんとなく、長くなりそうだとシンは思った。
一方、その頃の博霊神社
普段やる気の感じられない霊夢は、今回ばかりは必死に祈祷を捧げていた。
「お願いします……神様仏様紫様」
「お願いします」
ぶつぶつと呟く霊夢の隣で魔理沙もそれに倣い同じように唱える。
シンが行方不明になってから既に数時間。
とりあえずの捜索はその道のプロである紫に任せ、二人はこうして神頼みをするしかなかった。
気付けば、話始めてから結構な時間が経っていた。
雨はまだ止んでいないが、先刻と比べると随分雨足は弱まってきている。
「ねえねえ、さっきのはなしのつづきは?」
「大体話し尽くしたと思うけど……」
幻想郷で身の回りに起こっためぼしい事件を思い返すが、あと残っているのはほんの些細な出来事くらいだ。
それこそ、あとはもうコズミックイラでの出来ごとくらいしかシンには話すネタがない。
「それじゃあ、今までの話で何か聞きたいことある?」
「ききたいこと?」
「うん。もう話すことないからさ、何かあればと思って」
首を傾げる少女に続けて言う。
「そうだなー。それじゃ、そのうさんくさい妖怪について教えて」
「うーん……あいつか。実は、俺もよく知らないんだよな……まあ、胡散臭いな。それと滅茶苦茶強いらしい」
「らしい?」
「本気で戦ってるとこ見たことないんだ。でも、日常的に使ってる力だけでも相当なもんだよ」
それを聞くと、少女は目を輝かせる。
今までは割と落ち着いた雰囲気でいたが、この反応はシンにとっても意外だった。
「すごいね!わたしもすごくつよい妖怪になりたい!」
いいんじゃないかな、と首肯しかけたところで、思わず違和感に気付く。
「……もしかして君って妖怪?」
「そうだよ!」
上手くかみ合わなかった歯車がきっかりと合った気がした。
なるほど。両親がいないのも、こんな人が来る気配もない森の中に一人でいるのも、妖怪だったからか。
シンの知り合いにも見た目が幼い妖怪は数多くいるが、この少女に関しては実際に生まれてそう長くないようだ。恐らく、
見た目通りの年齢だろう。
幻想郷についての知識も持ち合わせていないのは流石に、長寿の者には在り得ない。
「…………おにいさん、わたしのことこわい?」
少女は急にシンが押し黙ったせいか、その瞳は不安に揺れている
それを目の当たりにし、シンは胸が締め付けられるような罪悪感にさいなまれる。
「さっきも話したろ、妖怪の友達もいるって。だから別に怖くない」
「じゃあ、すき?」
取り繕って言った言葉に被せられた返答が思わぬもので、シンは面食らう。
「ねえ、わたしのこと、すき?」
さっきまでのマイペースはどこへ行ったのか。少女は急に居心地が悪そうにシンの腕の中でそわそわし始めた。
その上、シンの表情を窺うように、ちらちらと見上げてくる。
「あー……っと。まあ、好きだよ」
「じゃあ、およめさんにしてくれる?」
「……なんか、話が大きく逸れてるないか」
「いいじゃん」
最近の若い子はませてんな、とシンは内心毒づく。
まさか数時間前に合ったばかりの男に婚約を申し込むとは。
だがまあ、シンも昔は妹や女友達と遊ぶ過程で仮初の結婚なんて何十回もしてきたし、今さらこんな小さな子を相手に戸惑っ
たりはしない。
「い、いいいよ」
「……どーよーしてる?」
「し、してない」
知らぬ間に漏れ出た動揺を今度はしっかりと飲み込む。
「じゃ、わたしはおにいさんのおよめさんね。指きりしよっか」
「ああ、いいよ」
こうなればもう何でも言うことを聞いてあげよう。
なんだか投げ槍な気持ちで彼女と小指を絡ませ、契りを結ぶ。
「満足したか?」
シンはなんだか手玉に取られているみたいで面白くない。
そのため年上らしくない、皮肉で少女に尋ねる。
しかし、少女はくすぐったそうな声を上げて満面の笑みを浮かべた。
「うん!」
混じりけのない純粋なその笑みは、シンの心にあった黒い感情はあっさりと崩壊する。
「そっか」
そんな少女に脱力しながら、自分もまだまだ青いな、とシンは己の未熟さを痛感していた。
「ん。おにいさん、むかえきたかも」
「え?」
腕の中の少女がすっとシンから離れ、少し遠くの空を指差した。
シンがその方向へ目を向けると、丁度空間に一筋の線が走った。
そこからぱっくりと空間が口を開き、中から見慣れた妖怪が顔を出して辺りをきょろきょろと見回している。
「なんで分かったんだ?」
「なんとなく?ピンときた」
「すごいな」
シンが褒めると、少女は得意げに笑った。
「雨、やみそうだね」
「ああ、何時の間にかな」
大粒の雨はその勢いを忘れてしまったようだった。途切れ途切れに弱々しい雨粒が降り注ぐ。
未だ雲に覆われた空を仰ぎ、少女のほうへと向き直る。
「ありがとうな。助かった」
「ん、いいよ。やくそくしたし」
少女は小指を立てて先程の指きりを強調する。
シンは苦笑するしかなかった。
「またその内会いにくるよ」
「うん」
別れは告げず、シンは紫の方へと歩き出そうとしてピタリとその動きを止めた。
「……腰痛いの忘れてた」
「おにいさん、あんがいばかだね」
「うるさいな」
一先ず紫を呼んで、神社で治療するしかないな。
シンは声を張って呼び掛ける。
「おーい!」
シンを視界に収めた紫は、ほっと安堵の息を吐くと、スキマから飛び立ちこちらへ向かってきた。
とりあえずの安全を確認し、シンは別れを告げるために少女を振り返る。
