全身を叩き付ける向かい風を真っ向から受けてなびく、少女の色素の薄い艶やかな長髪は、つい先ごろから水平線の彼方に昇りはじめた陽の光に照らされて、まるで波打つ銀糸の様に美しくきらめいている。
さらに少女自身の美しく整った顔立ちと、しなやかな肢体とが相まって、絵画に描かれた女神の様な、どこか現実離れした存在に見えてしまう。
だが最も現実離れしているのは、その美貌以上に、彼女が青い太海の上に足を付け、さらにその上をまるで銀板の上を滑る様に進んでいる事だろう。
人間であるなら異常な光景だが、"艦娘”と呼ばれる存在である叢雲に取っては、地面の上を歩くのと大差無い行為だ。
「ちくしょう」
叢雲のやわらかく瑞々しい唇からこぼれた呟きは、彼女の凛とした美しさから遠くかけ離れた汚い悪態であった。普段の叢雲ならば思っても決して口には出さない代物だが、今の彼女は普段通りに振舞えない程不機嫌であった。
艦娘が海に出ると言う事はイコール出撃であり、戦いを好む叢雲に取って高揚こそすれど、不愉快になる事は無い。だと言うのに叢雲が不機嫌なのは、ひとえに彼女が装備する擬装にある。と言うのも。本来であれば一撃必殺を誇る魚雷発射管が乗せられている場所には、その代わりに資源を満載したドラム缶が載せられていて、最低限の主砲と機銃しか持たない今の叢雲は、武装した高速輸送艦と言う状態であった。
水雷戦の花形と呼ばれる高速の駆逐艦が、その任から外れ、あまつさえ、この様な不恰好な姿で想定外の任務に就かされている今の状況に叢雲は腹に据えかていた。
だが彼女とて兵站を軽視している訳ではない。戦う為には燃料弾薬は必須であり、その確保の為であれば輸送任務への参加もやむなしと考えている。これが一度や二度、最悪十回程であれば、怒りを感じるほど不機嫌にはなると言う事は無い。だがそれが、これから先、数ヶ月、数年、下手をすると一生となるかもしれないとなると話は別だ。
「ちくしょう」
加えて、この物資の輸送先は最前線ではなく、戦場から離れた後方の基地だ。それもこれも、たった一度の、叢雲から見ればあまりに些細な不手際を見咎められた結果だ。
それを理由に彼女は、つい数日前まで所属していた前線部隊から異動、ずばり左遷させられた。それだけでも彼女に取っては目の前が真っ白になる程の衝撃的な出来事なのだが、追い討ちをかけたのが、新たな配属先と、その任務内容である。
「ちくしょ……」
『何が"ちくしょう”じゃ! 叢雲! 人の話を聞いておるのか!!』
三度吐き出されようとした悪態を遮る様に、叢雲の耳に取り付けたインカムから鼓膜を突き破らんばかり音量の怒声が響く。
驚きによりもたらされた新しい不快感は、彼女を激昂させるのに十分すぎる物で、負けじとインカム越しの相手に怒鳴りす。
「うるさいわね! そんなにデカイ声出さなくとも聞こえるわよっ!!」
『何を言うか、うつけが! さっきから何度も通信しておるのに、それを貴様が無視するからじゃ!!』
「分かったわよ……何の用よ」
『もうすぐ味方の勢力圏内に入る。だが最後まで気を抜かず、警戒をより一層厳にせよ。よいな?』
「分かったわよ……」
インカムの向こうの声の主は、彼女と同様に海を行く艦娘、初春型のネームシップ、初春だ。彼女は今、叢雲より何十メートルも離れた位置を航行している。他にも三人の艦娘が叢雲の視界の外で航行している。
この初春を旗艦として編成された"第二〇一駆逐隊”は、叢雲が昨晩の航行開始の直前に配属された部隊である。海軍の慣例からは考えられない不可解な番号が付けられているこの駆逐隊は、これまで叢雲が所属してきた部隊とは、性質を異にするが故である。
駆逐隊とは本来、敵艦隊へ切り込み、その魚雷を打ち込み敵を殲滅する部隊である。対し、この二〇一彼女達が所属する艦隊が、これまでの海軍が主目的としてきた艦隊決戦ではなく、海上通商路の防衛を主眼として新設された"変り種”の艦隊に所属し、既存の駆逐隊は違う存在だと言う事の証明である。
叢雲が新たに配属された艦隊は、彼女がこれまで所属してきた敵中に切り込み決戦を挑む部隊ではない。護衛や哨戒を主任務とし、自衛の為に魚雷を撃つ事はあっても、手負いの敵を徹底的に追い詰め殲滅する事はしないし、今日の様に自身が資源を輸送している場合は、あまつさえ背を向け逃走すると言う、叢雲の価値観から見れば、あまりにも情けない艦隊であり、そしてあろう事か、自分がその列に加えられてしまった。
