1
とある日の夜半、シンは人間の里を散歩していた。普段ならとうに寝ている筈の時間なのだが、今日は目が冴えていたので、何となくで歩く事にしたのだ。
夜歩く幻想卿の人里は昼間の賑わい方が嘘の様にしんと静まり返り、シン以外の人の気配はまるでなかった。
暫く歩くと、シンは一人の人影を見つけその人物に声をかけようと歩み寄る。
辺りに明かりは無く、遠目の為にその顔はハッキリと確認出来なかったが、その人物が立っている場所が寺子屋の前の為に、シンはそれが誰かがスグにわかった。
「慧音」
「ん……シン、か。こんな夜中に何をしているんだ?」
「ただの散歩だよ、何か寝れなくてな。慧音こそ何してるんだ?」
慧音は柔らかな笑みを浮かべ、そして夜空を見上げながら言葉を返す。
「夜空が綺麗だからな、少し見ていたんだ」
月明かりに照らされながら夜空を見続ける慧音を綺麗だなぁと思いながら、シンも空を見上げると満天の夜空が目の前に広がっていた。
「確かに、星が綺麗だな」
心の底からそう思った。先程までは民間を見たりや昼間の光景を思い出しながら歩いていたからか、シンは全く気が付いていなかったのだ。
「星もそうなんだが……」
そう言って慧音は言葉を濁らせて少し黙りしてしまう。
シンは何だろうと思いながらも慧音に何も言わずに彼女が何か言うのをのんびりと待つ。
「……シン」
沈黙が暫く続いた後に、慧音は改まった様子でシンを呼び、シンも再び慧音の方を向いた。
慧音は顔を真っ赤にしながらシンを真剣な表情で見つめていて、シンはどうしたのだろうか?等と思いながら慧音に「何んだ?」と返事をすると、慧音は何かを決意した様に口を開いた。
「月が綺麗ですね」
確かに今日は満月では無いが月が綺麗だったのでシンは慧音の言葉に頷き、自らも同じ言葉を軽い気持ちで返す。
「ああ、月が綺麗ですね」
慧音はその言葉を聞くと、心底嬉しそうに笑みを浮かべた。
シンは良くわからずに首を傾げたが―――
(何でか知らないけど、慧音は嬉しそうだし、まあいいか)
と、あまり考えずに暫く二人で空を見上げているのであった。
おまけ
後日、シンはこの台詞の少し特種な意味をパチュリーに聞き、妙に慧音を意識してしまったり、その様子が寺子屋の子供達経由で里の皆に知られて噂になったり、文々丸新聞のネタにされたりするのだが、それはまた別の話である。
2
ある日、手帳を拾った。随分と使い込まれて、少し古ぼけている。そんな手帳だ。
返そうともどこの誰が落としたかわからない。
中身を見るのもどうかと思い見ていないが、何の手がかりもないまま落とし主を探すのも酷だ。
とりあえず知り合いに片っ端から手帳について聞いているが、今のところ心当たりのある人妖は0だった。
霊夢の勘に頼ったりもしたが……。
「捨てなさい」
「えっ」
「いいから捨てなさい。それを持っていることに、酷く嫌な予感がするわ」
これだ。霊夢がそう言う以上、何か厄介ごとがあるのかもしれないが……。
厄介事は今更だし、そういう訳にはいかない。そう言ったが、霊夢は苦い顔をするばかり。
仕方なく一人で持ち主を探しているが、見つからないまま時間だけが過ぎて。
業を煮やし、持ち主に心の中で侘びつつ、手掛かりを求めて中を見た。
そこには、写真の中の俺がいた。
昼寝をしている俺がいる。
汗をかいている俺がいる。
服を脱いでいる俺がいる。
汗を流している俺がいる。
子供と遊ぶ俺が。間食をしている俺が。弾幕ごっこから逃げ惑う俺が。
霊夢の脇に触れてぶん殴られた俺が。魔理沙のスカートに頭を突っ込んで踏みつけられた俺が。早苗の胸に顔から突っ込んでひっぱたかれた俺が。
笑顔の俺が。怒り顔の俺が。悲しい顔をした俺が。
