<やすらぎの旋律>
「千早、水汲んできたぞ」
「ありがとう。そこに置いておいて」
そっと、水と柄杓の入った手桶を地面に下ろす。ゆらゆらと揺れる水面にどことなくぎこちなさを感じる
私服を着た自分の姿が映っていた。
……都内某所、とある墓地。
社長の計らいで盆休みを貰ったのだが、休みの予定を立てておらず、結局いつも通り事務所で過ごし
ていた。そんな時、なぜか自分と同じく休みのはずの千早が事務所に現れたのだ。
「……もし時間があるなら、少しだけ付き合ってもらえる?」
唐突な質問に驚きながらも、その真剣な眼差しにシンは迷わず首を縦に振った。
諸々の準備も終え、道中花屋で菊の花束を買いながら三時間、そこでようやく千早の目的が分かった。
「前に話してくれた、千早の弟の?」
「ええ。デビュー前に来てそれっきりだったけど、いろいろ報告しなきゃいけないことも増えたから」
それから水を汲んでくる間も、千早はずっと墓の前に佇んでいた。
手を合わせるでもなく、憂いと愛しさを湛えた瞳でどこかを見つめて。
「……綺麗にしないとな」
「そうね、手伝ってくれる?」
「あぁ」
千早とともにそっと水をかけていく。風雨に晒され汚れていた徐々に墓石が清められていった。
「何から話せばいいか、迷うわね」
「それは、もちろん千早の活躍っぷりだろ? 千早の歌が好きだったんなら、きっと喜ぶさ」
花を活けていた千早の手が止まる。振り返り見えたはにかんだ笑みに、幾ばくかの寂しさが垣間見えていた。
「……ねぇ、歌はむこうの世界にも届くと思う?」
「届くさ。思いを込めればきっと」
ロマンチストというわけではないが、そう信じていた。
そう信じさせてくれる歌を目の前の少女は歌っていたからだった。
「そういえば、シンは家族に会いに行かないの?」
一瞬、言葉に詰まる。
両親とマユの墓はない。それはこの世界にというだけではなく、元いた世界にすら存在しないからだ。
戦後すぐにプラントに移り、ずっとそれっきりだったのだからそれも当然……
――あぁ、そうか。
今さら気付かされた。
自分はただ、逃げていたのだ。
家族の死から、無力な自分から、今もなお鈍痛のように残る悲しみから。
「……そうだな、俺も行かなきゃな」
「そのときは、私が一緒しても?」
「いや……さすがにそれはその、恥ずかしいだろ」
恥ずかしい? と聞き返した千早の顔がワンテンポ遅れて真っ赤に染まった。
「そ、そういう意味じゃなくて! 今日のお礼も兼ねてっていう意味で……」
「あぁ、わかってる。でもすぐには行けないんだ。ちょっと……遠くてさ」
「そんなに遠い場所なの?」
「あぁ。それに、ちょっとやらなきゃいけないこともある」
元の世界に戻る方法もそうだが、何より自分がこの世界に来た理由が知りたかった。
おぼろげながらそれも見えてきた気もするが、まだ答えには至っていなかった。
「とにかく、今は千早の弟に報告だな。あ、この前の新曲のこととかどうだ?」
「あの曲? あれは……正直あまり話したくは」
「いいじゃないか。メイド服にネコミミとかネコグローブとかネコブーツとか恥ずかしがってたけど進んで
PV撮影したなんて以前じゃ考えられ……」
「そういうことを思い出したくないから話したくないって言っているの!……くっ」
……そうして長い間、二人で墓地で過ごしていた。
ときおり少しだけ怒り、恥ずかしがり、微笑みをかわしながら。
そして空が朱に染まり始めた頃、最後に千早は静かに歌を歌った。
涼しい風に身を任せながら、自分もその音色に耳を傾ける。
――ありったけの思いが込められた、やすらぎの旋律。
永遠でなくてもいい、ただ時間が許す限りはその歌を聴いていたいと思った。
いつまでも、いつまでも。
最終更新:2008年10月25日 00:06