天海春香は今日も今日とて路地裏を歩く。
ウォークマンからは少し派手なパンクの洋楽が流れていた。
元々彼女はあまりそう言ったジャンルの曲を聞かない。
彼女がよく聞くのは年相応な日本の音楽であるし、アイドルとして音楽に関わる時も明るい曲の傾向が多い。
そんな彼女が洋楽に手を出したのにはとあるきっかけがあった。
これから彼女が向かう喫茶店のマスターは、たまに自分が好きな音楽を店内に流す時があるのだ。
その時に流れた音楽を聴いて興味が沸き、マスターからCDを借りてみたのだ。
学校の英語は平均的な春香には少々ハードルが高かったが、音楽が格好良く感じ、気がつけばちょっとしたファンになっていた。
(ちょっと悲しい曲だけどね……)
聞いていた中で印象に残った曲が終わる頃には喫茶店が目に入った。
停止ボタンを押してイヤホンを外し、ドアに手を掛ける。
何時ものようにこんにちはー、と言おうとした瞬間。
「あれ?」
ふわり、と優しい匂いを感じた。
おや、と春香は首をかしげた。
この店はコーヒーを豆から挽いているため匂いが少しだけ店内に残るのだ。
そんな匂いが今日は殆どしなかった。
とにかく何時までも中に入らないわけには行かない。
春香が中に入ると、そこには何時ものようにこの喫茶店のマスター、シン・アスカがいた。
しかし、今日は様子がおかしい。
「うーん……」
カウンターに背を向けて、なにやらうなり声を上げていたからだ。
何か困った事態でも起きたのだろうか。
(声、掛けて良いのかな?)
何時もとは違う雰囲気のシンに声を掛けて良いかどうか少しだけ迷う。
とりあえず、邪魔になってはいけないと思って、カウンターの席に座り様子を眺めてみる。
相変わらず、シンは背を向けてブツブツと呟いている。
耳を傾けていると、「何かが違う」「こうじゃないのか?」と聞えてきた。
背中越しで何をしているのか見えないが、何か作業をしているようだった。
悪戯心にそのまま聞き続けるのも良いかなーと思い始めた頃、シンがこちらをふりかえった。
「っ!」
不意打ち気味に目があってしまい、何となく気恥ずかしいと感じた春香だったが、対するシンは少し驚いた表情で口を開いた。
「なんだ、来てたのか」
「え、ええ。ちょうど今来たばかりです。」
そんな春香の言葉を聞いたシンはちょっとだけばつが悪そうに口を開く。
「ごめんごめん、ちょっと集中しすぎてた」
「いえいえ、今来たばかりですから。あの、何やってたんですか?」
その言葉にシンは再び後ろを振り向いてカチャカチャと食器音を立てる。
そして、再び春香の方を向いて、コトリとカウンターに食器を置いた。
「これだよ」
それは白い陶器のカップだった。
中の液体は琥珀色で、それから入り口で感じた匂いがしていた。
「紅茶、ですか?」
「ああ、茶葉が届いたから練習してたんだけど」
中々上手くいかなくてな、とシンは難しい顔をする。
そう言えばメニュー表には紅茶って無かったなー等とカウンターに乗っている紅茶を眺めながらそんな事を考えた。
シンが淹れたと言う紅茶を見て、春香は興味津々と言った感じで口を開いた。
「ちょっと飲ませてくださいよ」
「良いけど、まだ修行中の奴だぜ?」
「良いですよ」
そっか、とシンは新しいカップを出してティーポットで紅茶を淹れた。
ふわり、と紅茶の匂いが鼻孔をくすぐった。
茶葉が届いた、そうシンは言っていた。
きっとこれは本格的に作った紅茶なのだろう。
春香は一口、紅茶を飲んだ。
「どう?」
「美味しいです!」
あまり紅茶の違いが分からない春香ではあるが、これは十分美味しいと思えるものだった。
少しだけホッとした表情でシンは口に開いた。
「そっか、ありがとう」
「このままメニューにしても良いと思いますよ」
「うーん、これをそのままメニューにしたら多分あの人に怒られるかな」
「そうなんですか?」
「うん、まだまだあの人には遠く及ばないよ」
あの人、とはシンがこの喫茶店で働く前にお世話になった師匠だろう。
一体どれほどの技量を持った人なのだろうか。
春香はシンの師匠なる人物に少しだけ興味が沸いた。
「そのお師匠さんってなんでも出来るんですか?」
その言葉にシンは顎に手を当ててううんと唸って、口を開いた。
「一言で言ったら完璧って感じだな」
その言葉に春香は、へぇ、と春香は息を漏らした。
「そんな人もいるんですねぇ……」
完璧と聞いて、一番最初に思いつくのは同じ事務所の仲間である我那覇響である。