俺が。俺が、俺が。俺が、いる。
「……なん、だよ、こりゃあ!?」
戦慄する。
これは手帳なんかじゃない。
これは俺だ。俺という人間が幻想郷に来た時からの、全ての記録だ。
そして。この写真というものを、ここまで撮ることができる人妖。
そんな妖怪の心当たりは、一人しかいない。
「……見ました、ね?」
強い風が、吹いた。
同時に、耳元に、人の息と、声が、届く。
「ずっと、ずっと」
足が動かない。腕が動かない。体が、動かない。
「あなたの、ことを」
声が出ない。
後ろから抱きつかれ。
腕が、全身を、撫でるように這い。
「見てました」
意識が落ちる瞬間
光悦の表情をした、射命丸文の顔を、見た。
文「シンさん! シンさん! シンさん! シンさんぅぅうううわぁああああああああああああああああああああああん!!!」
シン「ダレカタスケテー!?」
その後、妖怪の山にて大戦争が起こるがそれはまた別の話。
3
本日、幻想卿では人里の刈り取り跡が残る田でどんど焼きが行われていた。人々は正月に飾っていた門松や達磨等を燃やし、その火を囲みながら竹先に三色の団子を付けて焼いている。
シンは普段手伝いをしている関係で、慧音や寺子屋に通う子供達と共にその会場に来ていた。
慧音曰くこれも課外授業の一環で、一応引率者として来ないかと誘われ、シン自身も興味があったので、断らずに付いて来たのだ。
「こんな祭りはオーブやプラントにはなかったから新鮮だなぁ。どんな祭りなんだ?」
「これは門松や飾りを燃やすことによって正月に迎えた歳神を炎と共に見送る祭りだ。外では地域によって様々な違いがあるらしいがな」
物珍しそうに祭りの様子を見るシンに慧音は簡単に説明して子供達の方を向いた。
「さあ、皆それぞれ自分で書いた書初めは持ってきているな?」
「「「は~い」」」
慧音の問いに子供は声を揃えて元気に返事をしながらそれぞれが一生懸命書いたと思われる書初めを持ち上げる。
「じゃあ、早速燃やそう」
団子を焼いていた大人達にスペースを作ってもらい、子供達を並ばせる。
「じゃあ、皆。しっかりと投げ入れろ。
……せ~のっ!!」
シンの掛け声で子供達は一斉に書初めを投げ入れた。すると、それを投げ入れた瞬間に炎が高く燃え上がる。
「皆、よかったな。書初めを入れた瞬間に炎が燃え上がると字が上達すると言われてるんだ」
慧音は慈愛に満ちた瞳で子供達を見つめ、手前に居た二人の子供を優しく撫でた―――。
書初めが燃え尽きるのを見届けた後に、子供達はそれぞれ家族や友人と集まり、団子を焼いたり焼けたそれを食べたりしている。
シンと慧音は程離れた場所からそんな様子を微笑みながら見つめていた。
「今日は誘ってくれてありがとうな、慧音。すげぇ楽しかったよ」
「そうか、それは何よりだ。だが、寧ろ礼を言うのは私の方だ。シンが居てくれたおかげで子供達も楽しそうだったしな」
たわいもない会話をしているシン達の元に、少し小さめ皿に盛られた団子を持った数人の子供達がやって来た。焼きたてなのか、団子からは湯気が立っている。
「慧音せんせぇ~、シンせんせぇ~」
シンは子供達に先生と呼ばれている。慧音の手伝いをしたり、休み時間に子供達と遊んでる内に気付いたらそう呼ばれる様になっていたのだ。
「ん、どうしたんだ、お前達?」
慧音は膝を曲げて中腰になり、子供達と出来る限り視線を合わせる。
「これ、お母さん達がせんせぇ達におそそわけだって。私達も焼くの手伝ったんだよ?」
子供達はそう言って慧音達に団子を差し出す。
「そうか、美味しそうに焼けているな。ありがとう、一ついただくよ。
せっかくだ。シンももらえばいい」