この現実こそが、叢雲が自制する事が出来ないほどの強烈な不快感と怒りを生み出していた。
『叢雲、もう少しで陸に付く。あれこれ考えるのはそれまでの辛抱するのじゃ。今は任務に集中せよ……そのままでは沈むぞ』
初春の叱責は続くが、その中に自分を案じる思いが込められている事は叢雲にも理解できた。今の初春の言葉の様な自分への気遣いは、昨夜の出航前から、二〇一駆逐隊の面々と初めて顔を合わせ隊を組んだ時から何度もあった。
初春だけではなく、僚艦である彼女の妹達もまた、叢雲に対し何度も気遣ってくれた。普段の叢雲であれば、生半可な同情などかえって気に障るのだが、今の彼女には逆に救いを感じ、言葉には出さないが、内心では感謝していた。
太陽は段々と高い位置へと昇り行き、やがてその全体が浮かび上がり、遮る物のない大海を行く叢雲達を強く照らし付け始める。夜陰に乗じた奇襲を受ける心配はなくなったが、これ以上無い程に見通しが良いと、今度は敵の強襲を受ける危険性が高まる。
『電探に反応あり! 飛行機だよ!!』
その時、再びインカムから叫び声が響く。初春の妹、古風な物言いの彼女と違い、実際の年齢以上に幼い言動が目立つ子日の声だ。
彼女は隊内で唯一電探を搭載し、部隊の"目”として索敵を担当している。子日の言葉につられて上空を見渡すと、何もない水平線の果てに、豆粒ほどの小さな"点”を見つける。
『あれは味方機だ』
"点”に最も近い位置にいた若葉が、その正体をいち早く識別し味方に伝える。やや遅れて、叢雲達も若葉と同様にそれが味方機である事を確認する。
味方航空機の存在は、つまり空母や基地航空隊が近くに存在する証拠であり、本来であれば心強い存在であるのだが、現れた機体が既に時代遅れとなった九六式艦戦である事が分かると、途端に不安へと変わる。
いくら敵機動部隊の進出が報告されていない海域とは言え、骨董品と化した機体を寄越されると言うのは、艦隊の窮状を物語っている事に他ならない。その事に叢雲はただ落胆するばかりで、九六式艦戦の主翼の端に取り付けられた、明らかに非正規の装備品の存在に気付かなかった。
『鳳翔の艦載機じゃな。この調子なら、もう一時間もかかるまい……気を抜くでないぞ』
鳳翔と言う名前に、叢雲は聞き覚えがあった。同じ部隊にいた事は無いが、内地で顔を合わせた事が何度かある。正規空母と比べて艦載機運用搭載数でこそ劣るが、彼女が歴戦の艦娘である事は誰もが認める事である。
最初は一機だけだった哨戒機が、二〇一駆逐隊を確認すると素早く僚機を呼び寄せ上空警戒を密にする手際の良さは、鳳翔の優秀さを裏付ける物である。それが分かると、今度は旧式でも途端に頼もしく見えてしまうから、我ながら現金な物だと叢雲は自嘲する。
晴天下での空からの目を得た事により、敵水上艦隊の奇襲を受ける可能性もほとんど無くなった訳だが、それでも二〇一駆逐隊の面々は気を緩めることはしない。上空警戒が万全であろうとも、高性能の電探を装備していようとも、深海棲艦は一瞬の隙を決して見逃さず、どこからともなくと現れ襲い掛かってくる。
今の様な状況下で油断し撃沈された艦娘を、叢雲も初春の姉妹達も何度も見てきた。二の舞になりたくなければ、ようやく見えてきた陸地に上陸するその時まで、決して気を抜いてはいけないのだ。
西太平洋に浮かぶ小さな島、その名はラゴス島。
長い航海の終点の場所であり、二〇一駆逐隊の母港が存在する島である。誰一人欠ける事無く帰還し帰還し上陸できた喜びは、心身ともに疲れ果てた初春達の心を大いに癒すものであった。
「何よこれ」
ただ一方の叢雲は、喜びよりもまず我が目を疑い愕然とした。
その理由は多々ある。まず港の規模が、今まで見てきたどの港よりも小さい事であるが、それは他の問題に比べればギリギリ許容範囲と思えてしまう程、他の問題は強烈であった。
多くの巨大な軍艦を受け入れる港と言う物は、大量の軍需物資を貯蔵する大型の倉庫や、傷ついた艦船を修理するための工廠、輸送船へ荷物の積み降ろし為のガントリークレーンが存在し、他にも様々な役割を持つ小型船がひしめき合う物である。
