三国志に登場する武将達の中に、陳到という謎の多い武将がいる。
彼は正史三国志に記述された武将達の中でも、その存在から推測される重要性に比して情報量が異常に少ない事に特徴がある。
そもそも彼は正史三国志本文にはほとんど登場しない。
正史三国志の中にある蜀臣の一人である楊戯の伝に、彼が著した蜀臣顕彰文である季漢輔臣賛が収録されており、
その中にある陳到に対する短い賛辞と陳寿による若干の補足文が彼に対する主要な情報を占めている。
正史の中に彼の伝は立てられておらず、他者の伝に登場する事は李厳伝において
「(劉備死後数年して)李厳は江州に移ったが、護軍の陳到はそのまま永安に留まって駐留した。」の一度だけ。
これだけの記述であれば、史書を読んだ者達はそういう名前の武将がいたのか、とさして気にも留めず、
それ程興味も持たれなかったに違いない。しかし季漢輔臣賛においてその名が趙雲と並ぶ位置に置かれている事で、
史書の読者は改めてこの人物に対して瞠目する。そして陳寿がその補足文において彼が劉備古参の家臣であった事、
蜀軍の将軍でも上位にいた人物であった事を簡潔に記している事で、ここまで読み進めた者達はその存在の特異さと一つの疑問に突き当たる。
「何故にこれ程の人物に対する情報が、ここまで少ないのか?」と。
逆説的にいえば季漢輔臣賛を楊戯が著した事と、それを陳寿が正史に収録して若干の補足文を付けた事で、
陳到という存在は後世にかろうじて理解される形で残ったといえる。
そんな彼についてわかる事はとにかく少ない。箇条書きで並べていけば10もいかずに埋まってしまう。
試みにかれについて記述された情報を羅列してみれば
1.姓は陳、名は到、字は叔至という人物であった事。
2.汝南郡の出身と記され、豫州において自分から劉備に随行して仕えたらしい事。
3.名声と位は常に趙雲に次ぐものであり、忠義と武勇を称えられた事。
4.趙雲と並んで選り抜きの兵を率いて戦い、猛将としての烈しさを見せた事。
それを考慮してか、季漢輔臣賛でも趙雲と並んで記されている。
5.大きな忠誠の心を持った人物であった事。
6.役職では護軍(君主の直属軍指揮官)から最終的に永安都督・征西将軍となり、亭候に封ぜられた事。
7.劉備死後、ずっと永安に留まり続けた事。
8.正史ではなく、華陽国志ではあるが、226年の段階で既に征西将軍であり、
正史の記述とあわせると護軍との兼任であったと思われる事。亭候に封ぜられたのもこの時であった事。
などである。しかし、これだけではわからない事が多すぎる。
まず征西将軍の役職とは将軍号の中でも上位に位置する重職であり、
護軍と征西将軍の兼任者ともなれば、当時の蜀軍でもトップレベルの位を持つ将軍と言っていい。
それ程の地位に就いた人間でありながら、列伝もされず、具体的な功績については一切不明。
彼と並び称された趙雲にはいくつもの功績と記述が残っているにもかからわず、である。
不審な点はまだある。陳寿は季漢輔臣賛における彼への短い顕彰文に若干の補足文をつけたが、
彼がこのように補足文を付けた人間達は他にも何人もいる。
そして陳寿は彼ら一人一人について可能な限りの事績と情報を書いており、
その情報量は陳到につけられた補足文をはるかに上回る。
その上で大抵は「この人物の事績は散逸してしまった。だから伝を立てられなかった。」と
寂寥の気持ちが伺える注意書きをつけている。
にも関わらず、陳到に関してはそれが無い。
まるで陳到に関しての情報の全てが、自身の記した若干の補足文が全てであるとでもいうかのように。
劉備の創業を長きにわたって随行して支え、趙雲と並び称された程の人物でありながら、
この扱いは非常に奇妙と言える。
果たして陳到という人物の実像とは、いったい如何なるものだったのであろうか?