慧音は両手で少し熱い団子を一つずつ摘まみ、片方をシンに渡そうとする。
「ああ、ありがとうな。
けど俺は夕飯食べてきて腹いっぱいだからさ、気持ちだけ貰っておくよ」
と、シンは遠慮しようとしたのだが、慧音がそれを許さなかった。
「ダメだぞ、シン。
先程は説明しなかったが、この行事は無病息災を願う行事でもあって、あの炎で焼いた団子を食べると一年間健康で居られると言われてる。腹がいっぱいでも食べておくんだ。
ほら」
慧音はそう言ってシンに渡そうとした方の団子をそのまま彼の口元まで持って行った。
その慧音の行動に、団子を持って来てくれた子供達だけでなく、その場に居た皆の視線が集まる。
「えっ、ちょっ、慧音?」
シンは慧音のその行動と、自分達に集まるその視線に気が付いて赤くなるが、慧音は気付いていない様で、シンの口元に団子をずいと押しつける。
「~~~~~~~~~っ」
シンは自らの顔にさらに熱が集まるのを感じながら、自らに団子を押しつけたまま離す気の無い慧音の様子を見て観念したのか、口を開いて慧音の持った団子にかじりつく。
「うん。これでシンも今年はきっと病気にはかからないぞ。
……ん? どうした、お前達?」
「慧音せんせ~、シンせんせぇ~にあ~んした」
「ラブラブ~」
「なっ?」
子供達からの指摘でやっと気が付いた、顔がゆでダコの様に真っ赤に染まる。
「あっ、真っ赤になった」
「慧音先生可愛い~」
「こっ、コラー!! 大人をからかうな!!」
「わー、慧音先生が怒ったー」
笑いながら逃げ出した子供達を追うためにシンにもう一つの団子を押し付けて慧音も駆け出した。
周りの大人達はそんな様子を温かな目で見守り、シンも苦笑を漏らしてから慧音から押し付けられた団子を一かじりした。
幻想卿は今日も平和です
4
「あのおじさんって、霊夢さんの叔父さんじゃなくてただのおじさんだったんですか!?」
口にすると訳が分からなくなりそうね。
博麗霊夢はそんなことを思いながら、ちゃぶ台を挟んだ向かい側で驚いている人物に答えた。
「やっぱり早苗も勘違いしてたのね。魔理沙も最近までそう思ってたらしいけど」
無理もないと霊夢も思う。霊夢自身もまた、子供の頃は自分たちが『おじさん』と呼ぶあの人をてっきり親戚な
のだと思い込んでいたのだから。
早苗と呼ばれた少女――東風谷早苗は、家庭の事情に触れるのではないかと多少気後れしたようだが、それでも
躊躇しながら訊ねてきた。
「えっと……じゃあ霊夢さんとはどういう関係なんですか?」
「そうねー。一応は私の師匠ってことになるかしら」
「師匠って、術の?」
「昇天脚の」
「そっちなんだ……」
霊夢は手に持っていたお茶を啜り、一息入れてから再び口を開いた。
「私が巫女を継ぐより前にね、紫が連れてきたのよ。身体の動かし方も学びなさいって」
訓練は巫女の修行の合間に受けた。訓練と言ってもそんな大層なものではなく、教わったのは護身術くらいのも
ので、終わるまでに一年もかからなかったが。
昇天脚もその際に覚えたのだ。
しばらくしてから「なにか必殺技はないのか」と訊ねると、おじさんはボールを木に吊るし、身体ごと縦に回転
してボールを蹴りあげて見せた。
――これが座不屠琉拳の奥義・サマーソルトact.D。これができれば霊夢もついに免許皆伝だな……。
などとしたり顔で語るおじさんの戯言を本気にした自分がうらめしい。
派手な見かけに騙され子供心にカッコイイなどと思ってしまった私は、必死に練習して奥義とやらを会得してし
まったのだ。
止しておけばいいのに嬉々としておじさんに報告した私に対し、あの人はこうぬかしてくれた。
――ザフト神拳? なにそれ。里で流行ってるのか?