だがこの港にその様な物はせず、あるのは潮風であちこちさび付いた小さな倉庫と、他には堤防や係船柱ぐらい。小型船も数隻存在するが、それはどこをどう見ても民間船だったり漁船である。そして軍所属と思しき船は、たったの一隻しか存在せず、それもボロボロの小汚い船だけだ。
つまる所、ここは軍港ではなく、さびれた民間の港である。
「叢雲さん? どうしました?」
突きつけられた現実を飲み込めず、半ば放心した状態の叢雲に対し、そんな事情を露ほども知らない初霜は、叢雲が疲労で体調を崩してしまったのではないかと心配して声を掛ける。
対する叢雲は無言、無表情のまま初霜を向き合うと、そのまま数秒程の間、二人の間には実に気まずく、重い空気が流れる。
「ねぇ初霜、一つ聞いていいかしら」
「はい? 何でしょうか」
先に口を開いたのは叢雲だが、彼女の声からは感情が伺えない。そもそも消えてしまっている。その事に若干不審がるものの、初霜は何時もの如く、やわらかでやさしい笑みを浮かべる。
「私達、帰る港を間違えたとかじゃないわよね」
こんなさびれた民間港を艦隊泊地だと言われて、すぐさま信じる者はいないだろう。むしろ冗談であって欲しいとすら叢雲は考える。
疲れ果て、燃料も少ないが、他に場所があるならば文句をひとまず置いて、その場所に案内してもらおう。そんな一縷の望みをかけた叢雲の問いは。
「いいえ、ここが私達の母港です」
初霜の、とても爽やかな笑顔の前に潰えた。
「なによ……それ」
「えっ、叢雲さん?」
「ふざけるんじゃないわよっ!」
「ひゃっ」
叢雲の両手が初霜の肩を掴み、ぐわんぐわんと前後に揺らす。
初霜は何も悪くは無い。ただ問いかけに答えただけであり、誰の目にも明らかな叢雲の八つ当たりなのだが、今の叢雲にはそれを気にする様な余裕は無い。
「これが母港ですって?! こんなボロっちい港が艦隊泊地な訳ないでしょうが!!」
「む、叢雲さん、落ち着いてください!」
「司令部は! ドッグは! それがなきゃ何も出来ないでしょ!」
「い、今から説明しますから、だから落ち着いてください!」
「説明なんかいらないわよ! 早く! 今すぐ本当の泊地に案内しなさい! 早く!!」
「やめい!!」
「きゃふ!」
頭頂部に走る衝撃と痛み。初霜から手を離し、何事かと手を離し辺りを見回すと、扇子をぱちぱちと手に叩き付ける初春の姿があった。
文字通り鬼気迫る、と言った怒りの表情を浮かべる彼女が自分を叩いた張本人である事を叢雲をすぐさま理解する。
「わらわの妹に何をするか……」
怒気がありありと篭った初春の重い声。何ら落ち度の無い妹が、理不尽な言いがかりをされて、彼女はそれを面白いと思う薄情な姉ではない。
「悪かったわよ……」
「姉さん、私は大丈夫です。それに叢雲さんの気持ちは分かります。最初信じられなかったのは、私達も同じですよ」
叢雲も自分の行いが八つ当たり以外の何物でもないから、素直に謝罪を口にする。
しゅんと肩を落としてうなだれる姿は、叢雲には似つかわしくなく、それが余計に気の毒に思え、初霜はすぐさまフォローへと入る。
この間、子日も若葉も、内心おろおろとして状況を見守るだけであった。
「叢雲よ、お主にはもう一仕事と……ついでに、この泊地の秘密を教える。付いてまいれ」
「なっ、ちょっと……待ちなさいよ」
初霜達に後を頼むと付け加えると、叢雲の問いに応えず、初春はすたすたと、この港に唯一停泊する軍艦に向かって歩みを進める。
遠目にはボロボロの軍艦は、近づいて見てもやはりボロボロであった。
サイズは一万トン程と、それなりに巨大ではあるのだが、施された武装は小型の高角砲と機銃が数基と、自衛もままならないであろう事が容易に想像できる貧弱さであった。
おまけに設計自体が相当古く、戦闘はおろか下手をすると荒天にすら耐えられないのではないかと不安になってしまう。
そんなボロ船であるのだが、奇妙な事に通信マストは異様に背が高く、このサイズの船にしては過剰な数が備え付けられていて、この頼りない船に不恰好さまで与えてしまっている。
こんなポンコツ船のどこに秘密があると言うのかと叢雲が尋ねても、初春は相変わらず黙ったまま、振り返る事もしない。初春の態度に不満を感じながらも、黙って従い船内へと続く。
