季節は夏の入り始め

季節は夏の入り始め

「♪~」

765プロのアイドル、天海春香は鼻歌交じりで事務所の近くの路地裏を歩いていた。

目的地は前に何となく裏道を歩いていた時に見つけた一軒の喫茶店。

最初はこんな所に喫茶店を構えて商売が出来るのだろうか思っていた。

しかし入ってみれば中々の雰囲気だし、コーヒーやクッキーが普通の喫茶店よりも美味しかった。

春香はむしろ何故客が来ないのかと不思議に思ったほどだ。

もっとも、だからこそ安心して春香はその喫茶店に足を運べるのだが。

彼女はアイドルだ。

それもSランクと言うトップアイドル。

そんな彼女はいまや普通に街中で歩いているだけでちょっとだけ騒ぎになる。

最初の内は、「ああ、自分はアイドルなんだな」と誇らしくもあったが
何度も続けば流石に疲れてくる。

帽子等でそれなりの変装はしているが、それでも気付かれる時は気付かれる。

お陰で人が多い喫茶店などに気楽に入れないなんて事も度々あった。

そんな現状に立たされていた春香にとって、その喫茶店は有難い存在だった。

何せ自分以外の客を見た事が無いのだ。

繁盛しているのではなく、閑古鳥が鳴いているのが普通。

(だからこそ、気楽に入れるんだけどね)