次の瞬間、私のサマーソルト霊式はおじさんの下顎に命中していた。
こうして子供の純心を弄んだ悪いおじさんを退治したその技は、昇天脚と改名され博麗の巫女の技となったので
した。
めでたしめでたし。
「じゃあ、あの八雲紫が連れてきたって事は、実はすごい格闘家だったりするんですか?」
「まさか。そんなとこ見たことないし。単に格闘技を教えられる暇な人が他にいなかったんでしょ」
「暇って……普段なにしてる人なんですか?」
「里で畑仕事を手伝ってる以外は暇そうにしてるわよ。池の亀に餌やってたり、霖之助さんのところでカード
とかスゴロクみたいなので遊んでたり」
「はあ……」
「おじさんについてはそんなところね。でもなんでいきなりおじさんの事を聞くのよ?」
「え? ええと、それは……なんていうか興味を引かれたというか」
なにやら言いよどむ早苗に、霊夢はふと思いついたことを口にする。
「もしかして早苗、あんた……おじさんに気があるの?」
「違いますよ!」
「あ、そう」
どうやら違ったらしい。まあそうだろうと霊夢は思う。あんな人を好きになるなんて余程のもの好きくらいだろ
う。寝癖は直さないし、着ている服はいつもよれよれだし。私が行かなかったら万年布団でいるし。時々野菜を
持ってきてくれるのはありがたいけど結局おじさんの分も私が調理してるし。
昔からおじさんを見ていた自分は「せめて見てくれだけはどんなに面倒でもちゃんとしていよう」と心に誓った
ほどだ。
「時々ね、実はおじさんはロリコンなんじゃないかって疑いそうになるのよね。もう三十路なのに浮いた話を全
然聞かないし。普通それくらいになれば縁談の一つでも来そうなものなのにね」
「…………」
そう言ってお茶を啜る私に、早苗はなぜか胡乱な目で見てくるだけだった。
「おじゃましました」
博麗神社を後にした早苗は、帰る道中で霊夢との会話について考えていた。
霊夢のおじさんの事を聞いたのは、ただの好奇心からだった。
数日前、人里に買い物に出ていた早苗は偶然、霊夢の姿を見かけていたのだ。
最初は声をかけようとしたのだが、霊夢のそばにいる人物に気づいて出しかけた声を引っ込めた。
霊夢の後ろには男性が一人、引きずられるように歩いていた。ぼさぼさに伸ばしたというよりもただ伸びただけ
といった風の黒髪に、どこか眠そうな目つきをした、紅い瞳の男性。
そんな男性の片腕を、霊夢は抱え込むように引っ張っていた。
“なあ、霊夢。べつにそんなに急がなくてもいいと思うんだけど……”
“なに言ってるのよ! おひとり様一つ限定の特別価格よ! 主婦が狙ってないわけないじゃない! おじさん
はこういう時くらいにしか使えないんだからもっとやる気だしなさいよ!”
“あー……分かった、分かったって”
観念した男性がようやく霊夢の急ぎ足に追いついて並ぶと、自然と腕を組んで歩く形になるのだが、彼女は急ぐ
あまり気づいているのかいないのか、男性と腕を組んだまま道を歩き続けていた。
そんな二人の背中を思い出しながら、早苗はぽつりと呟いた。
「おじさんに女っ気がないのって……霊夢さんのせいなんじゃないかなあ」
そんな早苗の呟きに、当然だが答える者はいなかった。
5
重く鋭い一撃が、真っ直ぐ自身の身体を貫いた。
人間大の拳で放たれたはずのその一撃は、しかし足を地面から放し、まるでバットで撃たれたボールの様に肉体
を中空へと吹き飛ばした。だというのに、それでもシンは自身の身に何が起こったのかを理解するまでに時間を
要した。
背中から地面に落下する感覚を覚えながら、ただ一つの単語ばかりが脳裏を過ぎる。
―――なぜ?
―――何故?
―――ナゼ?
錆び付いてはいたが、過去に蓄積した訓練の成果はまだ有効期限を過ぎていなかったらしい。混乱する頭でも、
身体はなんとか受身の態勢へと移るこができた。
問題はここからだ。
シンの冷静な部分の懸念に反して、身体は滞りなく動いてくれた。
防御した両腕が電気を流したかのような痺れを伝えてくるのを感じながら、上体を起して跳ねる様に立ち上がる。
追撃が無いのを確認し、すぐに視線を相対する人物へと向ける。
果たして、先程の一撃を放った者はそこにいた。
閉じた日傘を持った、赤いチェックの入ったスカート姿の、若い女性。
その見た目からは、男一人を宙に飛ばすような拳を繰り出せるようには到底思えない。だが確かにシンは目の前
の彼女に吹き飛ばされたのだ。
だがそこまで分かっていながら、それでもシンは反撃するという発想に思い至れなかった。
「なんで、いきなりこんな……」
困惑を口にしても、彼女の答えはない。
彼女の態度に変わったところは見られない。いつも通り優しい微笑みを浮かべた、柔らかな物腰。
彼女のことはシンも知っている。花屋で働くようになってから、よく世間話をしていたお得意様だ。彼女が妖怪
であることも知っていたが、花について詳しい彼女に何度か相談に乗ってもらったこともある。
今日も自分が育てた花を見てもらおうと彼女の元を訪れたのだが、会話していたところをいきなり攻撃されたのだ。
一撃目を避けられたのはまったくの偶然だった。もし避けられていなければ、今の二撃目を防ぐことなどできない
ままシンの意識は沈められていただろう。
そんな明確な害意を放ちながら、彼女の態度に何の変化も見られないことが、さらにシンを戸惑わせた。
「お、落ち着いてください。何か気に障ったのなら謝りますから……」
とにかく攻撃を止めさせようと思い、そこまで言ったところで、初めて彼女に変化が見れた。
彼女の口角が浮き上がったのだ。
笑った?
