一服

一服


「あ~疲れた……」
 亜美と真美を家まで無事に送り届け、報告も済ませてあくびを噛み殺しながら事務所へと戻ってきた。早朝の
打ち合わせから始まり、双子の暴走を適度に抑えつつ仕事を進めて帰ってきたのは陽が無数の影絵の向こうに
消えかけた頃だった。季節の変わり目のせいか肌寒くなってきているのもあって体調が優れないのもある。
 はっきり言ってあの二人の場合はどんな仕事だろうと心底疲れさせられる。ただでさえ双子であること利用して
折を見て入れ替わってることを気付かれないようにしなければならないというのに、あの二人はそんなの関係ねー
と言わんばかりに騒ぎ立てるのだから面倒を見てる側としては非常に扱いに困るのである。

 ――なんかこう、パーッと気分を変えたいな。
 とはいえ明日も仕事があるので夜遊びなんてもってのほか、遅くまで事務所にいる小鳥さんは時間ギリギリまで
仕事をするタイプなので雑談程度ならできるだろうがそれではいつもと変わらない。
「どうすっかなぁ」
 陰鬱な気を追い出すように重苦しい息を吐き、ドアを開ける。
 ……文字通り目と鼻の先に、雪歩の顔があった。
 気配に気付かずに一歩踏み出してしまったせいで数センチ手前まで接近している。
「あ、れ?」
「…………」
 突然のことで反応が追いつかないのか、目の前で雪歩はキョトンとした顔のまま固まっていた。おそるおそる距
離を取り、できるだけ穏やかな声音で話しかける。
「雪歩? 大丈夫、か?」
 わずかに雪歩の視線が動く。どこか彷徨うように揺れ、やがてこちらと目が合った。

「あ……え? シンさん!?」
 ようやく自分の存在に気付いたのか――というか今まで気付いてなかったのか――、雪歩は目を白黒させなが
らあたふたと喋り始めた。
「えっと、あの、ほ、本日はお日柄もよく……」
「なんでそんな堅苦しい挨拶?」
 あう、と呻いて言葉が詰まった。突っ込みを入れるべきではなかったかと考えたがすでに反射的に口から出て
しまった上に非常に今さらな問題だと悟って気にせずいつも通りに接することにした。
「おつかれ。今日はCM撮影だっけ?」
「は、はい。缶のお茶のCMでした」
 それからは普通に会話が続いた。缶のお茶は飲み慣れていなくて新鮮だったこと、試供品を飲んでみたところ
予想していたよりもおいしくて驚いたこと、その率直な感想から『とんでもないお茶』というキャッチフレーズがつい
たこと……

 いくつか突っ込みたかった部分もあったが、撮影は概ね良好だったということを聞いて安心したので心の底に
しまっておくことにした。
「それにしても、雪歩の方からこんなに話を聞くのは珍しいよな」
 初対面のときは怯えられてまともに話すことも難しかったし、と口には出さず補足しながら軽い調子で言った
のだが、そこで雪歩は俯いて口をつぐんでしまった。
「雪歩?」
 また何かマズイことを言ってしまっただろうか? と焦りを感じ始めたところで雪歩がポツリと呟いた。
「……それは多分、みんなのおかげです」
 顔が上がり、いつもの雪歩からは想像できないほどにまっすぐな視線がぶつかった。
「私、ずっと臆病で……男の人の前だと喋れなくなって、犬も怖くて、ちんちくりんで……」
 ――言いながらどんどん頭が下がっていっているけど、大丈夫なのか?


「でも、みんなと会っていろんなことを教えてもらいました!」
 その言葉で気を取り直したのか、再び顔が上がった。
「真ちゃんや春香ちゃん……みんなが頑張ってるのを見て、私も頑張らなくちゃって思って」
 今までの自分を変えたい、胸を張って仲間たちと共に進んでいきたい。
 そうして雪歩は努力を重ねてきた。765プロのアイドルとして。
「プロデューサーにもいっぱい支えてもらって、シンさんには命まで助けられて」
 ――あのときのことか。
 オーディションで酷評された雪歩が失踪した夜。真と街中を駆けずり回ったあの夜。
 少しでも遅れていたら、と考えるとゾッとする。文字通りの意味よりもアイドルとしての命は危険だったのは確かだ。
「だから、もっと頑張ります。少しずつでも変わっていきます!」
 ぐっと小さくガッツポーズを取る彼女の姿を見て、ふと自分が小さく笑っていることに気付いた。

 ――なるほど、最後まで見守るのが俺たちの仕事か。
 かつて教えられたことの意味を今になって理解する。それはつまり、
 ――信じろ、ってことだよな。
 だからこそ支えることに自分たちの価値があるのだろう。歩き出すのは彼女たちの意思でしか踏み出せないこ
となのだから。
「わ、笑わないでください~!」
 こちらの表情に気付いた雪歩が軽く顔を朱に染めながら怒っていた。
「悪い悪い、でも雪歩はもう変わってきてると思うぞ」

 え? と聞き返してきた雪歩に当然のことのように告げる。
「だって、今普通に俺と話してるだろ?」
「あ……」
 そこで何故かさらに雪歩の顔が赤くなった。
「え? ひょっとして無理してたか?」
「い、いえ! そうじゃないです!」
「でも顔が……」
「そ、外が寒かったからです!」
 確かに今日は特別冷え込んでいた気がする。暦の上ではすでに秋は始まっているのだ、体調に影響するのも
無理はない。

「そうだよな、確かに今日は寒かったし」
「あ……じゃあお茶飲みますか? 私のお気に入りしかないですけど」
 話を聞くと煎茶の葉を事務所に置いているらしかった。伊織の紅茶といい、この事務所は飲むものに困ること
はなさそうだ。
「それじゃあ貰おうかな。煎茶はあまり飲んだことないし」
「わかりました。少し待っててください」

 ……その後、湯飲みに入った煎茶を啜りつつ雪歩と談笑した。
 一息ついたことで沈んだ気分も持ち直し、心なしか疲れも取れた気がする。
 ――たまにはこうやって一服するのも悪くないな。
 ほどよい温度になったお茶を飲みながら、そんなことを考えていた。





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最終更新:2008年07月11日 20:13
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