今となっては確定解答など出せるわけもなく、導き出せるのは残されたわずかな情報からの推論でしかない。
そんな後世において尽きぬ謎に包まれるその存在の名を、
並行せる無数の世界の中の一つにおいて、
異世界からの来訪者たる黒髪赤眼の男が冠する事になったのは果たして必然であったのか、それとも運命の悪戯であったのか。
答えは無論、当事者達にはわかるはずもなかった。
黒髪赤眼の男、シン・アスカと桃色長髪の少女は邂逅の後、お互いの事について情報を交換しあった。
無論、シンは自身の事に関しては、相手が理解できる範囲で説明したにすぎなかったが。
さすがに星の果てにある国の軍人だの、MSだの、宇宙戦艦だのを述べたとしても、
シンが見て回った限りのこの世界の文明度では理解どころか、想像も及ばない事であるに違いない。
その結果、シンが理解できたのは、どうやらこの世界はシンがいた世界における暦であるC.E.(コズミック・イラ)以前の旧暦世界における、
中国の三国志時代に極めて近い、という事であった。
史学に特に造詣が深いわけではないシンであったが、
さすがに漫画・小説・ゲーム・映画・活劇、様々な事柄から、
青少年の興味を刺激する機会の多いこの時代については、一通りの知識はもっていた。
活発な青少年の中にはこの時代に対して、強い執着と興味を持ち深い知識を有するようになる者も結構いる。
シンの同世代の友人であったヨウランなどもその類であり、
この時代のゲームで遊んだり、英雄達について熱い薀蓄を聞かされたしたのもいい思い出である。
そして、シンが持つ知識とイメージからして、目の前の桃色長髪の少女が真名を桃香、
俗名を劉備玄徳、と名乗ったのは一方ならぬ衝撃であった。
ちなみに真名というのは桃香曰く、この世界において各人が持つ、
その存在の本質を表す名前であり、心を許した証としてその相手に「真名を呼ぶ事を許す」意味で「真名を託す」のだそうだ。
ちなみに、信頼する人間以外にはまず真名を秘すものであり、
仮に何かの偶然で知ったとしても相手の許しもなしに真名を呼ぶ事は切りかかられても文句はいえない事なのだそうだ。
その真名をあっさりとシンに教えてきた桃香は、先程の邂逅時の言葉通りシンを余程信頼してくれているようだ。
それはさておき、シンが知る限り、劉備玄徳という名前は三国志時代における主要な英雄の一人ではあるのだが、
その性別は紛れもなく男だったはずである。
いや、当人に会った事は無論ないが、文献だのサブカルチャーだので見る限り、明らかに男だったはずである。
何より、シンの知識によれば劉備玄徳の容姿とは「身長は7尺5寸(約180Cm)、
耳は自身で見る事が出来る程大きく、手は垂らせば膝下に届く程だった。」という、
大層魁偉なものであったはずである。
見たところ、目の前の桃色髪の少女は身長168Cmの自身よりも背丈は低い。
耳の大きさも腕の長さも至って普通の女性らしいサイズである。
これがどうして史書の記述になったのか、シンには極めて疑問であった。
それ以前に、そもそも性別自体が違う時点で、この世界はいうなればパラレル・ワールド、というべきものなのではないか、
というのはシンがまず感じた疑念であった。
ならば、自身が持っている知識もどこまで「この世界の歴史」において有用であるのか、極めて疑問である。
とまれ、基礎的な事項に関しては……、とシンがここまで考えた時点で、
何やら目の前の桃色長髪の少女が顔を赤らめているのに気がついた。
「あの……そんなに見つめられると困るな。」
そういって、少女は何やら困ったように瞳を明後日の方に向ける。
よく考えれば、男がひたすら女性の顔を凝視する、というのは、
恋愛的な要素を感じられてもおかしくはない。
実際に彼女の容姿はシンの基準に照らしてみても、可憐、あるいは可愛い、