そう理解した瞬間、彼女は日傘を開くと自身の頭上へと投げた。
無意識に投げられた日傘を目で追った――直後。
目前に彼女が迫ってきていた。
「――ッ!」
驚きで声を出す間も無かった。
接近の兆しをまったく知覚できなかった。意識を逸らした一瞬の隙に、一歩では到底詰められないはずの間合い
を詰められた。
掴みかかってくるその細腕を、シンはとっさに手で払った。
(やらないと――やられるッ!)
判断してからの行動は早かった。腕を払った状態から半身を相手の懐にもぐりこませ、左手でフックを放つ。それに
応じて彼女は身を捻ってかわし、回転するように肘でこちらのこめかみを狙ってくる。
シンは首を動かし寸でのところで避け、そのまま地面に倒れこむ――直前、地面に手を着き、跳んで距離を取る。
着地して振り向いた瞬間、自分に向かって飛んで来る何らかの物体が視覚に入り込んできた。
(石……!?)
すぐに顔を防御する。だが腕に当たった感触は予想したほど硬くは無かった。
軽い音を立てて、腕に当たったそれが地面に落ちる。だがシンにはその物体がなんなのか確認することは出来
なかった。
「ッ!」
恐るべき速さで再びシンの目前に迫っていた彼女に腕を掴まれ、足を払われた。
いったいどういった力の作用が働いたのか、くるりとシンの身体が中空で逆様になる。まだ彼女に腕を掴まれた
ままのその様は、傍目にはまるで天に落ちようとするシンを落とすまいと掴んでいるように見えただろう。奇妙
な話だが、事実そうであった。
そして地へ向かう重力はしっかりと長年の努めを果たした。他ならぬ彼女の手伝いを借りて。
思いっきり、シンは地面に叩きつけられた。
背中から落ち、さらに跳ね跳ぶ肉体。受身を取る事もできないまま、シンは無力に地面に転がった。
「がはッ! う、あ・・・・・・は、ぁ・・・・・・ッ!」
背中を打ったせいで呼吸もままならず、空気を求めて喘ぐ。
ようやく息ができるようになった頃、シンは仰向けに倒れたまま、呆然と空を見つめていた。
そうして涙目に滲む視界に広がる青い空に、一つの影が差した。言うまでもない、彼女だ。
シンはもはや動くことも
できないまま彼女を見つめるしかなかった。
彼女の手には箱があった。赤い長方形の箱にリボンで装飾されたそれは、先程自身に投げつけられた物だと後に
なってから分かった。
彼女はリボンを解き、箱の中から親指大の小さな物体を取り出すと、力なく開かれたシンの口に押し入れる。
シンは抵抗することもできず、口に入れられた物体を租借する。そうしてシンが物体を飲み込んだのを見届け
ると、彼女は満足げに微笑み、落ちた日傘を拾ってそのまま立ち去って行った。
いったい何故、彼女――風見幽香がシンを攻撃してきたのか。その時にはすでにシンはその理由に気づいていた。
一人その場に残されたシンは、口に入れられた物について一言だけ、ぽつりと呟いた。
「……チョコレート」
ああ、そういえば今日はバレンタインだっけ。
普通に渡してくださいよ、幽香さん……。
内心で彼女に告げながら、シンはただただ苦笑するしかなかった――。
了
最終更新:2013年04月20日 17:03