「――――え?」
つい数秒前まで確かにそこにいた妖怪の少女。
その姿形が今ではすっかりと消え失せていた。
「どうかした?霊夢がうるさいから早くあなたを連れて帰りたいのだけれど」
「いえ、ちょっと」
シンの隣に降り立った紫は少し疲れた声音だった。
一日の半分は寝て過ごすらしいこの紫だが、もしかしたら自分を探すために睡眠時間を削ってくれたのかもしれない。
シンがスキマに腰を気遣いながら入ったところで、周囲の風景を真剣なまなざしで見つめている彼女に気付いた。
紫の視線を辿ると、シンと少女が話をしていた大木を見つめているようだった。
「どうかしました?」
「いえ……なんでもないわ。行きましょう」
優雅にスカートを棚引かせ、紫は己の空間へと入り込む。
まるで未練を断ち切るかのように、スキマは一瞬で、固く閉じられた。
博霊神社に帰って来て、霊夢やら魔理沙やらに喜びだか怒りだかよく分からないタックルを決められて。
その後、夕ご飯を食べた後のことだった。
皿洗いは私がやるわと、珍しく気を使ってくる霊夢に甘え、シンは居間で腰の静養をしつつ新聞を読んでいた。
しかしこれといって真新しい記事はなく、最近あの天狗の取材は不調みたいだなとシンはぼんやり思った。
「暇そうね」
「出た」
「……何よその言い方」
例によって何時の間にか現れていた八雲紫にさした反応も見せず、シンは小さく欠伸をする。
「レディの前で失礼ね」
「すみません。今日は疲れてて」
「まあ、色々あったみたいだし、別に構わないけど」
つんと拗ねたように、紫はシンの向かい側に正座した。
シンもとりあえず姿勢を正すが、だからといって紫が何か言うでもなく、また自身もこの良く分からない妖怪相手に話すこと
もない。
先日まではアダルティーでセクシーなこの八雲紫が近くにいるとなんだか落ち着かないものだったが、今は不思議とそういっ
た気持ちが沸かないでいた。
胸のときめきが消えたというか、旧知の仲のような。自分でもよく分からない馴れ馴れしい感覚が、心のなかにある。
「あれ」
そこで、シンはあることに気が付いた。
なにを思っているのか、目蓋を軽く閉じて瞑想する紫の顔をまじまじと見つめる。
(似てる?)
ついさっきまで一緒にいたあの少女と目元や口元といった顔の随所が似通っている気がする。流石に体は別物だが。
「ちょ、ちょっと…………なに?」
賢者と呼ばれる妖怪にしては珍しく、紫は恥ずかしそうに俯いた。
「いや、知り合いに似てたもんで」
その言葉を聞いた紫は、はっと目を見開くと、シンをじっと見つめた。
「私も……あなたみたいな人知ってるわ」
口元に寂しげな笑みを浮かべ、彼女は言う。
「私がまだ小さい頃……どれほど昔のことだか忘れるくらい昔。まだ幻想郷も出来ていない時代に出会った人」
いまいち妖怪の成長んついては理解していないシンだが、紫の話から察するにどうもこんな立派な隙間妖怪にも純粋にそこらを
駆けまわっていた時期があるらしい。
しかし、普段の胡散臭さと底知れなさが相まって、とてもそうとは思えない。
(幼少時もすごいませた子供だったんだろうな……)
盗み見た彼女の横顔はとても儚げで、日常振る舞っている妖美な妖怪はそこにいない。
まるで大切なアルバムを丁寧に回想して行くように、優しく、愛おしげに語る。
「独りだった私に、いろいろなことを話してくれたわ。実はここを作るときもその人の知恵を拝借してね」
「そうだったんですか……」
月並みな返事しかできず、思わず己のボキャブラリィに嫌気が差すシンであった。
「なんだか頼りない人でねえ。ちょっとからかうとすぐ動揺するし」
「……なんだかそいつとは仲良くなれそうな気がします」
大切な話の腰を折るな、と言わんばかりの紫の視線を受け、シンは押し黙る。
月光を受ける彼女の横顔は、少しだけ悲しそうだった。
「初恋……だったわね」
「…………その人は、」
遠慮がちに、シンは聞いた。
なんとなく、いまの紫は嘘をついている気はしなかった。
「結婚の約束してたんだけどね。すっぽかされちゃった」
笑い話として語ったつもりだろうが、紫の目尻に浮かんでいる涙からして、未だに引き摺っていることが窺える。
思わぬ出来ごとに、シンは動揺した。
親しい訳ではないが、
「そ、それにしても、その男もひどいやつですね」
慰めよう、と思ったのかもしれない。
とりあえず何か言わないと。そう思って口に出たのが真っ先に脳裏に浮かんだ言葉だった。
「そうかもね」
紫も頷く。
「紫さんはその……美人ですし、ほっといてどこか行くなんて勿体無いですよ」
「そうそう。こんなかわいらしい女を忘れてしまうなんて、許せないことよ」
「そうですよ」
わざと大袈裟に頷き、紫はくすりと笑った。
「あなたは霊夢にそういうことしちゃダメよ?」
「な、なんであいつが……?」
「さあ、なんでかしらね?」
「ぐぐ……」
二人で夜空に浮かぶ満月を見上げる。
星々が宇宙に散りばめられた宝石のように輝き、幻想郷を照らし出す。
浮かび上がった自然の風景が、何十、何百、何千と変わることなく悠然とそこにある。
雲ひとつない晴れやかな夜空を、懐かしい風が駆け抜けて行った。
後日、シンがスキマの先での出来事を紫に話して大変なことになるとはこの時誰も知る由がなかった。
最終更新:2012年01月10日 11:44