と形容するに相応しいものではあった。
「あ、ああ……ごめん。」
シンも健全な青少年である以上、美少女と言っていい少女から赤らめた顔をそらされる、
というのは多少リアクションに困るものではあった。
相手の顔の紅潮が伝染したように、自身の顔も赤らめながら、シンもぎこちなく謝罪した。
「そ、それで貴方の名前の事なんだけど……」
「ん?」
シンは改めてその言葉の意味を反芻する。自身の名前はシン・アスカ。それは先程名乗ったはずであったが。
「ち、違うの。シン・アスカっていう名前は聞いたんだけど、その名前だとこの世界で色々と不自由すると思うんだ。それに真名の事もあるし。」
「真名かあ……。」
馴染みの無い単語を鸚鵡返しに口にしながら、シンは相手のいう事を反芻する。
確かに三国志時代における人名は漢字による姓名+字(あざな)、で構成されており、
大抵は姓に一字、名に一字、字(あざな)に2字、の漢字4文字で構成されるのが主流だったはずである。
有名どころでは曹操孟徳、関羽雲長、張飛益徳、などなど。
この世界で一人「シン・アスカです。」と名乗った所で違和感ありまくりであるのは否めない。
外国からの異人、として奇異の目で見られるのはおそらく確実であろう。
実際、そのようなものではあるのだが、この世界で自然に溶け込んでいく為にはそれらしい名前があった方が好都合ではある。
「つまり本名とは別に、この世界での俺の名前を新しく作った方がいい、って事か?」
「そ、そうなの。シン、っていう名前を真名にして、それとは別にこの世界で自然な名前を作った方が、色々便利だと思うんだ。
それで、その名前に関しては私がいいのを付けてあげたいなー、って。」
最後の方をしどろもどろにしながら、何やら上目使いにこちらを見据えてくる桃香。
どうやら彼女は、シンのこの世界での名前、というのを自分で決めたいらしい。
命名、というものに一際執着する女性、というのは意外といる。
気に入った相手の綽名などをやたらと自分で作りたがる人間というのも、この類型に属する。
この場合の桃香もそれに属するのか、それとも別の思いがあるのか否か。
なんにせよ、この世界の住人である相手にいい名前案があるというなら、
こちらが考える手間が省ける、というのは事実である。
「いいさ。言ってくれよ。」
「本当に?」
「ああ。でもあんまり変な名前だと困るけどな。」
「うん、それは大丈夫だと思う。陳到っていう名前はどうかな?」
「陳到……。」
彼女が嬉しそうに唱えたその名前を、シンは自身で復唱してみる。
特におかしな名前ではなさそうであるし、唱えやすい名でもある。
何より、目の前でやたらと期待のこもった表情でこちらを見据える相手を見ると、
シンにはそれを押してまで拒否する理由がないようにも思われた。
「ああ、いいんじゃないか、それで。」
「本当? じゃあこれで決まりだね。」
シンの言葉に文字通り飛び上がらんばかりに喜ぶ桃香。
それだけで承諾した意味があったかとシンは思いつつ、ふと思いついた疑問を訪ねてみる。
「それで、この名前は一体どういう意味なんだ?」
「え? そ、それは……」
シンの質問に、桃香はどこか照れくさそうに顔を赤らめ、やがてはにかみながら答えた。
「内緒だよ。」
この世界に来たばかりのシンは知らない。
陳という字は「長い時間を経た」という意味を持ち、到という字には「たどり着く」という意味がある。
つまり、陳到という名は「長い時間を経てたどり着いた存在」、
彼女がこの世界で長らく求めてやっとたどり着いた己の居場所、
という意味を込めた名である事を。
その名の意味を黒髪赤眼の少年が知るのはもう少し後の話。
されどこの瞬間、陳到の名を持つ一人の人間が、この世界に確かに誕生したのだった。
最終更新:2012年12月07日 10:53