本人に言ったら怒られるな、と春香は心の中で舌を出して歩き続ける。

数分後、それなりに大きな建物が見えてきた。

あまりおおっぴらに宣伝をしようとしていないのか、昼間だと言うのにどこかひっそりとした雰囲気だった。

看板も小さくドアの横にポツンと立っているだけだ。

普通の人間ならば店だと言われても、どこか怪しげな雰囲気の建物の中に入ろうとすら考えないだろう。

むしろこの近辺には近づかないようにするかもしれない。

しかし、春香は別段気にした様子も無く慣れた様子でドアに手を掛ける。


カランコロン


備え付けられたカウベルの音を聞きながら、春香は中に入る

中は木造板張り、と言うのだろうか。

建築関係に詳しくない春香であったが、このどこか心が落ち着くような空間がとても好きだった。


「いらっしゃい」


春香が入って来た事に気がついたマスターは呼んでいた新聞をカウンターの脇に置いて椅子から立ち上がる。


「こんにちはー」


もう2ヶ月近くも通っているから挨拶も慣れたものだ。

黒い髪に綺麗な赤い瞳の自分と一つ二つしか年齢が変わらない一人の男。

その人がこの喫茶店のマスターだった。

「何時もの?」

「何時もので」

「了解」

端的な会話をした後、喫茶店のマスター――シン・アスカは奥の部屋へと引っ込んだ。

春香はカウンター席に座り、店内に流れる音楽に耳を傾ける。

スピーカーから流れる音楽は春香が聞いた事のない物だったが、何となくずっと聞いていられるようなピアノの音だった。

数分程その音楽を楽しんでいると、シンは戻ってきた。

その手にはコーヒーカップと小さな皿を持っていた。

「お待たせ」

そう言って、コーヒーとクッキーを春香に差し出した。

「いただきまーす」

コーヒーとクッキーは毎回春香が注文する御決まりのメニューだった

お菓子作りが趣味ではあるが、コーヒーに合う程よい甘さのクッキーはこの店に来ないと食べられない。

値段もそれで利益が得られるのかと思うほどの格安で、トップアイドルではあるが金銭感覚は高校生である春香にとってはありがたい事だった。

「んー、いつも思いますがアスカさんのクッキーは美味しいですね」

「はは、まあ、かなり厳しい人から修行を受けたからな」

ポリポリとクッキーを食べる春香の言葉を受けて、シンは嬉しそうに笑う。

そして、その後一瞬遠い目をしたシンを見て春香は噴出しそうになった。

きっとその修行の合間に何かあったのだろう。

「にしても、俺の作ったクッキーってそこまで美味いのか?」

「それは喫茶店のマスターが言って良い言葉なんですか……」

「いや、俺より美味い菓子作れる人がいるからさ。その人に教えてもらったんだけど、とても敵う気がしなくてさ」

「基準が気付かないうちに高くなってたんじゃないですか?」

「んー、そんなもんかねー」

「きっとそうですよ」


他愛ない話をして春香は微笑を浮かべる。

最初は不思議に思っていた

自慢ではないが、自分は毎日のようにテレビに出ている。

最近はテレビに出なかった日のほうが少ない位だ。

そんな自分が来た事に、客としてしか興味を示さなかったシンに春香は少なからず不満を覚えた。

ある日、かなり遠まわしだが、自分はアイドルですが興味は無いのですか、と言う質問をしてみた事がある。

それに対するシンの返答はかなりシンプルだった。


「気を悪くしたらごめん、俺ってあんまりアイドルとか分からなくてさ」


複雑な気持ちではあったが、アイドルに興味の無い人種が居るなんて当たり前のことだと春香は若干不満ながらもその答えを受け入れた。

しかし、そんな人間が時にはありがたく感じる時もある。

なりたくてなったアイドルだが、それでも疲れる時はある。

だが、ここに通うと不思議とその疲れは抜けていった。

きっとこれは恋ではないと春香は思う。

春香と同じ位の年頃の男女が仲良さそうに話していれば、そう言う関係なのかと思われるかもしれない。

しかし自分にそんな気は無かったし、そんな話をするつもりも無かった。

自分はアイドルだと言う自覚もあるし、恋愛がどれ程マズイのかも理解している


「そういや、今度新作を考えてるんだけどさ」

「へぇ、どんなのですか?」

「ケーキを作ってみようかと思ってさ。天海さんはケーキは?」

「ケーキは大好物です。最近食べてないから今から楽しみです」


―――これは恋ではない。

目の前の男性と話していると日常を一旦忘れて、リラックスできるだけだ。

「アイドルって学校の勉強と両立させるのって大変じゃないか?」

「うっ、嫌な事を思い出させないでくださいよー……」

「やっぱり成績が下がるとアイドルも活動停止とかってあるの?」

「んー、学校の部活と違ってそれでお金を貰っているので、そもそも下がっちゃ駄目なんですよ」

「へぇ、じゃあテストとか凄いプレッシャーじゃないか?」

「正直、ライブよりも緊張します。」

「そっちのほうが緊張しそうだけどなぁ」

「そりゃ緊張はしますけど、楽しいですから」


―――これは恋ではない。

ここに来ると自分が普通の女の子に戻れる気がするだけだ。

「アスカさん、勉強教えてくださいよー」

「俺は無理、中学中退だし」

「失礼ですけど、よく喫茶店を経営できてますよね……」

「まあ、そこらへんは知り合いのツテだな」


―――これは恋ではない

普段は表に出さない自分の素が出せるからここに来ているだけだ。


「さて、と、それじゃそろそろ戻りますね」

「あいよ。
 500円な」

「相変わらず安いですよね……」

「じゃあ5000円にするか。5000円払え」

「それはボッタクリですよ!」

「冗談だよ」


―――これは恋ではない

打てば響くような会話が気持ちいいだけだ

「それじゃ、ご馳走様でしたー」

「ああ、またなー」


それでも、店を出るときに少しだけ寂しくなるのは何故だろうか。

自分と殆ど年齢の変わらないマスターの笑顔を見ているだけで、何かが満たされていく気がするのは何故だろうか。

その何かを春香は知ろうとは思わない。

それを知ったらこの些細な時間が終わってしまう気がしたから。

店を出て、春香は一度振り返った。

窓越しに鼻歌交じりにコーヒーカップを片付けているシンが目に映った。


「っ……」


一瞬だけ胸がチクリと痛み出した気がしたが、すぐに振り向いて軽く首を振った。


「―――恋なんかじゃないんだ」


そうポツリと小さな声で呟いて春香は歩き出した。

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最終更新:2017年02月11日 23:24
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