彼女は事あるごとに「自分は完璧だから」と言うが、それはきっと自分を奮い立たせる為に使っているのだろうな、と春香は思っている。
そんな自信満々の姿勢が羨ましいと思った事もあるが。
しかし、シンの言う完璧な師匠と言うのはそのまま言葉通りの意味なのだろう。
世の中には色々な人が居るものだ、と春香は紅茶を飲んだ。
空になったカップが置かれたのを見て、シンは口を開く。
「っと、次はコーヒーで?」
「あ、はい。後クッキーも」
了解ー、とシンは厨房に入っていった。
一人になった春香は先ほどの会話を思い返す。
「完璧、か……」
(そんな師匠さんの所で修行してたのに、何であんまり有名じゃないんだろ)
それは以前から考えていた事だった。
(いやいや、ひょっとしたら失礼かもしれないし……)
「お待たせ」
そう言ってカウンターには何時ものコーヒーとクッキーが置かれた。
意を決して春香は聞いてみた。
「あの、アスカさん」
「ん?」
ひょっとしたら気を悪くするかもしれない
恐る恐る春香は口を開いた。
「この店、宣伝とかしないんですか?」
「宣伝?」
「その、もっとお客さんを増やしたりとか……」
内心、かなりドキドキしている春香に対して、シンは何でも無い事かのように口を開いた。
「面倒だし、別にやってないよ」
その言葉に春香はガクリと項垂れた。
「面倒って……」
それこそ、その師匠とやらに怒られるのではないだろうか
「ほら、俺はのんびりとやりたいしさ」
その言葉に春香はすっかり脱力してしまった。
「のんびりって……お爺ちゃんじゃないんですから……」
勿体無いなぁ、と春香はそう思う。
雰囲気も良く、味も申し分ないコーヒーやクッキーを格安で出す喫茶店。
そして何よりこの喫茶店のマスターが美形だと言う事。
綺麗な黒髪に、見る者を引き込むような赤い瞳
どこか幼い面影があり、それでも青年のような整った顔立ち。
そんな彼を見て、視線を追わない女性はあまり居ないだろう。
もしも彼が芸能界で活動すればかなり人気になるんじゃないかとさえも思える程だ。
そんな春香の思いも露知らず、シンは口を開く。
「良いの、俺にはこれが性にあってるんだよ」
それに、とシンは続けて言った。
「ここが繁盛したら、天海さんも困るんじゃないか?」
あ、と春香は口を開けた。
失礼だと思っているが、ここに通い続けている理由の一つはこの店は常に閑古鳥が鳴いているからだ。
「で、でも良いんですか?」
シンにとって春香は客の一人に過ぎない為、春香の事情なんて無視しても良いはずだ。
「良いんだよ」
「そう、ですか……」
何となくそれ以上深く聞く気にならず、春香は誤魔化すようにコーヒーを一口飲んだ。
「まあ真面目な話、紅茶もお菓子作りも上達しなけりゃまだまだ宣伝は出来ないだろ」
(十分美味しいけどなー。やっぱり違いがあるのかな?)
春香は違いが分からないが、きっとその道のプロにしか分からない事もあるのだろう。
「まずは紅茶だな。あの人から及第点位は取らないと」
「それが出来たらメニューが増えるんですね」
何時になるかなー、等と困ったように笑うシンに春香は釣られて笑う。
やはりこれ位の距離感がちょうどいいと春香は思う。
気楽に話せて、リラックスができる。
それがたまたま、シン・アスカと言う人間だっただけ――――
「そうだ、マスターしたら一番最初に天海さんに飲んでもらおうかな」
トクン、と春香の鼓動が鳴った。
「あ、はは……。それ、は、嬉しい、です……。」
恥ずかしさが顔に出ないように、必死に平静を保とうとする。
そしてコーヒーが無くなった事に気がついて、これ幸いと春香は口を開いた。
「あっ、と……コーヒーとクッキー……お代わり、お願いします……」
「あいよー」
春香の言葉に軽く返して、シンは再び奥へと引っ込んだ。
奥のほうから小さく食器の鳴る音が聞こえてくる。
シンと出会って数ヶ月の間に分かった事がある。
それは、女の子にとって結構重大な事を何でもないかのようにサラリと言ってしまう事。
彼自身は世間話の一つぐらいにしか捕らえていないのだろう。
そんな事を言われたら、女の子はどういう風に考えるか。
きっと、シンは理解していないだろう。
「まったく、ずるい人、ですよね……」
春香は頬に手を当てると、じわりと暖かい熱を感じた。
(顔、あつい……)
首を振って、小さくため息を吐く。
シンの言葉で少しだけ嬉しさが湧き上がると同時に―――
「ばか、みたい……」
―――そんな些細な事で喜んでしまう自分が、少しだけ嫌になった。
最終更新:2017年02月11日 23:29