分厚い雲に、月と星の光が遮られた真っ暗闇の夜の日の海は、そこには人々が頭の中で思い描く青色は存在せず、その代わりに両目を覆われてしまったかの様な黒色だけが広がっている。
まるで底なしの穴の様な海の水面は、そこが数センチの浅瀬であると分かっていても、一歩でも足を踏み入れてしまえば、どこからともなく腕が現れ、海底まで引きずり込まれてしまうのではないかと錯覚し、背筋の震える、ありえるはずの無い恐怖を見る者に与える程、真っ暗であった。
それは海と言う存在が、本来は底知れぬ晦冥の世界であると言う事の証明である。
そんな底無しの世界と陸との境である、小さな入り江の海岸の周囲に住む者はおらず、また人工の灯りも無いこの場所を、真夜中の遅い時間に訪れる者は皆無である。
どこか近くにいる虫の声と、ゆっくりと寄せては、ゆっくりと離れてを繰り返す波の音が響くだけで、まるで世界から取り残されたかの様に静かな場所だからか、ざぶざぶと言う、何かが水を切る様な音が、大げさなくらい響き渡る。
だが暗闇に視界を遮られる夜の世界にあっては、その音を生み出す正体は一切分からない。分かる事は、水音はゆっくりとだが、確実に確実に暗い海から陸地へと近づいてくる事だけ。
仮にこの音を聞いた者がいて、少しばかり聡明ならば、海から何かが陸へと近づくと言う状況から、その正体に付いて、一つの見当を付けるだろう。
海から現れ陸を目指す。人類に取って、悪魔とも言うべき存在の事を。
そしてその想像に対する答え合わせをするかの様に、分厚い雲の切れ間から顔を覗かせた月の明かりが海と地を照らし、まとわり付く暗闇が溶かされ世界があらわとなる。
ゆっくりとした足取りで、今まさに上陸を果たそうとするのは、一つの人影だった。豊かな曲線を描く、実に女性的な体付きをした女は、こんな真夜中に海水浴に来た酔狂ではない。それ以前に、人にしては“異形”な部位が多い。
その証拠に、彼女の額からは人間には存在しない、架空の生物である一角獣の様な鋭い角が生えていて、その両手も常人より何倍も大きく、そして地上のどんな生き物にも存在せず、また持ち得ないほど鋭利で凶暴な形をしている。
何より月明かりに照らされているとは言え、彼女の肌は、その長い髪は、色そのものがどこかへ失われてしまったかの様に白い。全ての血が、命が失われた、まるで死人の様な彼女は、事実人間ではない。
“深海棲艦”
いつ、どこで、何のために生まれたのか分からない、ある日突然現れた彼女達に関して唯一分かっている事は、強大な力を有し、その矛先を人類を向けて攻撃してくると言う事実だけ。理由も分からず、言葉も通じない人類の、地上に生きる者全ての敵。
それが人類の聖域である陸地へと、大胆にもたった一人で侵入しようとしている。実に由々しき事態であるが、彼女を迎え撃つ者はおろか、この事態に気づく者すらいないのは、人類が油断しているわけでも慢心しているわけでもない。
彼女は人類の警戒網に存在する、本来ならばあってはならない――彼女と、とある一人の人間しか知らない隙間を潜り抜けたのだ。
水を切る音が途切れたのは、それは彼女が陸地に上がった事の証明だ。
陸地に上がった彼女は、だが攻撃をするそぶりや仲間を呼ぶ気配も無く、突如として月の光に姿を照らし出されてしまった事に対し狼狽し、不安な表情を浮かべて周囲をきょろきょろと見渡すばかり。
月夜の晩であるとは言え、視界の悪い夜である事に変わりなく、人間が肉眼で彼女を視認するのはきわめて難しい。対してその名の通り、光届かぬ深海に生きる彼女達に取って今の明るさは、暮れなずむ時と変わらない視界を確保できる。
上手く隠れる事も、逃げおおせる事も余裕であり、必要ならば、その凶悪な力で排除する事も出来る。
だが、人類の深海棲艦に対抗する切り札たる“艦娘”が相手ではそうもいかない。艦娘達の勢力圏である陸地に近ければ、すぐさま援軍を呼ばれて形成は不利となるだろう。
それは彼女が――港湾棲姫が、特に強力な個体であっても変わらない。もしも見つかってしまったならば、即座に撤退しなければならない。単騎であり、何より今の彼女は一切の儀装を持たない、丸腰の状態であるのだからなおさらだ。
視界を右に左に何度も動かして、海岸が無人である事。つまり危険は無い事を確認すると、彼女の不安をよく表している眉間のしわが、わずかに緩む。さらに天佑とばかりに、月は再び雲に遮られ、辺りからは再び光が失われる。
浅瀬から、ついに上陸を果たした港湾棲姫は、闇を味方に付け、迷いの無い足取りで入り江をさらに奥へと進むであった。
入り江から続く道を進むと、背にした波の音は段々と小さく、深海棲艦の優れた聴覚には、代わりここよりも遠くの人の世界の音さえ届きはじめる。
いつしか人の世界の音に波の音がかき消される様に聞こえなくなる位置まで進むと、港湾棲姫の足取りは突然わきの方向へ、人の世界とは別方向へと逸れる。