果たしてボロボロで不恰好なポンコツ船の中は、いささかせまっ苦しい事を除けば、外観に反して掃除や整備が十分に行き届いており、意外と清潔であった。
「この船は……この"斑鳩"は、ただのボロ船ではない。この様な何も無い港に、海軍基地機能を付与する指揮工作艦じゃ」
「指揮……何よそれ、初めて聞いたわよ」
いくつかの防水扉をくぐった所で、ようやく初春が口を開くと、今度は叢雲には聞きなれない単語が出てくる。
もっとも、これは叢雲が無知なのではなく、“指揮工作艦”と言う艦種が、つい最近制定された物である事が原因である。初春の様に直に接する事が無ければ、多くの艦娘も知らない事である。
「指揮工作艦。その名の通り艦隊を指揮するための機能と、艦娘を修復する為の入居施設の機能を有する……つまり、この様な民間の港を艦隊泊地へと変えてしてしまう船なのじゃ」
自分の前を進む初春の表情を叢雲は伺う事は出来ないが、声色から察するに、さも自分の事の様に得意気な表情をしている事が容易に想像できる。
「って、私もあんたも無傷よ。ドッグに用は無いわ」
「もう一仕事、と言ったであろう? お主には……」
叢雲はぴたりと、今までのどの防水扉よりも分厚く大きい扉の前で立ち止まる。
扉は分厚いだけではなく、初春がその横に取り付けられた機器に数字を入力し、鍵と思しき機材を使っての、煩雑な解錠操作を要するほど厳重に管理されている。
この扉の奥には、そんな手間を掛けてまで防護すべき重要な物が存在している証拠だ。
「我らが司令官への挨拶が残っておる」
やがて甲高い電子音が短く響くと、駆逐艦の主砲程度では撃ちぬけない程の分厚い扉がゆっくりと開くと、叢雲は恐る恐ると足を踏み入れる。
部屋の中には大小様々な電子機械が置かれていて、それが何に使われるのかは知らないが、どれもこれも叢雲には扱えず、操作するには特殊な訓練を必要とする類の物だ言う事だけは理解出来た。
そんな機械を操作しているのは人間ではなく、“妖精”と呼ばれる可愛らしいが優秀な存在である。
妖精達の仕事は、艦娘の擬装を操作するに留まらず、人手不足が著しい部署に人間の代わりに配属される事もある、人手不足の著しい海軍には欠かせない存在となっていて、場合によっては人間より妖精が多い船や基地も少なくない。
この斑鳩もその例に入るようで、大勢の妖精達に対し、人間は部屋の最奥に置かれた大きな硝子盤の前に立ち、何やら彼女達へ指示を出している男が一人だけである。
叢雲達に背を向けている男の顔は見えないが、軍服を身にまとい、妖精達の中にいて指示を出している事から、男が初春の言う"司令官”である事はすぐに合点が付いた。
電子音が聞こえたからか、周りの妖精が知らせたからか、叢雲達に気づいた男は、忙しなく行き来する小さな妖精達を踏み付けぬ様、慎重な足取りでこちらへと近づいてくる。
「任務ご苦労だったな、初春」
「うむ。二〇一駆逐隊は、今日もつつがなしじゃ」
「分かってるよ、さすがだな」
敬礼と共に自慢げに報告する初春と、幼い見た目の彼女よりも幾分背の高い黒髪の男の組み合わせは、はたから見れば少し歳の離れた兄弟の談笑に見えるかもしれない。
実際、軍服を身に纏っていなければ、海の男である海軍軍人とは思えないほど、男は華奢だった。
だがその会話の内容は、まったく平和とはかけ離れた物であり、男が初春の上司であり、軍人である事の何よりの証拠である。
「時に司令官よ」
「あぁ……叢雲だな、俺がこの"紅玉隊”の司令官の」
叢雲の予想通り、この男は叢雲達の上官に当たる人物、司令官である。男の双眸は紅玉(ルビー)の様に真っ赤であるから、“紅玉”とは言いえて妙である。
「シン……飛鳥シン少佐だ」
叢雲の口の端が、彼女の知らぬ内にピクピクと引きつり上がる。左遷先の上官は、自分が想像する以上に年若く、言い換えれば青二才で優秀には見えない。
彼女の利き手は、握手のために差し出されたシンの手では無く、立て続く落胆で、いよいよめまいがしてきた目元へと向かった。
この出会いこそ、これから始まる、叢雲とシン達の長い戦いの幕開けとなるのであった。
最終更新:2017年02月11日 22:26