そこは舗装などはされてない、ただの地面であり、人間でさえ歩きづらいと感じる場所は、当然ながら港湾棲姫に取っても難所である。
だが彼女はそれを苦痛とは感じておらず、むしろ表情にははやる気持ちと、わずかに喜色を浮かべているのは、それは苦痛を上書きする程の、わざわざ危険を冒してまで求めるものが存在するからだ。
一歩、また一歩と進み続ける港湾棲姫の歩みがついに止まる。
立ち止まった彼女の前には、自然界には存在しない直線的なシルエットが、まるで待ち構える様に立ちふさがっていた。そこに丁度、かかっていた雲の切れ間から、月が再びその顔を覗かせると、その正体が鮮明となる。
本来はねずみ色のペンキで塗装された壁は、手入れをされていない壁はあちこちが痛んだ変色し、備え付けられた窓ガラスに形を留めた無事な物は存在しない。ただでさえ惨状である上に、草木に至る所を侵略された、誰の目にも廃墟である事が明らかであった。
今よりもずっと昔に打ち捨てられ、今では浮浪者も寄り付かない、中にいるのはせいぜい野生動物か虫ぐらいであろうこの廃墟は、人の背丈のよりもだいぶ大きい、ボロボロにさび付いた鉄の扉は、かつてここが倉庫として使われていた過去を偲ばせる。
見るからに重厚な金属の扉は施錠されていないが、錆やへこみによって変形してしまい、大人が数人がかりで挑まなければびくともしない程、堅く閉ざされている。だが港湾棲姫の力の前にあっては、きしみこそ上がるが、まるで溝に蝋を塗られた障子戸の様に抵抗なく開かれる。
どこか慣れた手つきで扉を開け、一歩、無人の建物の中に足を踏み入れると、硬いコンクリートの床は港湾棲姫を迎えるかの様に、その足音を大きく響かせ、その上に積もった埃が宙に舞う。がらんどうの様に何も無い空間の中を、ゆっくりゆっくりと港湾棲姫は進み、やがてある一つの扉の前で足を止める。
上半分は傷ついた半透明のガラスで、もう半分は金属で出来た、どこにでもあるようなドアは施錠されいて、仮に鍵が無くとも人間以外の使用を想定していないドアノブを握るには、港湾棲姫の異形の手はあまりにも大きすぎる。
強引に扉を破壊して侵入する事は容易だが港湾棲姫は、上陸した時の様に眉間にしわを少し寄せた不安顔で、ゆっくりと、壊れぬ様に加減してドアを二度叩く。
無人の廃墟の中では、控えめなノックもよく響くが、それに返事をする者は存在しない。
本当に無人であるならばだ。
港湾棲姫のノックに対し、ドアの内側、部屋の中から同じ様にノックする音が、こちらは三回響く。
返事があった事で港湾棲姫の表情から不安は消え、安堵の表情を浮かべると、自分の真っ白な頬が熱を持つのを港湾棲姫は、はっきりと感じる。
「ワタシ……キタヨ……アイニ……キタヨ」
一部の深海棲艦、『姫』や『鬼』と呼称される個体は高等な知性を有し、人語を解する事が出来る。だが人語を解すると言っても、それが対話やコミュニケーションに用いられる事は無い。
だが港湾棲姫の無機質な声は、明らかに何者かに語りかけている。そしてその声色には、高揚している表情と同様の喜色が、ありありと混ざっている。
港湾棲姫の言葉は、まるで合言葉の様に鍵はカチャリと言う音を立てて外れ、ドアがゆっくりと、少しばかりきしみを上げながら開き、そして港湾棲姫を出迎える様に一人の男が姿を表す。
女性としては長身の港湾棲姫よりもわずかに背の高い、夜の海の様に黒色の髪で痩身の男は、港湾棲姫や、他の深海棲艦と同様の、まるで血の気が失せたかの様な白い肌をしている。
今だ確認されていない、男性型の深海棲艦と言われれば、信じる者が現れても不思議ではない姿だが、男はれっきとした人類である。加えて、彼は深海棲艦と戦いに身を投じる軍人。しかも、この周辺海域の安全を司り、警戒網にわずかな隙間を作る事が出来る程度に高位の立場にある男だ。
敵である存在を確認した港湾棲姫は、まるで思春期の少女の様に頬を真っ赤に染め上げ、そして幼い子供の様な笑みを浮かべると、男を両腕いっぱいで抱きしめると、はたから見れば、まるで襲われている様な光景だ。
港湾棲姫もだいぶ加減してはいるのだが、女性とは言え力の強い深海棲艦に飛びつかれれば少し後ろによろけながらも、何とか倒れぬ様に踏ん張り、彼女を力強く抱きしめ返す。
「アイタ……カッタ……シン……アイタカッタ……」
「うん、俺も……会いたかった」
目元に涙を浮かべた港湾棲姫に名を呼ばれた男。シンもまた、自分の腕の中の、まるで死体の様に体温の低い港湾棲姫を、かげりのある表情を浮かべながら強く抱きしめ返す。
今は敵同士である事を、自分達の行為が、それぞれの世界への背信以外の何ものでもない事を忘れる様に、恐れ震える互いの心を慰めあうかの様に、割れた窓から差し込む月光が、三度消えてしまうまでのその時までの間中、二人はずっと影を重ね続けた。
最終更新:2017年02月17日 22:51